不沸凪茶は、出涸らし部長を許さない ②
未夢と取引をした翌日。会社は休日で部長は朝からゴルフに出かけて不在だと、未夢や部長自身のゴルフ仲間からのメッセージで確認済だ。
凪茶が不在とわかっている部長の家を訪れたのは、部長の奥さんの瀬倉菫さんに会うためだ。
瀬倉部長の家は凪茶の頭くらいの高さのフェンスに囲まれていて比較的大きく、門もポストに宅配ボックスが付いている。庭も広い。奥さんの趣味なのか、ガーデニングの花壇に花が咲いている。車庫には車がないので部長は留守なのは間違いないが、目当ての人物も不在かもしれない。
────ピンポーン⋯⋯
「⋯⋯はい。どちら様でしょうか」
「お忙しい所すみません。私、夕星商事で瀬倉部長にお世話になっている、不沸と申します」
聞いていた年齢より、部長の奥さんの菫は若い上品な声だ。セールスや詐欺を警戒して、居留守を使われる可能性もあった。モニターで映る凪茶の姿が、若い女性なので一応応対してくれたようだ。アポなしの見知らぬ相手の時は、あればボイスチェンジャー機能にするなど後で注意しておこうと凪茶は思った。
「あら、夫の会社の方ね。散らかってますが、どうぞ」
出迎えてくれた部長の奥さんは、部長より歳下で社内恋愛の末に結婚した。見た目に少し窶れがあるのが、かえって若々しく見える。
玄関を見ると、散らかってるというのは謙遜だとわかる。丁寧に掃除が行き届いていた。急な来客なのに、家庭特有の匂いがしない。会社の部長の雑なデスク上と違って片付いて綺麗いな家屋だった。客間に通され、お茶を用意してくれる。
「いただきます」
淹れてもらったお茶も美味しい。凪茶は本題を忘れるところだった。
「夫は不在ですが、何か用があったのですか?」
「用があるのは奥さまの方ですよ」
「私?」
「はい。最近部長の様子がおかしくて、ご家庭で何かあったのではないかと思いまして」
はじめはきょとんと凪茶を見る菫。家庭の話をされ、急に目を落とした。
「娘さん‥‥煌蘭さんが、部長と大喧嘩して出て行ったそうですね」
「どうしてそれを?!」
「先に社内での事実だけをお伝えしていいですか? 奥さまや娘さんの今後の生活にも影響することですので」
「私たちの⋯⋯?」
「ご家庭の情報を教えてくれたのは、部長ご自身です。部長により、セクハラ被害を受けていた私の同僚が記録したものです」
凪茶は表情を暗くする菫に、彼女の夫自身が女性社員へと向ける言葉の数々を聞いて掠れた悲鳴を吐き出した。
「給湯室には古い防犯カメラがあるのをご存知ですよね。昔、お茶の味に関して揉めた経歴も」
菫は顔を上げて、思い出すように頷く。夫の数々の発言をどう捉えたのかは、まだわからない。凪茶は菫の様子を見守る。彼女の淹れてくれたお茶が美味しいので、おかわりをもらうのを忘れない。
「あのカメラはいまは壊れてダミー扱い‥‥機能していませんが、新しい小型の防犯カメラが設置し直されているんですよ。部長はカメラの存在なんて忘れているようでしたが」
音声、それに映像。夫が若い女性社員に狭い給湯室で言い寄る様の醜い姿が、凪茶の持って来たタブレットに大きく映されていた。
「かつては嫌な相手に湯飲みに細工をしたんじゃないか⋯⋯それで揉め事があり、防犯カメラが置かれたそうですね。今は陰口やハラスメント行為への監視の意味で置かれていたんです。罠を仕掛けたようにお思いになられるかもしれませんが、目崎にはセクハラを注意させています」
もちろん置いたのは凪茶だ。未夢が泣きつく以前から予測していた。だから彼女がサボっている事もわかる。サボってスマートフォンを弄るなら、セクハラ発言を録音をしておけとも伝えたのも凪茶だ。部長が未夢の注意を無視してセクハラを繰り返し、段々馴れ馴れしくなってゆく様子は、映像を見れば一目瞭然だ。事実の積み重ねと、もう少し未夢に暴行を働く様子が欲しくて泳がせていた。未夢がそれを知ったら、餌扱いされたと怒りそうだ。
「証拠がなかったのですが、部長はセクハラだけにとどまらず、最近はパワハラ言動も増えています。最近辞めた社員がいたのですが、どうも彼に取引先との契約で水増し請求をさせた疑いがあるんですよ」
「それはどういうことなのでしょうか」
「我が社では販売製品の契約を取るために、個数を増量したり、ノベルティをつけたりするのですが‥‥どうもそのコスト分を嵩増しして、実際はあちらの担当と物品によるキャッシュバックを行っているようなのです」
まだ確定ではない。ただ夜の店に出入りする際のお土産の出処が、契約した会社の物なのは特定済みだ。お金に変えやすい物を選んで得た資金でブランド品を買った事も一度や二度ではない。辞めた社員は契約に関して部長と揉めてから、執拗にハラスメント行為が行われたと証言を貰った。
「セクハラやパワハラだけなら過去の件と同様に注意で終わり、お咎めなしにされるでしょうが、不正や横領などの行為が確証されれば、解雇となります」
「それは⋯⋯そうでしょうね」
何か心当たりがあるのか、菫は黙って考え出した。凪茶は急かす事なく、ゆっくりとお茶を楽しむ。
「昔は休日もよく三人で出かけて仲が良かったのですよ。反抗‥‥とは違うわね。多感な時期に、あの娘はあの娘で父親から発する香りに敏感だったのでしょう。あの人はあの人の仕事上の言い分があるかもしれませんが⋯⋯自分勝手な裏切りや背信行為を許す理由にはなりませんよね」
菫が何か、覚悟をして決意をしたのがわかった。
「ずっと不思議だったんです。もう不沸さんはご存知ですね、渡嶋と私が貴女と同じ会社に勤めていて、同期の友人だったと」
「はい。渡嶋頼子さんは、御局様と呼ばれながら私達後輩を、今も見守ってくれています」
「元気なのね。あの人ちっとも話題に出さないから。当時私はお茶汲みしか能がないって呼ばれていて、給湯室の主なんて馬鹿にされていたっけ」
菫は若い頃はかなり美人だっただろう顔を曇らせる。当時の夕星商事は今より酷い業務内容で、女は雑用とお茶汲みだけしとけ‥‥って、時代だった。菫さんも時代の荒波に呑まれ狭い給湯室しか逃げ場がなかったのかもしれない。
「だから実際に当時の課長が体調不良になった時‥‥課長の湯飲みのお茶の濁りから私が真っ先に疑われたわ。絶対にそんな事はしていないし、する意味もなかったのに⋯⋯」
やっかみは主に同性からだ。男性社員は雑で乱暴だが、菫に対して意地悪をするような者はいなかったらしい。社内の課長への認識は共通で、犯人捜しの論点が固定観念にとらわれた。
「疑われた私を庇ってくれたのは同期で同僚の渡嶋と、あの人だったの。当時から給湯室に来て、未夢さんにやっているように声をかけて来たわ」
防犯カメラの映像を見るのは複雑な気分だったようだと、菫の気分が凪茶にも伝わる。共に歳を重ねた夫が、同じ手口で若い女性社員に話しかける姿は見たくないものだ。
「凪茶さんに言われて、ようやく腑に落ちたの。私は悪くないよ、そう言い続けて庇ったのではなく、言い続ける事で私の責任にしたり、頼れる優しい男像を作っているのではと‥‥」
「菫さんがいたたまれなくなって寿退社した後に、訝しんだ御局様が防犯カメラの設置をしたのも、本当の犯人に目星がついていたからですよね」
「課長が仕事を辞めた事で、夫の出世は早まり私も幸せを享受出来たわ。でも‥‥ずっと引け目を感じながら、夫を立てるのが辛くなって来たの」
「娘さんとは、部長との馴れ初めをお話したのですね」
「えぇ。あの娘の父親への態度が変わったのは、ちょうどその頃からでした。あの娘は気づいたのかもしれませんね。毎晩とは言いませんが、キツい香りを纏う父親に不信感を増し、反抗するようになって⋯⋯それから私と娘は互いを守り合うようになりました」
「部長の家庭内のぼやきは、煌蘭さんは別として、大人しく従うはずの菫さんまで彼の意に逆らうように感じたからですかね」
「直接ではないのですけれど‥‥常に娘の肩を持てば、鈍いあの人にもわかったようです」
互いに庇い合う母娘に疎外感でも覚えたのだろう。凪茶は答え合わせが済んだので、本題に移ることにした。
「真相は時の彼方。でも不正を是と動ける人物は、次への躊躇いがなくなりますからね。私が奥さまに相談に来たのはそのためです」
証拠を揃え告発すれば、瀬倉部長は解雇になるのが確実だ。夕星商事は中堅所だが、大企業真守グループ傘下の会社。解雇理由が明白になれば、再就職はかなり厳しい。
「部長は自分が悪いので、どうなろうと構いませんが、奥さんや娘さんの身を心配されている方がいますので」
「頼子さんらしいわね。わかりました、私はどうすればよいのでしょう」
「取引による着服金額がどれくらいか会社への損害賠償を含めて考えると、退職金はあまり期待出来ないと思います」
凪茶は今のうちに財産整理を行い、部長が把握していない財産は取れるだけ取っておくように奨めた。娘との相談の時間も必要だろう。
セクハラや浮気未遂や夜遊びを盾に離婚となれば、慰謝料を請求出来る可能性はあるが、解雇された部長には支払うための収入がなくなる。家は手放し売却金が折半となるにせよ、菫と娘の煌蘭の当面の生活費を賄う資金は大事になる。
「仕事⋯⋯見つからないようなら、当社へ来て下さい。正規は難しいかもしれませんが、部長の抜けた分の人員を急募しますから」
ゴルフから帰って来た部長に菫さんが全て話してしまえば、凪茶の思惑が崩れるかもしれない。解雇は避けられないが、家庭の問題は菫の意思を尊重する。凪茶は美味しいお茶をいただき、ご馳走様でした、そう告げて帰った。




