不沸凪茶は踊らされない ①
じわりと暑い梅雨時。もっとも雨はろくに降らず低温スチームで蒸されているようだ。会社内は冷房設備は整っている。中堅どころとしては広いオフィス、それに除湿機能は弱いため、不快な暑さを吹き飛ばそうと暑がりな男性社員達と寒がりな女性社員達との室温設定をかけた戦場になる。
「蒸し暑いなら除湿機能付きのエアコンにすればいいのに」
「あんた、パンがないならお菓子を買えみたいな発言やめた方がいいよ。エアコンが壊れていないのに、最新機能の物に買い替えるわけないじゃない」
そんな予算があるなら社長の銅像でも建てそうな古い体質の残る夕月商事。不毛な抗争は頼子課長に任せる凪茶だった。
頼子課長の前には、万年係長の席を脱出して課長補佐となった青留が黙々と仕事をしている。昇給した事の喜びよりも、どんなにしょぼい体験も持ち上げまくる未夢から通路を挟んだ席に移れてホッとした様子だ。
未夢は青留のかわりに係長となり、凪茶は頼子が以前担っていた主任となった。凪茶の所属する部署は営業と総務を合わせたような販促部。堅持部長が部内の再編を行った結果、頼子の受け持つ販促部一課だけが人数が少なく、平社員は菫と産休中の賀原だけになった。
解雇されたり辞職したりと、立て続けに社員が減ったための緊急措置だ。原因の全てが呑気な未夢のせいになっていたのだが、当人はケロッとしている。
人数は少ないが、未夢の情報収集能力、凪茶の処理能力、菫のサポート能力が高くバランスが保たれていた。突発的な上役の思いつきイベントや、契約会社からの無理な注文が入らなければ。係長になっても無駄話が多い未夢がいても充分にやっていけた。
「役職ついたけどさぁ、やってる事は変わらないよね」
「それなら昇給手当ての分給料上がったんだから、仕事を分けてあげるよ」
「ごめんなさい、忙しくて大変です」
本当にこいつは‥‥そう思う凪茶だったが、堅持部長がとった隔離措置のおかげで他の課から仕事を押し付けられる事がなくなり、実務は実際減った。あとは未夢がトラブルを持ち込まない限り、早々忙しくなり、優雅なお茶を楽しむ時間がなくなる事はないだろう。
凪茶のそんなささやかな願いは、当然目の前のトラブルメーカーを触発する。余裕があるからと未夢がスマートフォンを弄り始めた時点で、凪茶は嫌な予感がして、デスク上のペン立てから油性マジックを取り太ペンの方のキャップを外す。
「あっ、大変。通知来てたよ!!」
そわそわして、凪茶にカメラを向ける未夢。凪茶に断りもなく未夢がスマートフォンのシャッターを切る前に、油性マジックのむき出しのペン先がカメラのレンズ部分を直撃した。
クロックマゲーム、最近流行りのスマートフォンのアプリだ。黒いくまさんは映像を餌に育ってゆく。撮った写真や与えた回数によって、上がるステータスが細かく設定されており、レベルが上がるとキャラクターや部屋の衣替えが解放される仕組みだ。
中でもミッションと呼ばれるイベントは不定期に発生する。クロックマから餌を求める通知が来て、三分以内に写真を送る必要がある。連続で成功する度に、ゲーム内ポイントが通常より多く加算されたり、課金アイテムなどがポイントで買えたり、称号が貰えたりする。ただし記録が途絶えると与えた経験値や貯めたポイントリセットされるシビアなゲームだ。
未夢が楽しそうにクロックマゲームを始めた話をした時から、凪茶は備えていた。絶対に何かやらかすだろうという意味の信頼度は高いからだ。何よりクロックマゲームの評判が良くない。
まず寝ている時はおやすみモードが使えて通知は来ないのに、起きている時、とくに学校や仕事中には設定出来ないのがおかしい。設定を出来なくはないのだが、活動時間中の方が通知が多発するという攻略チームの検証があるらしい。
アプリ登録時点でGPS機能が追加され、利用者の位置を特定して狙い済ましてデータを集めているのでは‥‥そんな噂がある。中には見せたくない私文や重要機密を前に写真を撮って送ってしまいトラブルになったケースもあった。クロックマゲームは危機管理意識の低い現代人を狙ったスパイゲーム──黒悪魔と呼ばれるようになっていた。
「なぎちゃんひっどーい!!」
「あらあら、大変」
レンズを黒い点で潰した油性マジックは、勢いそのままに回転しながらスマートフォンを越えた。そして未夢の鼻の頭を黒く染め、デスクに広げられた資料の上に落ち、点々と黒い染みを付けた。菫がやんわりと驚き、未夢の真っ黒の鼻をアルコールで落としてくれた。
凪茶の機転で映像は真っ黒に出来たが、会話等も筒抜けの可能性がある。そんな事を言っても最近の電子機器そのものに何かしら仕込まれているのは公然の事実だろう。
「警戒心の強いあんたが何でそんなゲームやっているのよ」
陰謀めいた噂はともかく、情報に関してうるさい未夢が自分から罠に掛かりに行くのは珍しい。
「友達に奨められたんだよ」
「未夢に友達いたんだ⋯⋯」
「なぎちゃんに言われるのは、どうかと思う」
「本当にそうねぇ」
未夢だけでなく、菫も凪茶のとっつきにくい性格を理解して可哀想な人を見る目でにみる。もちろん彼女たちの冗談だ。
「次はスマホごといくからね」
わざわざ危険性を重視した行いを未夢がしたのは、理由があるはず。友達というのは未夢の別の仕事に絡んでいそうなので、凪茶はあえて理由を尋ねずスルーした。
「⋯⋯⋯⋯理由を聞いてよ、なぎちゃん」
「嫌よ。見ず知らずの他人のやらかした事に興味はないよ」
「流石、なぎちゃん。もうわかってるんだ」
わかっていようといまいと、未夢の友達とやらに対して口を挟んで関わり合いになるのは真っ平ごめんだ、そう凪茶は突っぱねた。内部資料でも公開したのだろう。同じ事をしてみせたのは、未夢のあざとい策略だった。
「────ムーンカフェでスペシャルランチはどうでしょうか」
「そこって、予約が取れない幻のランチの店じゃない⋯⋯」
ランチが美味しいと評判のお店。値段はそこまで高くない。ただ発信力の高いインフルエンサーが紹介してから爆発的な人気が出て、ランチタイムは予約制になってしまった。
「よしっ、パスします」
「やった‥‥えっ、パス?! なんで?」
「値段云々より怖いって」
未夢自身はうまく溶け込んでいるつもりだけど、時折無茶を通す様子で、彼女が何者なのか察せられる。それにカフェなら静かにお茶を楽しみたい。待つ人々の殺気だった人気店で、昼休みの時間を気にして急かされながら食べるランチが美味しいはずがないからだ。
「パスの理由って、そっち?!」
ガックリと、机に突っ伏す未夢。その際にデスクのパソコンのマウスが動いてしまう。そして手の触れた決定キーによって実行中の入力作業が消去してしまい、再び凪茶に泣きつくことになった。
「えっと、ムーンカフェでディナーはどうでしょうか? ディナーなら空いているし静かだし、食後はお酒じゃなくて美味しい紅茶や珈琲でゆったり楽しむの」
「それならいいね。でもミスった作業は自分でやんなよ」
「ちょっ、手伝ってくれないの」
「それとこれとは話は別」
ドライな凪茶の言葉に未夢はまたもガックリするが、用件はこなしてくれるので凪茶の気が変わらないよう、それ以上の言葉は引っ込めた。




