不沸凪茶は、新芽を摘む先輩に熱湯を注ぐ ④
「不沸凪茶!どういう事だ!!」
重役の出揃ったプロジェクト会議から、這いつくばるように逃げて来た姥田。いつものおちゃらけた態度を豹変させ、顔を真っ赤に脂をギラつかせ、本性をさらけ出しながら凪茶に向かって怒鳴る。
優雅なお茶の時間を楽しみ、残りの雑務を終わらせて帰り支度を始める凪茶。何故上司が怒っているのか、心底わからないという顔をする。
「どういう事だと騒がれましても‥‥何がどういう事なのか、まず説明していただかないと」
事情をわかっているのに冷静に煽る凪茶。理不尽に怒鳴られても、姥田の主観だけで話をされた所で、本人にしかわからない。
「お前が作った企画書が、殆ど何も書かれてなかったせいで、俺が重役の前で恥をかいたんだよ!!」
「説明しやすいように姥田部長用のものは、特に細かくしっかり書き込んでいたのを確認しましたよね? 大事に保管していたものを、わざわざ私がすり替えたとでも言うのですか? だったらそんな無駄な事するより、始めから提出しませんよ」
青くなったり赤くなったりしたせいか、姥田の目が血走り、ハァハァと息が荒くて気持ち悪い。凪茶の襟首を掴む勢いで近づくせいでその息が臭い。
凪茶はむしろ姥田の管理不足を疑う目で見る。姥田の為に時間を割いて作り上げた企画書を無駄にされ、プレゼンの失敗を責めかねない。
「‥‥‥‥あっ、ま、まあ確かにそうか。そうだよな。疑ってすまない」
真っ先に凪茶へ八つ当たりをした事に、さすがの姥田もバツが悪く思ったのか、素直に謝る。部内では姥田のあまりの豹変ぶりに、ヒソヒソと何やら話し出す。
失態を犯したが、すぐに降格とはならないはず。それでも不様な姿を晒してしまった。部長としての威厳を失い、しばらくは馬鹿にされる気がして姥田は震える。
────ブーッ、ブーッ
姥田のポケットに入っていたスマートフォンの電話が振動する。。緊張して電源をオフにするのを忘れていた。知らない番号から着信。怪しい電話など出たくはないが、今は絶好のタイミングの救いの電話だった。
「凪茶ちゃん、すまないがこれで」
凪茶からの追及される前に、電話に出て凪茶の席から離れる。悪戯や自動音声の詐欺電話かと思いきや、聞いた事のない企業からだった。
姥田は自分のデスクに戻り、急いでPCを起動し会社名を調べた。聞き慣れないのも当たり前で、某国企業のグループ会社からの電話だった。
「────新プロジェクトの企画資料を拝見しましたよ。姥田さん、当社に来てその腕を振るう気はありませんか?」
プロジェクトの資料を見たという某国の企業からの誘い。普段は鈍い姥田も、今日さっき起きたばかりのトラブルの原因に結びつけるのは早かった。
「俺‥‥私の実力を買うと?」
「────ええ。待遇も今の倍は補償しますよ。電話で話すのも何ですから、一度お会い出来ますか?」
「是非、話を聞かせて下さい。⋯⋯はい⋯⋯はい、そうです」
みるみる顔色が上気する姥田。渡りに船。見るものが見ているものだと、電話の後で一人感心する。企画資料を持ち出したのは、電話の相手だとわかった。社内に企業スパイがいるのかも‥‥それを報告すれば失態を挽回出来るかもしれないが、肝心の資料が相手の手にある以上、取り返す必要があった。
それに自分の実力を夕月商事より高く評価してくれるのならば、まず会ってみるべきだろう。
「⋯⋯と、まあ、姥田のグルグル回る思考を追うとそんな感じじゃないかな」
仕事の後、凪茶と未夢はお茶を楽しんだしたばかりの用務員室へ行き事後報告を行う。菫は御局様‥‥渡嶋と談笑中だったが、嬉しそうにお茶の用意をしてくれた。凪茶達が何をやっているかは、渡嶋は察している。未夢がビビッて緊張しているので、みんな面白がった。
「企画書‥‥もとはと言えば、なぎちゃんが書いたから、その評価はなぎちゃんに向けられたものって考えないんだ‥‥怖っ」
「重役会議‥‥相変わらず見る目のない連中ばかりだわ」
「頼子さん、辛辣なのは変わらないのね」
少し空気に慣れた所で、凪茶は姥田の様子を話を始めた。ご機嫌で帰った姥田の様子から、絶妙なタイミングで引き抜き話の電話が来た事を知り、凪茶もホッとした。思い込みが激しく、単純思考の紐をつなぐには、連鎖の時間は短いほど効果的だ。
単独で見ると何ともない調査データを示した散布図による年代別推移。しかし同ページの図を重ねるとQRコードになる。コードを読み取った先が某国企業のデータなのは、言うまでもない。相手がその意図に気づくかどうか、まるで姥田が引き抜く側を試しているようにも見えるだろう。
「手が込みすぎてて、逆になぎちゃんが本当に姥田の為に頑張ったように見えるわ」
「能力以上に高く見積もってもらえるのが大好きなんだから、本望でしょ。隠していた本当の実力を示せば高待遇約束されたようなものなんだから」
そんな都合の良い実力があるのなら、とっくに才能を発揮していただろう。凪茶は皮肉っぽく語った。
あくまで善意のお節介。ハニトラ‥‥ヘッドハンティングに対して、決めるのは姥田の意思にかかっている。十中、十は了承するだろうというのが、ここに集まった者の見解。
「出来ればセットで、きっちり釣り上がってもらいたいよ。空いた枠に、菫さん推薦出来るから」
「そうね。菫に職場復帰してもらえると、こちらも助かるわ」
「二人とも、私を買い被り過ぎて困るわ。長年主婦しちゃったから、用務員さんの仕事でも大変なのよ」
謙遜するが、凪茶は美味しいお茶の時間の為に、渡嶋は同僚の能力が衰えていない事を理由に毎日のように復帰を促していた。
「私だけ疎外感が‥‥。セットって目黒さんの事でしょ?」
「そうだよ。休職中にも関わらず、結構派手に活動していたからね。姥田が辞めると一番困るのは彼女だから」
医師の診断で傷病手当を得ている他、病気を理由に遅刻や早退の常習、急な欠勤、長期休職などを繰り返している。今までは彼女の補佐を姥田が行っていた。その姥田から、課外の時でさえ凪茶に仕事が押し付けられていたのだ。
姥田が退社すれば、必ず文句を言いに来ると凪茶は考えている。やってもらって当たり前の特権意識が強いので、自分の言動のおかしさに気づかず姥田と共に墓穴を掘るだろう。
「要領の良さでは似たもの同士。案外転職先でもうまくやるかもしれないけどね」
姥田達は退社してもゴキブリ並にしぶとい。事実をねじ曲げてでも自分の正当性を主張し、生還して来る可能性がある。
「不沸さんの心配は分かる。菫の事を含めて、人事には私から言っておくわ」
凪茶と未夢と渡嶋の言葉に賛同した為、菫は少し困り顔をしていた。安定して職務を果たせて、職場の不公平がなくなるのなら、会社側も了承する。何より凪茶が欠かさずつけて来た業務代行の記録や、保健組合に調査を依頼し出して来た結果、消せない休職中の活動の証拠を見れば、損害賠償を請求出来るレベルだ。
「姥田の動向次第で、ようやく夕月商事も働き方改革が進みそうね」
あまり進み過ぎても、お茶の時間がなくなるので凪茶としても匙加減が難しい。本音がやっぱりそこなんだと、未夢が呆れていた。
姥田はあっさりと夕月商事を辞めて、某国企業へ引き抜かれて行った。部長へ抜擢されて、わずかふた月程度で凪茶の部内は部長がいなくなる異例の事態になった。
人事部もさすがに見過ごせない状況になり、新しい部長はスキャンダルな噂も、いい加減な仕事ぶりの話を聞かない堅持次長が順当に昇進した。
一方、姥田は新たな会社で、夕月商事での仕事ぶりや、交流関係、取り引き先の会社の具体的な数字や、新たな販売戦略や新企画の事などを、根掘り葉掘り問い詰められていた。
「話が違う。それに俺はそんなに詳しくは知らない」
高級待遇はあくまで情報と引き換え。要するに姥田は自分から企画書を通じて、自身の売り込みをしたぐらいだから、かなりの情報を得られると思われたのだ。
姥田は企画書の内容などろくに見ていないから知らない。面会に来た美人社員に、ちやほやされて夕月商事を辞めて来てみれば、パスポートをまず取得するように指示された。
いきなり某国企業の本社勤務。待遇は嘘じゃなかったと心を踊らせたのも束の間、用意された住まいは味気ない無機質なコンクリートむき出しの狭い部屋。硬いベッドにユニットバスがついているだけマシな牢獄のような部屋だった。
外出は許されす、手持ちの品は、パスポートからスマートフォンまで全部取り上げられた。情報を全て吐き出せば自由にしてやる────質問を繰り返す能面を被ったような男達は、交代で監視をしながら毎日同じ質問を繰り返して来た。
「⋯⋯どうしてこうなった」
助けを求めようにも連絡手段は全て奪われている。彼らが欲しがる情報も、当たり障りのない調べればすぐに分かることくらいしか、姥田は本当に知らない。
全て他人任せ、手柄を奪い要領良く立ち回って来ただけ。姥田が空っぽな口先だけの男だとわかるまで、そう時間は掛からなかった。
「スパイ容疑で勾留されたみたいだね」
姥田のその後は、ニュースで知る事になった。使えないと判断された姥田は、利益回収の為の人質扱いされた。
「人質に価値があれば取引は成立するんだけどね」
政府の関係者から元々勤めていた夕月商事へ連絡が来ても、すでに辞めた人物であり無関係だと応じた。御局様が動き、会社側は姥田が持つ情報は何もないと知らせると、政府も無理な取引はせずに見切りをつけた。
姥田に価値がないとわかると、姥田はあっさり放逐された。彼の資産は某国企業に差し押さえられ、スマートフォンのデータは全て抜かれた。全てを失った姥田は、夕月商事に再雇用を願い出るが、温い人事部も流石に呆れて、どの面下げてやって来た、そう告げて門前払いした。
「後は某国企業から、私の本来得るはずの報酬を回収させてもらうために、もう一働きしてもらいましょうか」
「なぎちゃん、やっぱり怖い」
「何を言ってるの。貴重なお茶の時間を邪魔した罪は、姥田の人生より重いのよ」
入社以来味わい続けた渋いお茶の苦み。姥田にもきっちりと味あわせて、ようやく対等だと言い張る凪茶。未夢はこの同期だけは敵に回さないように気をつけようと、改めて思った。




