不沸凪茶は褒め上げて、祀る ②
「うぅ⋯⋯⋯⋯頭が痛い」
「飲み過ぎ‥‥というか、叫び過ぎよ」
カラカラに枯れた哀れな同僚の姿。それでもきちんと遅刻せずにやって来るので偉いと思う凪茶だった。今日から作戦開始なのに、未夢はあの後も目一杯歌い騒いでいた。
「あらあら未夢ちゃん、声が出ていないじゃない」
菫が給湯室へ向かい、常温のはちみつレモンを作って未夢に飲ませる。
「おいしい⋯⋯優しさが喉に染みるよぉ」
「未夢ちゃん、今日はお茶やコーヒーは止めておきなさいね。それとあまり喋らないように、マスクもしておきなさいな」
「あっ、でも作戦が」
未夢は青留係長への対策について、菫へ話を通しておく。
「それなら彼が来るまで、これも舐めておきなさいな」
何故かポッケから出てくる飴ちゃん。未夢のストレスが溜まるのは同じ課内の席に座る菫も知っているので気にかけていたようだ。力強い援軍を得て、未夢の戦闘態勢はバッチリ整った。
菫は出社時間ギリギリにやって来た青留に注意しに行く。菫がかつての同僚であり、解雇された上司の奥さんだとわかっているので恐縮そうに話す。
「菫さんを係長の隣に置けば良かったのに」
頼子がそうしなかった理由は、時間と共に慣れて菫の優しさに青留がつけ込むと思ったからだろう。憧れと同時に苦手意識があるのか、実際青留係長から菫に声をかける場面は少ない。
(⋯⋯頼子さんの見立て通りか。菫さんから声をかけてもらって喜ぶように見える)
凪茶は、菫と青留の様子から、頼子の考えが正しい事を感じた。同じ課内に菫を置いた事により、青留のやる気に少しだけスイッチが入ったようだ。
しかし青留にとっては、マイナス効果があまりにも強力なようだ。過去に徹底的に無視され続けた凪茶が部下になり、ずっと御局様として君臨していた頼子が直属の上司になったからだ。都合良くストレスの捌け口にされた未夢は、青留にとっては菫同様に彼の中で救いになっているようにも見えた。
頼子による絶妙な采配。未夢の露骨なあざとさが、青留にとって癒しになる皮肉。凪茶は対面の席に座る同僚の憂鬱気な顔を見て、演技のうまさに感心した。
菫の目もあり青留係長が大人しくしていたため、午前中の職務は静かに進み、凪茶も仕事が捗った。未夢も喉の調子が良くなかったので、無駄に会話せずに済んで助かっている。
お昼休みを挟んで眠気が増す中、青留がいつものように動く。もうすぐ午後三時を迎える。お昼ご飯を食べた後も元気のない未夢を、気にかけるように声をかけたのだ。
「未夢ちゃん、今日は朝から元気ないね」
「係長、ご心配おかけします。昨日親友とカラオケで少しはしゃぎ過ぎちゃって」
青留が食い付きやすい話題と、遊び疲れで体調に問題のない事をうまく話す未夢。会話を聞いている凪茶に対して煽りを入れるのを忘れないあたりが、あざとく腹黒い。凪茶が無反応なので、未夢がわずかに眉を顰めたので、心の中で舌打ちしたのがわかった。
「それは良かったね未夢ちゃん。僕も週末、家族と遊園地に行ったんだけどね。賑やかなメリーゴーランドの音を聞きながら、僕はふっと思い出していたんだ。初恋の彼女と約束した‥‥誰もいない海のことを。僕は今、幸せなパパを演じているけれど、魂の半分はあの静かな海に置き去りなんだよ」
いつもながら家族愛を語りながら、急に脈絡のない初恋の思い出モテ話キターーーっ、と未夢の瞳が大きく輝く。この後には、初恋の彼女といかに愛し合ったのか、家族サービスで楽しく過ごした話を忘れて、吐き気を催しそうな話が続くのだ。一番眠い時に、さらに眠たくなるような話。朝の菫の言葉が効いているのか、自慢話までの展開が早かった。
昨日は高校時代の腕っぷし自慢、その前が大学時代の救助活動の話。相変わらず思い出話が時代ごとのローテーション通りに進むので、未夢は笑いそうになる。いつもの未夢ならば、ウザッて思うだけなのだが、凪茶のおかげで楽しくなってしまったようだ。
「素敵なお話ですね係長。それってまるでフランス映画のワンシーンみたいな情景が浮かびますよ! 係長、作家になれますよね!!」
「えっ⋯⋯? フランス映画? 作家」
「はいっ! 孤独な青留係長が賑やかな日常の中で一人、過去の幻影を愛し続ける。完成された美学の一節になりそうですよね」
「そ、そうかな。そんなに凄いのか」
「凄いですよ。私なんかが大変ですね、なんて同情したら、係長の心に大切にしまわれた物語の価値が下がっちゃいますよ。青留係長は、その『選ばれし孤独』をそのまま、誰にも邪魔されずに味わい尽くすべきですよ。素敵です!」
わずかな会話のほんの一触り。これからもっと感傷に浸る所なのだ。褒め要素なんてないはず。それなのに未夢が大げさに褒め上げるせいで、青留は満足気に口角を上げる。ただすぐに奇妙な違和感に襲われる。
同情や適当な相槌ひとつ打ってくれるだけでも次に進める。青留はいつもの反応が欲しかったのだ。調子が悪いせいなのか、青留の話がささったのか、反応が過剰になった。
未夢は青留を否定する事も無視する事もなく、これ以上ない言葉で讃える。この美しい初恋の話は青留の心に留めておく事で価値が高まる。そんな未夢の尊敬の気持ちを青留が自分から壊せない。凪茶の冷めた反応を見ると、青留は余計にそう思えた。
「あ、いや……分かってくれるのは嬉しいけれど、僕としてはもっとこう、今の苦しみをだね……」
「わかります! 言葉にできない苦しみこそが名作を生むのですよね!! あっ、そういえば係長、例の見積書ですが壮大な物語の構想を練る邪魔にならないように、今のうちにチェックお願いしてもいいですか? 係長の高潔な心の高まりを汚しちゃいけませんから!」
「う、うむ。任せてくれたまえ」
未夢の大げさでまったく意味のわからない尊敬の押し上げに圧倒されて、青留は初めて未夢と向き合う。いままでは一方的に青留が語り、最後に仕事を押し付けて終わっていたやり取りだったのだ。
それが何だかよくわからない称賛を浴びるうちに、押し付けたはずの仕事が自分へと戻って来た事に、さすがの青留も口を鯉のようにパクパクと動かすことしか出来なかった。
人間だから、過去の感傷に浸ろうが心で思うのは勝手だ。むしろ心の平穏を保つ上で大事な事かもしれない。ただ会社で仕事中に相手をさせられては迷惑になる。青留係長が語る内容がどこまで真実なのかなんて当人にしかわからない。彼の感傷に寄り添うか適当に流してしまうと、グダグダと妄想じみた淡い思い出話に付き合わされる事になるのが問題だった。
未夢はいつも通りに、同じ適当な返しをしていたに過ぎない。適当な言葉の中に、褒め殺し⋯⋯必要以上に褒め上げて持ち上げただけ。青留が武勇伝を語り始める度に褒めそやし、これ以上ない美化の檻に封殺する。褒められて青留の自尊心は満足し、守り続けたちっぽけな誇りも飾ってもらえる。
凪茶の案は簡単だった。未夢のあざとく回る口を利用して、青留の持つ悲恋や悲運の話を崇高な物語として格上げしたのだ。
◇
連夜のカラオケ店のはしごを行う二人。昨日と違いストレス発散ではないが、恥ずかしいので別の店にしたのだ。食事代として予算は頼子が出してくれた。青留係長を交えた三人の様子を見ていた彼女に、思惑通り動かされたのがわかった。
「あんたのあからさまなあざとい演技がいつも通りのおかげで、うまくいったみたいね」
「なぎちゃん酷い⋯⋯あざとくないもん」
「うわ、ウザっ。凄い、すごぉぉいって褒めるだけの商売と違って、あなたは素晴らしい人なのだから、世俗的な欲求を見せない方が良い⋯⋯そう仕向けていくのよ」
「なぎちゃん、偏見は駄目だよ。凄い凄いって褒めるのは大事なんだよ? 普通は凄いって褒められると嬉しいんだからさ。それにこれって褒め殺しなのかな」
「モテ話だけに、モテ囃しよ」
「なぎちゃん、寒いよ。草が生える所か林になっちゃったよ」
「褒め上げて、祀り上げて、高貴なミイラのように干してあげるのよ。『あなたの語る物語は高貴すぎて、もう誰にも触れられない存在なんだ』と定義づけてしまうの」
褒め殺しと違って、青留を潰す意図はない。ウザい自慢はだけに狙いを絞って、額に封じ込める作戦だ。
「うまくいくのかな。今日はかなり戸惑っていたし」
「悲劇のヒロインだからうまくいかない────そんな自尊心の逃げ道を祀ってあげるんだから、現実を見るしかなくなるよ」
同僚や後輩が次々と出世してゆく中で、置いてけぼりの青留の悲恋話は、結局の所現実逃避に過ぎない。あの時、彼女と一緒になっていれば自分はもっとうまくやれたはず⋯⋯そんな妄想に浸る事で、自尊心を保つしかなかった。
青留の語る話の真実など、どちらでもよかった。仕事の邪魔をして貴重なお茶の時間を奪わせない、それが変わらない凪茶の思いだった。




