不沸凪茶は、茶番にへそが笑う ③
「あっ、茶柱だ」
朝──未夢が淹れたお茶に、茶柱が立ったのを見て凪茶の口元が緩む。ほんの些細な幸せ。今日は良い事がありそうだ。一息入れるためのお茶に至福を感じる彼女に、幸運が舞い降りた。
目黒栄依子の虚偽の証拠────それは思わぬ場所から見つかった。瀬倉と姥田、解雇と辞職した二人の部長の残務処理を行っていた凪茶は、思わず目を疑った。
頭では理解していても、感情が理不尽な働きに対して不満の声を上げている。そんな最中に、欲しかった確証の一つがあっさり見つかったのだ。嫌々引き受ける事になった残務処理中、いわば相手の味方だったものの残骸からお宝を発掘したようなもの。
凪茶は瀬倉と姥田のPCのデータから必要なものとそうでないものを精査していた。二人とも、急な解雇や辞職だったために、PCに残された業務外のサイト遍歴などに気を回す余裕はなかった。何かしらネット上に就業規則に反する痕跡を残していようがクビは変わらないし、辞職する気も変わらなかったので当然だ。
瀬倉が業務中にアダルトサイトを見ていたのは以前に確認済みだ。その見たくもない相手の性癖を知らされるのもセクハラだな‥‥そう凪茶は思った。とち狂って、急に不当解雇を騒がれても面倒なので、気持ち悪くても証拠として記録しておく。
そのセクハラ部長が目黒栄依子のSNS活動を知っていて、黙って応援していたのには驚いた。悪さをする連中はどこまでも引き寄せ合うのか。
姥田もよくあるデスクワーク中のサボりの痕跡はあった。ただ姥田は興味が薄かったのか栄依子の活動には、簡単なメッセージしか残していない。良くも悪くも自分が一番な姥田らしい態度だ。
粘着質な瀬倉は姥田と違いかなり露骨だ。なにせ自分もSNS活動を行い、栄依子に関して、気持ちの悪い思いを吐露していたからだ。
「セクハラしながら、栄依子まで狙ってる?」
自分が淹れたお茶で凪茶が単純に喜ぶのを見て、自慢しに来るうざい同僚。いつもなら邪魔だと追い払う所だが、茶柱に免じて許した。
栄依子の家庭内の状況まで部長としての立場を利用して踏み込んだ瀬倉。休職を承認するために、栄依子も信頼を寄せ内情をベラベラ喋ったようだ。栄依子が嘘をつけば、瀬倉も協力を止める可能性があったので語られていた内容は事実だろう。ほんの少しブラックボックスを調べただけで、真っ黒な闇が次々と飛び出す。
「どこがブラックなの?」
「あんた、わかってて聞く?」
未夢は未夢で瀬倉と栄依子の関係をわかっていた様子だ。未夢が何者かなんて、凪茶はあえて聞かない。信頼出来る調査機関を紹介してくれたのは未夢である。凪茶自身はごく普通の一般社会人に過ぎないので、目黒栄依子より腹黒い目崎未夢の素性は知りたくなかった。
栄依子の旦那が医者である事は、瀬倉の残したデータや資料からも確認出来た。彼女の診断書を作ったのも心療内科の医師である旦那である。姥田が栄依子に利用価値を見出していた理由も、彼女の休職を認めた理由も、自分が逃げる時の前列を築くためだったのかもしれない。
「いまとなっては‥‥だよね」
「姥田の再々就職先が見つかれば、またコンタクトを取るかもね。姥田や栄依子達が現在の体裁を保っていられれば⋯⋯の話だけど」
いま一度データをおさらいしているのは、興信所から届いた内容との合到する部分をチェックしていたからだ。さすがに人妻である栄依子も、瀬倉の馴れ馴れしい接近が気持ち悪かったようだ。急な旦那持ち上げアピールを始めたのもそのためかもしれない。まさかそのアピールが命取りになるとは、栄依子も想像していなかったのだろう。
「実名でわざわざプライベート用を分けていたので、紐づけは簡単だね。投稿写真は明らかに栄依子や旦那の顔を写していたし、限定品やイベントグッズなどの時期的にも合致してる」
瀬倉も瀬倉だが、栄依子も自分から証拠画像を投稿していた。特別待遇や置かれている状況を忘れ、そのばしのぎの自分本位の思考で動く典型例だ。栄依子は瀬倉を嫌がるあまり、自分が何故休日を謳歌出来ているのか完全に忘れているようだった。
「瀬倉のおかげで私達も、ある意味栄依子達も、随分結局振り回されたよね」
「本当に迷惑過ぎる‥‥菫さん、よく耐えてきたよね。ただおかげで、私のお茶の栄養を吸い取る雑草を、ようやく取り除く事が出来るよ」
「あくまでなぎちゃんの基準はお茶なんだ」
「当たり前じゃない。余計な事をしなければ放っておいたよ」
ちなみに瀬倉の罠で彼の妻となった菫は、この件が片付いた後に、正式に社員になる。御局様‥‥渡嶋課長の圧の強さのおかげで、すでに彼女の人柄に魅力を感じる社員が増えていた。
「悪いのは会社も何だけどね。夕月商事も中堅とはいえ弱小側だから、お上の意向には逆らえないのかな」
場当たり的な障害者支援や、育児支援に現場はいつも混乱し、負担を背負う。支援を受けるものを助ける制度は必要だが、それらを支える側のフォローは皆無に等しい。
会社側も障害を持つ社会的弱者を受け入れる事で国からの援助が入るからと、嬉々として受け入れ体制を築いた。まともな会社員ならば、制度の欠陥を考え、利用を躊躇いがちだ。
凪茶はお茶の時間が奪われる事について文句はあるが、会社の方針や制度には別に反対ではない。自分も怪我や病気になるかもしれず、将来使う可能性がゼロではないのだから。ただ支援をするのなら、割をくう側の事も考えて支援してほしいと思うだけだ。
「それで頼んだ結果出たんでしょ?」
未夢を仕事しろと追い払わないのは、目黒一家の闇の深さを調査させたからだ。栄依子の休職中の活動がアウトでも、診断そのものに不備がなければ、完全なる排除は難しいと凪茶は考えていた。
もちろん戦うカードとして必要になると判断していたので、SNS活動については、栄依子と疑った頃から既に記録にしている。保健組合の判断がどうなるか分からない。医師である旦那とグルならば、他の検査機関を受ける事になるだろう。診断のカラクリを理解しているので、栄依子の仮病はおそらく保たれてしまう。
「なぎちゃんの先読み⋯⋯怖っ」
「被害者でいる方が得だからね。制度を特権と勘違いした輩が、美味しい利権を簡単に手放すわけないものよ」
「それはそうだよね。それでね、なぎちゃんに頼まれた件だけど⋯⋯」
未夢は調査報告書と書かれた封筒を受け取る。さすがに職場で話すには重たい内容らしい。
「就業後、用務員室へ行くよ。頼子さんに報告をかねて、獲物の追い込み方を考えよう」
「言い方‥‥! どこの狩人よ」
菫さんが来るまで使用されていなかった用務員室には、資料や電子機器が持ち込まれていた。頼子が特別会議室にするために、リフォームといいつつ防音素材を用意して、菫がDIYをしていたのだ。
連絡しておいたので頼子も菫も談笑しながら、仕事を終えた二人を待っていた。
「本題に入る前に不沸さんに相談があるの」
頼子からの相談は珍しい。凪茶はコクッと頷く。役職についたからと言って、彼女が急に態度がおかしくなる事はなさそうだからだ。
「私も凪ちゃんと呼んでいいかしら?」
────おかしくなっていた。頼子は凪茶や未夢や菫が、互いに名前で呼び合っている事に、疎外感を感じていたらしい。
「それでは私も頼子さんと呼びますよ。もちろん社内では役職付けて、頼子課長と呼びますが」
「それなら私もー!」
互いに名字が呼びづらかったので名前呼びにする事にした。胡散臭い未夢とは距離感詰めない方が良いと凪茶が告げると、うざ絡みされていた。
「まずは資料とデータを見て下さい」
未夢の持って来た資料等を照らし合わせて見ながら、凪茶は決定打になりうる証拠集めをしていた理由を話す。
栄依子のおねだりの金額と二人の給与の桁の違いが、凪茶はずっと疑問だった。自費で調査を決意したのも、お金の出処を突き止めたかったからだ。
まずあまり隠そうともしない収入源は、すぐにわかった。栄依子の旦那の診療所の様子を調査した所、妻だけではなく、多くの会社員が彼の診察で休職に必要な診断書を得ていた。医者という立場上、別に不思議ではない。幾ばくかの金銭や御礼の品などの付け届けがあったにせよ、個人個人が感謝した結果と言われればそれまでだ。
「これだけでは金額が少く、あの羽振りの良さは支えきれません」
元からお金持ちで食うに困らない生活や、羽振りの良い生活をしていたのなら、そもそも栄依子は働く必要はなかったはずだ。栄依子の入社当時と、現在の様子を比較してみてもわかる。休職手当てに目をつけたのも、旦那の目黒靖二の入れ知恵だろう。
凪茶が注目したのは目黒診療所が、処方箋を自分の所で出していた点だ。業者の出入り、薬を受け取る患者。色々チェックする内に、栄依子の旦那の裏の顔が見えて来た。しかしそれ以上は一般人に過ぎない凪茶には踏み込めない。
凪茶は未夢に渋々依頼をした。後々調査費用の請求は会社に回すが、何も出なければ、高額の調査費用の支払いに泣く事になるだろう。
「その賭けの結果がこれね」
頼子と菫、それに凪茶と未夢は調査報告書から取り出した書類を広げた。そこに記されていたのは目黒診療所の支払いの履歴や、購入した薬品や調薬材料のリスト。
「専門的な事は良くわかりませんが、在庫状況と患者へ出した薬とで、数字に齟齬があるのがわかりますか? まだ在庫があるにも関わらず過剰に仕入れてる品が何点かあります」
備蓄の可能性もあったが、特定の品を入れた後に必ず来訪している患者がいた。
「みなまで言わなくてもわかりますよね。目黒は違法薬物を仕入れ、密かに横流ししていたんです。安全なルートのためか、かなりの報酬が彼に入っていたようですね」
目黒診療所の他に、業者や受け取った患者など、関係者の動向を追うため公安が水面下で調査に乗り出している。確証が得られ不都合な事実が明るみに出れば、栄依子は休職の特権どころではなくなるだろう。
頼子は調査の結果の驚きの事実を見た時よりも、厳しい表情になって凪茶を見た。
「すでに終わったから言っておくけどね、凪ちゃん。今後こういう事は、まず私に相談しなさい」
一般の女性会社員が、闇社会へちょっかいをかけてどうなるか、頼子の心配はもっともだ。
「そうだよ、なぎちゃん。探偵とかが動いているのを知られたら、逆に調べられるんだよ?」
「そうね。診療所を調べた人物の情報が、相手に高く売られる可能性があるものね」
未夢と菫も心配し、凪茶は三人から一斉に忠告をされた。頼子は止まらず、御局様モードの本領を発揮し凪茶も凹むくらい叱られた。未夢は珍しい光景にニヤニヤしていた。
菫だけドラマ知識な気もする。ただ言っている事は間違いではないなと、凪茶は思った。
下手な調査員や探偵などにより、相手に察知されてトラブルになった場合、その報復が凪茶に来ないとは言い切れなかった。利権や闇社会──裏世界に関わるのは、それだけリスクがある。潰すとなると尚更だ。
その後──目黒栄依子はひっそりと夕月商事を退職していった。捜査の手が及び社内や住まいの地域であれこれ言われ、いたたまれない思いをする前に辞めたのだ。
栄依子が半ば独占していた休職関連の待遇は、大きなお腹の目立つ賀原育代の産休のために使われた。我慢強く真面目な彼女は仕事より、出勤そのものが大変になっていた。それでもまだ働くつもりだった育代が喜んだのは言うまでもない。
仕事の割り振りは育代の課内で行われ、以前のように課外の凪茶にだけ集中するような事もなくなった。
「ノルマを的確にこなして、飲むお茶の美味しいこと」
至福の時、夢の時間。受け持つ作業量が平等ならば、凪茶自身は毎日穏やかに平和に過ごせる。そんなノルマさえこなせばホワイトな会社内で、その時間が奪われ邪魔がはいる。
配置変え後──目の前の席になった未夢が、彼女の隣に配置された万年係長の長ったらしい自慢話に掴まる姿を見て、凪茶は短い夢の時間の終わりを悟った。




