いたずら野うさぎと亡霊狩り
冴えない少年少女が輝かしく変身してゆく物語は不変だ。シンデレラ、みにくいアヒルの子、美女と野獣。特に労働者訛りを直した事をきっかけに立派なレディに変身してゆく演劇、ピグマリオンなどは記憶に新しい。
今の自分は本来の自分ではない、もっと自分は輝けるはずだ。
誰の心にも眠るであろう満たされない想いを、変身のドラマは代弁してくれる。この先どれだけ世界が発展しようともそうした物語は生まれるだろうし、人々を楽しませることだろう。不変だ。どこまでも不変だ。
俺とユークも変わってしまった。2人の関係は変身のドラマになり得るだろうか。良作か、それとも駄作か。ぜひともジョージ・バーナード・ショーにご所感を伺いたいものだ。
「ご両親が亡くなってから暫く経つと思うが、何か不便に思っていることは?」
「特にはありませんが、然したる親孝行を成せなかったことは悔いております」
機械に囲まれた部屋で、ユークは言った。一切の表情はなかった。淡白だった。瞳には感情が宿らず、言葉には色もない。何を考えているのか読めない。まるで本人までもが機械になったかのような気さえした。
良い意味でも悪い意味でも落ち着きのない、底抜けに明るかった彼女ではない。大人になって落ち着きを手に入れたとか、教養を身につけてレディに変身したとか、そういう次元の話ではない。
彼女は確かにユークに違いない。どうしようもない懐かしさが胸を締め付けている、これがユークであることの証左だと思う。……だが、それでも、中身が何某かとすげ変わってしまったのではないか、と疑ってしまう自分もいた。
──君は本当にユークなのだろうか。それとも俺がそう思おうとしているだけだろうか。
秒ごとに膨らむ違和感、恐怖心、疑念。これらがわずか前の確信さえ裏返そうとしている。
彼女に飲まれないように、こちらも淡々と話そう。
「看護婦も心配しているよ。決して好奇心からではなく、あなたを案じて、噂をしている人もいる」
「ありがとう存じます」
「病院に顔見知りはいるのか? 例えば相談のしやすい、気心の知れた看護婦とか……」
「みなさま優しく接して下さいますが、わたしはこの通りの無愛想なので、付き合いは浅くて御座います」
情動の鈍麻は典型的な精神分裂の症状だ。しかしカルテによれば根治しているとのことだし、どうもユークは担当医に対して一度も妄想や作り話の類を語ったことはないらしい。そうならば多少の表情はあって然るべきとは思うが……。
(あるいは両親を亡くしたことで精神に負荷がかかり、再発したのか──)
事件や事故をきっかけに、妄想や幻聴等の症状が甦ることは間々あることだ。一度蒔かれた妄想の種は、不安を糧にして再び芽吹く。
注意をして見極める必要があるだろう。
「形式的な質問だ。深い意味はないから、素直に答えてほしい」
「はい」
「ここ最近、何か変わりはないか?」
「ありません」
「大きな音が気になるとか、部屋に差し込む光が眩しいとか、ガス燈が目障りに感じるとか」
「ありません」
「食事の時間を忘れることは?」
「いいえ」
「本は読めているだろうか。目が滑って同じ行を繰り返す、集中できず物語が頭に入ってこない、読んだ内容を忘れる、頭の中で誰かの話し声が邪魔をする、音楽が鳴り止まない──。最近、そうした経験は?」
「ありません」
もう少し踏み入ってみよう。一思いに、勢いよく、崖から湖面に飛び込むようにして。
「かつて君には前世が見えた、とカルテに書かれている。今でも前世はあなたの中に存在しているのかな」
核心に触れた。自分でも肩に力が入っているのが分かった。
沈黙が続く。ユークが俺を見つめて、5秒、6秒と経ち、ゆっくりと口を開いた。
「──確と」
肯定した。では、ユークの中には、10年経った今でも『Mizuki』なる奇妙な名前の人物が住み着いている……?
「それは即ち、ご両親を亡くしたことのショックで症状が甦った、と」
「いいえ。8歳の頃に前世の記憶が甦ってから、それは常にわたしの中にあり続けます」
両親の死とは関係なく、ユークは未だ妄想に囚われていて、主治医の前では敢えてそれを口にしなかっただけ、という事だろうか。
しかし、分裂病の患者が嘘と真実を冷静に使い分けることが可能だとは思えない。メタ認知は脆弱、自身では妄想と真実の分別がつかないのが一般的だ。
分からない。俺の知識や経験が、彼女の症状に追いついてない。精神医学については多少理解しているつもりではあったが、所詮は父に憧れた時期に身につけた生半可な知識、応用が利かない。
(後にユークと出会うことが分かっていれば、もっと真面目に勉強をしたが……)
恵まれた環境にいながら、不貞腐れて遊び呆けていた時期が悔やまれる。今更になって大学の図書館や講義が恋しい。過去の自分を恨めしく思う事しかできないだなんて、絵に描いたような不良学生の末路だ。
後悔に視線を落とした時だった。彼女のデイドレスの袖から、意味深な痣がのぞいた。
赤黒い。血溜まりのような色をしている。
──なんだ、この痣は。
目が離せなかった。妙な感覚だった。
釘付けになるのとは、少し違った。例えるなら、小さな子供に裾を引っ張られて、無為に出来ない感覚に近かった。
「失礼」
対面に座る彼女の手首に触れ、そっと袖を捲り、腕を曝す。
それは痣というよりは醜い瘢痕だった。戦場で様々な傷を見たが、そのどれとも違う。無理やりに例えるとするならば、酸を浴びたことによる壊死痕の上に、使い古しのエンジンオイルを滴らせたような、汚染された傷だ。それが手首から肘にかけて滲み広がっている。
傷の境界は曖昧だ。そのせいか、傷から黒い影のようなものが広がっているようにも見えた。
──黒い影。
その傷は俺の記憶に触れて、10年前の診察室を呼び起こした。
部屋の真ん中で、幼いユークがぽつりと座っている。
空っぽの目をして、乾いた唇を力なく動かして、吶々と作り話を語った。
肝試しで入ったホーンテッド・ハウス、エントランスホールから伸びる通路の向こう側、タールのように粘ねばつく影で満たされた空間。
彼女には、彼女にだけは、何も見えなかった。
『あの日、わたしの友達は何を見たんですか? なぜわたしの家族は死んだのですか? ──わたしは何に殺されたのですか?』
そして俺は、あの時、心の中で、実に馬鹿げた、子供じみた答えを思い浮かべた。
(亡霊……)
前世などあり得ない。亡霊などあり得ない。ユークは狂ったんだ。認めなければならないんだ。そうして頭を振った。
「仮に──」
勿論、その考えは今でも変わらない。亡霊などはナンセンスだ。
だが、歳を重ねたことの余裕が、俺に陳腐な質問をさせた。
「──仮に前世の記憶があるとして、この傷は君の前世に由来するものか?」
何を聞いているのだろう。すぐに質問を撤回をしようとしたが、ユークは俺の目をひたと見て、
「そのように存じます」
父がハニーチャーチ夫人に送った手紙の内容までもがフラッシュバックした。東洋哲学や神智学には輪廻転生という考え方がある。生前の行いによって現世で受ける報いは変わり、その『生前の行い』のことを業と呼ぶ。
「それは、いわゆる、業と呼ばれる概念によって傷つけられたものか……?」
「ただしくは『因縁』」
聞いたことのない単語が返ってきて、別次元に足を踏み入れたことを自覚した。
「因は『過去に蒔かれた種』。そして縁は『種が芽吹いたことによる巡り合わせ』とお心得くださいませ。わたしに障ることは全て因縁によるものと考えます」
スピリチュアルだ。馬鹿げている。
「まさか、ご両親を亡くしたことも因縁だと言うのではないだろうな」
「そうではないことを願うばかりです」
「随分と含みのある言い方をする」
「──わたしが観測できた亡霊は全て狩りまして御座います」
亡霊を、狩る……?
何を言っているか理解できない。
「全ては初診医が読書をおすすめ下さったお陰。10年の内に亡霊狩りの知識を培いまして御座います」
確かに、父は手紙の中で読書を勧めた。
「わたしは禁忌に触れたことでかつての人生を終えました。因果により、わたしの体は穢れたものと存じます。この腕の傷は霊障とお思いなさいませ」
ユークは淡々と続けた。
「わたしと共に『白高の屋敷』に入った人間は死にました。しかしわたしだけは、ここに生きています。つらつら惟るに、わたしは生き残ったのではないのでしょうか。彼奴はわたしの肉体を殺す事に成功しましたが、何故だか魂を殺す事までは出来なかった。つまり白高の禁忌は、わたしという存在を消すのに失敗したらしいのです」
唇だけが動いていた。
「そして、いつか、白高の禁忌はわたしを殺しに来るものと確信しております」
「正気か」
「いいえ、正気ではありません。いじわるな野うさぎが子供を攫って醜い妖精に変えてしまうように、わたしの脳は何某かと挿げ変わってしまったのでしょう。気狂いのつまらぬパラノイアとお考えください」
唐突に、室内が光に満たされた。連続した青白い光だった。稲妻が空を割ったのだろう、耳を聾さんばかりの雷鳴が轟き、窓ガラスがびりびりと震えた。
ユークの背後、無線受信機に影が生まれた。色濃く黒い、粘つくような影だった。連続する雷光の間にも影は残り、妙だが、光と影の境界は霞んで揺れていた。
──そして超常を見た。
影にように見えたそれは影ではなかった。影よりも色濃い、小さな、黒々とした染みが重なり合って、それらは人影を真似ながら蠢いている。染みのそれぞれが蚰蜒のように息を顰めて密集し、身じろぎをしている。波打ち、隆起し、歪み、流れる空気のまにまに揺れる。
唖然としている内に雷は遠ざかって、やがて人影に似せられた何某かは、耳鳴りだけを残して消えた。
今、何を見たのだろうか。ただの残像だったとは思えない。冷ややかであり、悍ましくもあり、身の毛がよだつ不愉快さで、あえて言うなら、それはやはり、亡霊──。
「──この屋敷は、明日には引き払います」
「え?」
「予定は早まってしまったのですが、婚約者の下へ御厄介に。両親を亡くしたことを知ると、お義母様が『是非に』と仰って下さいました」
※※※
ユークレース・ハニーチャーチはここから北に離れた湖水地方の田園地帯へと旅立った。彼女が嫁ぐこととなるデヴァルー家の屋敷『オールド・ミンスター・ハウス』の領地は2500エーカー(約10㎢)、聖ギリングハムという小村を内包し、屋敷の周りには広大な風景式庭園が広がっている。
デヴァルー家は征服戦争で活躍したとされる名家だ。ユーク曰く幼少の頃からの付き合いということだから、父の手紙に記されていた婚約者と同一人物だろうと思う。
俺はユークが狂ったのを目撃し、恐怖し、薄情にも自ら距離を取った。だがその婚約者はそうしなかった。きっと、彼という存在が病に苦しむユークを支えていたに違いない。結ばれるべくして結ばれる相手に違いなかった。
彼女は結婚をする。俺には彼女に関わる資格がない。
だが、それでも自分の気持ちには抗い難く、どうしようもなく愛しい。どうやら自分が思っている以上に、ユークという存在が魂に刻まれているらしい。あれから未練がましくユークのことばかりを考えている。
この苦しみはユークを見捨てたことの罰なのだと思う。
会って、もっとユークを知りたい。
普段は何をして過ごし、何を食べ、何を読み、何を思っているのか。
そして、あの機械だらけの部屋はなんのために存在するのか。何を目的に集めたものなのか。
『亡霊を狩る』とは、何を意味するのか。
この世のものとは思えない、壮絶な程に美しい彼女──、そして稲妻に翳る蠢き──。
仮に、もし、ユークの言が妄想などではなく、全て真実だとするならば。即ち、彼女の脳内に真に前世なるものの記憶が存在していて、真に悍ましい因縁に苛まれているのならば──。
「──大尉。如何でしたでしょうか、彼女の様子は」
深刻な顔でカルテを見つめる俺を心配してか、看護婦が声をかけてくれた。
「いや。気は確かだった」
カルテを手渡す。もうこの病院には来ないだろうし、俺が彼女に会う理由もないから、記録室に閉まっておけば良いだろう。
「でも、この子、妙なところがあるのよね」
「妙なところ? まさか、亡霊の話か?」
看護婦は眉根をよせた。
「ぼ、亡霊? いえ、たまにご都合が付かない時があるのか、病院にお越しになることもあったのですけど……。他の患者さんが口を揃えて言うんですよ。『あのお嬢さんは病院に入れるな』って」
「初耳だな。何故?」
「──精神病じゃないから、ですって」
皮肉なことに医師や看護婦よりも、精神病患者の方が、狂気のありなしを言い当てられるものだった。
※※※
あの日、彼女は玄関先まで送ってくれた。雨は降り続いていて、土と埃の臭いがしていた。
ユークは肩章を見て言った。
『大尉。畏れながら、まだ、お名前を伺っておりませんでした』
なんと答えるべきか迷った。
彼女は結婚を控えていて、そして俺のこともとうに忘れているものと思う。だから正体を明かしたとて彼女は何も思うことはないし、奇跡的に覚えていたとしても少しばかり懐かしい気がするだけで、それ以上はないだろう。
何かを期待して彼女に会った訳ではない。ただ、この『期待はしない』という考え自体が、心奥では期待をしていることの証左なのかも知れなかった。
もしかしたら、俺を俺と気づいてくれるかも知れない。
根治しているなら、かつてのように笑いかけてくれるかも知れない。
10年間、ずっと俺を待ってくれていたかも知れない──。
人は可能性に縋る生き物だ。たとえそれが幻であろうとも。
『名前は……、ヒースクリフ。ヒースクリフだ』
『嵐が丘』のヒースクリフは、恋仲のキャスリンが社会的地位と貴族文化への憧れを優先させてリントン家に嫁ぐのを知り、出奔する。
作中の彼のように、嫉妬と愛憎に憑かれて復讐などと馬鹿げたことを考えたわけではない。だが、それでも、心の爛れた部分に気づいて欲しいという女々しい気持ちが僅かなりともあったのだろう、答えに窮して彼の名前を借りた。
名乗ると、彼女は控えめに頷くような仕草をした。
そして、ゆっくりと顔を上げた。一度も感情を滲ませることのなかった顔が曇っているように見えた。青い瞳も心悲しく潤んでいる気がした。薄暗くなってきていたから、光と影のバランスでそのように見えただけかも知れない。確証はなかった。ただ胸の痛みに動揺した。
そして彼女は何も言わずにゆっくりと扉を閉める。
小さく、唇が動いた。
『わたしはまだ、ジュリエットでいるつもりです』
閉ざされた扉を再び開ける勇気は、俺にはなかった。
・ピグマリオン
ミュージカル『マイフェアレディ』の原作として知られるジョージ・バーナード・ショーの戯曲
・メタ認知
自分を客観視して調整する能力




