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毎日、客がとれるものならば、ルーディの家に居候する必要もなく、「家」が出来ることもなかった。
大体、今日が昨日になる頃―それに気づいているのでは無いが、長く経過した時間を体が「疲れた」と訴えて教える頃―まで街に立ち、それでも誰にも声をかけられなかったら、諦めてビルのエントランス前に立つ。
初めてそうした日、シールは少し驚いた。
これは勘なのだが、恐らく自分と同じ仕事をしているのだろう女と、エントランスの前ででくわしたのだ。
濃い化粧と、毛皮―といっても、合成だろうが―。毛皮の、開いた前襟の奥には、胸元が広く開いて、丈がとても短い、真っ赤なドレスが見える。
ルーディ所有のビルの住人らしい。
ハンドバッグから出したカードが「家」のものだった。
テナントの従業員では無い。
シールには構わず、カードを機械に通し、ピピピ、と素早く入力し、サっと開いたドアに滑り込んだ。
シールは、このビルの住人はどういう人間なのだろうと、ルーディに案内された時に感じた。そして、随分家賃は高そうだな、と思った。
それが、自分と同じ仕事をしていると思った人間が、入っていったのだ…。
家賃っていくらなんだろう? 思ったより安いのだろうか、そんな疑問を思いつき、次には、ルーディの云うとおり、こういう仕事は、「一番売ってはいけないものなんだから高く」売るものなのかもしれない、などと苦笑した。
どちらにしても、ルーディも云ったとおり、この仕事をしていても「家」を持っている者は多く居るのだから、自分は今まで、随分安く売っていたに違いない、とは思う。
…しばらくは、なじみの客とは顔を合わせない場所に立った方がいいかもな、とカードを取り出しながら考える。
考えるのを中断して、カードを通す。家に入るには、頭を使わなくてはならない。
モニタに、3桁の数字が現れた。自分が借りた部屋のパスワードにこれを足す…。
10進法だったな、と2秒ほど考え、入力した。
ドアが開く。カードを取って、中に入る。
ああ、学校じゃあ、10進法の算数なんて殆どやっていなかったのに、とちょっと嘆く。だが、すぐに、首を振る。学校に行っていた、ということを、自分で思い出すのが嫌だった。
住人側のエレベータが動いていたので―先ほどの女かもしれない―表のエレベータの前に立った。こちらには、↑のボタンが一応ついている。
それを押して少し待ち、扉の中に乗り込んでから、考えかけていたことをもう一度考える。
なじみの客を取ったら、突然値上げすると文句云われるかもしれないし…。
エレベータを下り、「ええと」と少し立ちすくむ。
出たのは、自分の部屋側の玄関だったから、エレベータも住人側のエレベータを使った。
案内されたとき、表玄関を出て、ルーディが「あっちがエレベータホール」と指したのが、こうだったから、エレベータホールからは、玄関はあっちだな、とシールは歩く。
ああ、ややこしい、と首を捻り、しかし、最上階には他に部屋が無いらしいから、迷うなんて心配は無い訳だ、と頷く。
玄関の前で、カードを読ませ、パスワードを入力する。
ビーーーーー、と機械音がして、ランプが赤で点滅した。
何でだ、とシールは一瞬焦る。
「…あ」
と呟き、胸からぶらさげている小さなロケット型の時計を取り出した。
日付が変わっている。明日が、今日になっていた。
「そっか」
と頷き、クソウと毒づく。
ランプが消えるのを待って、もう一度カードを読ませ、自分の部屋のパスワードに意識の上では明日の日付を足して、入力した。
ピー、と今度は軽やかに小さな音が聞こえて、ランプが青になる。
やれやれ、とシールは中に入った。
ちなみに、表を左右のどちらに向けてカードを読ませたかは、覚えていない。自分の部屋には鍵をかけていないので…。
一度部屋に入って、ジャケットを脱いでくると、シールはリビングに入った。
それから、ソファに座り込んで、くるっと部屋の中を見回した。
ルーディが帰っている気配は無い。
さてどうしようか、と首を傾げる。小腹が減った。
ルーディは、好きなものを食べていい、と云っていたな…と思い出し、立ち上がる。
キッチンに向いて2歩ほど歩き、居候一日目で、図々しいだろうか、と思って立ち止まる。
…本当に、ルーディから見れば全く持っていないと同じだろう、すずめの涙ほどの金ならば持っていたのだから、自分用の間食くらいは、買ってくれば良かったかもしれない。
…明日からはそうしようかな、と思い、でも、今はどうしようか、我慢するか?
と考えていた時に、シュゥ、と遠くの方から小さな音が聞こえてきた。
首を捻る。
…と、リビングに通じる廊下に、ルーディの姿が見えた。ジャケットを脱ぎながら歩いてくる。
伏目がちに、フゥ、と溜息をついたところへ、シールが
「お、お帰り」
と戸惑いがちに云った。
するとルーディは、「おや」という顔をした後、にっこり笑って
「ただいま」
と云った。
「どうしました、そんなところに突っ立って」
「いや、あの…。ちょっと、腹が減って…」
「若いなぁ」
もごもごと口の中で呟きながら頭を掻くシールに、ルーディがくすくすと笑いながら云う。
「そうですねぇ、私と同じものを食べていたんでは、そりゃあ、夜中にお腹が減るよねぇ」
そう云いながら、ルーディはソファにジャケットを放り投げ、キッチンに向かった。
「今帰ってきたばかりなんですか? 好きなもの食べていいと云ったでしょう」
「ん、まあ、そうだけど…」
図々しいかな、と思った、と云う前に、ルーディが云う。
「何か作ってあげましょう。好きなもの食べていいとは云ったけど、夜中に食べていいものと悪いものはあるからね」
「いや、あの…」
「君みたいに若い子は、平気で夜中に肉とか食べたりするんだから」
独り言のような口調で云いながら、ルーディは既にキッチンの中で何かやっている。
シールは、「いや、いいよ」と云う余地が無く、黙ってカウンタの椅子に座った。
もう何か作り始めているなら、「要らない」という方が悪い。
「店は、いつも今ぐらいに閉めるの」
カウンタに座っていると、ルーディの姿が近い。黙ってそれを見ていると居心地が悪いので、声をかけてみたシールだった。
「閉めるのは30分くらい前。あとは、軽く店の掃除などをして、帰ってきます」
シールの方は見ないまま、ルーディは鍋の中に何か突っ込んでくるくる回している。
シールはそれを聞いて、時計をまた覗いた。
…ということは、「ノア・カテ」の営業時間は、深夜1時まで、ということか。
今は1時27分である。まさか、0時57分閉店、なんてことはあるまい。
「ふーん…」
「トレインが動いてるのが、1時半くらいまでなんですよ、最寄の駅」
「へえ?」
シールは、ちょっと目を見開いた。
「…そんなこと気にしてんだ」
「そりゃまあ…。閉店ギリギリまでいらっしゃるお客様も居られるから。…うちでくつろいだ結果、家に帰れなかった、ということになるのは不本意ですから」
ルーディは淡々とした声で云って、脇に置いてあったエッセンス壜を取ると、一滴鍋の中に落とし、「コンロの火を止めた」。
皿に液体を注ぎ入れ、手を伸ばして、「さあどうぞ」と云いながらシールの前に皿とスプーンを置く。
スープである。
「冷凍していたもので済みませんけどね、この夜中に、最初から何か作ってあげる気はしませんから」
「…そりゃ、これで充分だ」
シールは戸惑った声で云い、スプーンを取ると一口啜った。
やはり、あたたかい。
「君は? 仕事は」
「……」
サラリ、とルーディが訊いてくる。シールは微かに眉を顰めた後、不貞腐れた声で答えた。
「…出来なかった」
「そうですか」
「まだ、あんたに家賃出せない」
「まあ、いつでもいいですけどね、別に」
頬杖ついて、ルーディがシールを見ている。
シールは、皿だけを見て、皿と口と、スプーンを往復させていた。
「あのさ…」
やっぱり、皿しか見ずにシールが呟く。
「何です?」
「ここのアパルトマンの部屋の家賃って、いくらなんだ?」
「そんなこと聞いてどうします」
「…それ基準にしないと、あんたにいくら払えばいいのか分からない」
シールが云うと、ルーディは、くす、と笑った。
「このビルの家賃を基準にしなくてもいいでしょう。云ったでしょ? 君の今までの『宿と飯』代でいいって」
「……でも…」
「このビルのアパルトマンの家賃は、決まってませんから、基準なんて無いです」
「…え?」
シールがやっと、顔をあげてルーディの顔をまじまじと見る。
「…決まってないって…」
「住人の収入と税金の関係で決めてる。だから、基準なんて無い」
「それって…」
「たくさん稼いでる人からはたくさん、少なく稼いでる人からは少なく。月々で変わることだってあるよ。定額じゃないんです」
「……」
シールは呆れてものが云えない。
「君、もしかして、VIP級の人間がここに住んでると思ってたんじゃない? そんなこと無いよ? 逆に、敵が多すぎる人は住まわせません、そう云ったでしょう」
「…あ、そう…」
太っ腹なのかケチなのか。
ルーディと知り合ってから、何度もそんな疑問を、ルーディに対して抱いているなあと、シールは思う。
「少し、酒が欲しい」
シールは、それ以上家賃についてのことは訊かず、空になった皿をルーディに渡しながら云った。
「ふん…。どんなのがいい?」
「何でもいい…。エチルなら」
「あああ、そんな味気ないことを私には云わないように」
大げさに嘆いて、ルーディはくるりと身を翻し、フリーザから氷、クーラーから瓶を2本取り出した。
それを一旦、台におくと、シールには見えない場所にひっこむ。
そしてまた瓶とエッセンス壜を持ってきて、何か始めた。
「どうぞ」
「…うわ」
出された液体に、一瞬シールは驚く。
それは、真っ黒だった。
「何だ、これ」
「これが、ノア・カテ」
「…黒い猫、…ね」
「真っ黒じゃないんですよ、光に透かしてごらん」
云われ、シールは素直にグラスを掲げ、照明に透かした。
成る程…、透き通った紫が見える。キレイだな、と思う。
「強いから、気をつけなさいよ」
ふふん、とからかうような笑い方をしてルーディが云う。
ぴく、とシールは眉を寄せ、ふん、と鼻を鳴らして口をつけた。
「……」
確かに強い。鼻の奥から額に、何か突き抜けたような気がする。
口当たりがよくて、とても美味なのだが。
何とかグラスを空け、ルーディに返す。
「ノア・カテを作ってあげるのは今日だけですよ。また飲みたくなったら、店に来なさい」
「わかった…」
ぽう、とシールの頬が染まっているのを見て、ルーディが微笑する。
「ブランとどっちが好き?」
「……ブラン…」
シールが小さな声で呟くと、ルーディが
「若いなぁ」
と笑った。
シールは、頬が染まっている顔を不貞腐れた表情にした。
だが、それは長続きはせず、ふう…と息を吐いて、立ち上がる。
「美味かった、おやすみ…」
「はい、おやすみ」
ルーディはあっさり頷いて、キッチンの奥に下がった。
シールが、「後片付けくらいすればよかったかな」と思ったのはベッドに入ってからで、「でも、それは無理だ」と思ったのは、ノア・カテのせいで急速に瞼が重くなるのに気づいたからだった。
瞼が下りてしまってから、「そういえば、おはようとおかえりとおやすみを云った」と思い、「ただいま」も云う時が来るのかな、と思ったところで、意識が途切れた。




