不沸凪茶は、茶番にへそが笑う ①
「義君がクビって、どういう事なの?!」
休職していた目黒栄依子が、職場復帰して早々に凪茶に噛み付いて来た。休職中に世話になった姥田に、御礼の菓子詰めを持って挨拶しようとした所、肝心の本人は退職していた。頻繁に連絡を取っていたわけでもないので、栄依子は理由を知らない。
後輩社員を捕まえて社内事情を聞き出すと、瀬倉部長は解雇され、後釜に就いた姥田は辞職し、あたらしく堅持次長が部長になっていた。休んでいた間に何が起きたのか、栄依子は軽いパニックになり、目眩がした。
そして一連の事件に不沸凪茶が関わっていると突き詰め、彼女が静かに仕事をしているデスクで、まくし立てて来たのだ。
「義君は病弱な私の為に職場でも気遣って、代わりに仕事をフォローしてくれたり、病欠中も優しいメッセージをくれたりしてるのよ! それを退職に追い込むなんて酷いわ!!」
姥田はヘッドハンティングに遭い、自分から辞めたのだが⋯⋯姥田から栄依子には連絡もなかったようだ。スマートフォンもデータも抜かれてまっさらになっている上に、今の姥田には彼女に関わる理由がない。むしろ心配して欲しいのは姥田自身だろう。
姥田にとって栄依子は自分の株をあげるための存在でしかなかった。被害妄想の強い栄依子でも、その事に気がついたはずだ。彼女も姥田を都合良く利用していたに過ぎない。利害の一致した二人の本当の犠牲者は、かつての自分といま現在の凪茶と、姥田が課長時代に凪茶以外に割り振っていた課内の社員達だ。
自分の存在を忘れられて辛いのと、姥田によって保たれていた特権⋯⋯休んでいても入って来た給料があてに出来なくなる。栄依子の焦りと不安──そして怒りは、姥田を盾にした自己保身だと凪茶は最初から見抜いていた。
噛みつく相手が凪茶という事で、課内の社員達の耳が二人の言葉に集中する。未夢などは栄依子に一方的に嫌がらせを受けた過去があり露骨に嫌悪感を向けていた。
部内の者は皆、凪茶が栄依子のために仕事をフォローし続けて来たのを知っている。なのに栄依子自身は知らない。気軽に彼女の仕事を引き受けてくれたのは姥田だけ。あとの者は病弱な自分を冷たく扱う人でなしだと思っているからだ。
姥田は優しかったかもしれない。ただ栄依子は気づいていない。姥田が時折彼女に連絡を入れて気遣っていたのは、彼女の夫が心療内科の医師であるからだ。栄依子と懇意にしていたのは、いざという時の逃げ道だ。彼女の口添えがあれば、栄依子同様に、ある程度融通の利く診断を下していると考えていたのだ。
課内は固唾を飲んで二人の様子を見守っている。会社の人間から経緯を聞いたのならば、本来感謝すべき相手に礼を述べるはずだ。教えた社員もびっくりしただろう。凪茶に感謝を述べるどころか、ヒステリックに怒鳴りつけたのだから。
凪茶は噛みつく栄依子を見もしない。猪突猛進する猪‥‥いや闘牛か。傍から見ると不思議に思うだろう。結局何もしていない姥田には感謝するのに、凪茶に怒りをぶつけるなど常識的には意味がわからない。
お前の休んでる間に仕事を引き受けていたのが私だと言った所で、傷病者の正当な権利を行使しただけと、開き直るだろう。栄依子が休んだ分をカバーした人がいるのに、もう少し感謝すべきでは‥‥そんな正論をぶつけても意味はない。彼女に理屈が通じないのではなく、根本の認識がズレているせいだ。
「新人の頃からあの人に世話になっておきながら、留めもしないなんて。不沸さんて本当に自分勝手で不義理な人ね!」
課内‥‥いやすでに部内の人間が集まり、栄依子が騒げば騒ぐほど訝しげな表情の社員が増えてゆく。社内の人間は凪茶が以前から姥田を助け、怒りをぶつける休職中の栄依子の分まで仕事を補っていたのを知っている。
また姥田が昇進し、部長になった時に起ち上げたプロジェクトの出鱈目な企画も、結局凪茶が案を出して資料を作成し、姥田がプレゼンしやすいように計らっていた。
至れり尽くせりの極み。それを一方的に台無しにしたうえに、凪茶や会社を裏切り、某国企業のヘッドハンティングに乗っかり、責任放棄をしたのは姥田なのだ。ニュースにもなっているのに、休職していたとはいえ、栄依子が知らないはずがない。
そんな凪茶に対して休んでばかり、一番姥田や凪茶に迷惑をかけた栄依子が文句を言う筋合いはない。姥田が自分勝手に辞めた責任まで凪茶のせいにする理不尽な栄依子に、周りはドン引きしていた。
凪茶は肩を竦めて仕事を続ける。録音はもちろん、仕事のふりをしてPCモニターから栄依子の様子を録画しておくのも忘れない。
「話、聞いてるの!!」
苛立った栄依子が凪茶の襟首を掴み、自分の方へと顔を向かせようとする。病弱で長期休職していて色艶の良い栄依子が、彼女の給料分も働いていたのに、同じ賃金の凪茶に言いがかりをつけた映像がバッチリ撮れる。面倒臭くて、うんざりした凪茶の顔はおあつらえ向きにやつれてみえた。
「姥田はさ、当社の機密を売ろうとした挙句、某国企業の機密を盗もうとして捕まったんでしょ? 目黒さんは、私に犯罪に手を貸せば良かったとでも言うの?」
姥田について報道に出ていた以上の情報は、凪茶も知らない。栄依子の言いがかりは、姥田のために犠牲になれ‥‥そうとらえられてもおかしくない。あえて凪茶が犯罪と告げたのは、激昂する栄依子に対しての皮肉も込めていた。
責任ある立場の人間が、無責任に職場放棄したのだから、怒りたいのは凪茶達現場の人間である。病欠していた栄依子はある意味部外者に過ぎない。ろくに仕事をしないで凪茶の貴重な時間を奪っておきながら、貰うものはしっかり貰い、手当ても厚いとなれば、思う所のある社員なら激しく反撃しただろう。
「はぁ? 誰もそんな事は言ってないでしょう? 馬鹿じゃないのあなた?!」
凪茶の冷めた態度に、栄依子は鼻息荒く暴言を吐き捨てた。ヒソヒソと社内がざわつく。病弱なはずの栄依子が元気に怒っていて、胸ぐらを掴まん勢いでまくし立て吠え立てる。課内を淡々と支えて、いまも抜けた二人分の仕事‥‥目の前で怒っている人間の分まで仕事をしている凪茶はろくに休憩も取れず、さすがにげっそりとした表情で理不尽な言葉に耐えていたからだ。
「⋯⋯あれは酷いな」
「⋯⋯栄依子の方が休んで元気有り余ってるよね? なぎちゃん、二人の部長の後始末に、彼女の仕事まで報酬なしでやっているのに」
「⋯⋯ウチって、病欠中もある程度給料補償されてるんだっけ」
「あぁ、そう言うことか」
「何がだ?」
「許可を出していた姥田がいないと、目黒の休職補償が怪しくなるんだよ」
ヒソヒソ声をあげる社員の中で、未夢が凪茶のために煽り誘導していた。
未夢は目黒栄依子の職場復帰前に話をしていた事が現実になり、ここぞとばかり攻める。
────私、あの人嫌い。すぐ絡んで来るのに、論破されると弱者ぶって悪者にされるし────
────あんたが強者過ぎるからよ。名字が目崎じゃなくて目光だったら、もっと病みハラされていたわよね────
────そんな理由?! 言いがかりじゃん────
────今回は私が、かなり酷い言いがかりをつけられるから、未夢は煽りよろしく────
明るい未夢に対して、病弱な目黒栄依子は暗い。名字が似ているため、入社当初から比較されやすかった。そのため未夢は未夢で栄依子が出勤中は何かと絡まれずっと鬱憤が溜まっている。
被害意識の強い栄依子は、周囲のヒソヒソ声に反応して、ようやく凪茶から手を離す。彼女には周りが全て同調していて、敵に見えたはずだ。
息苦しくゲホゲホと噎せて咳をする凪茶を無視し、悔しそうに逃げ出し、仕事もせず勝手に早退してしまった。姥田の時はそれが通じた。しかし新たに部長となった堅持は真面目な男だ。凪茶がずっとつけていた業務日誌を何度かチェックした事があり、姥田と目黒の関係性や振る舞いに眉を顰めていた。休職明け早々に業務を妨害し、一方的な暴力を振るう社員を見逃すはずがなかった。




