よみがえる初恋
カルテに記された内容は以下の通りだった。
名前はユークレース・ハニーチャーチ。主治医はマルコム・ウィテカー医師。病名は精神分裂病で、経過観察を主とし年に2回程度の診察を行う。徴兵制が敷かれる前は医師が直接タウンハウスに赴きカウンセリング等を行っているようだった。入院記録はない。意外なことに投薬記録すらない。
最後の往診は一年前の冬とのことで、丁度、聖メアリー総合病院が軍病院となったのと同じ時期だから、有事を理由に診ることが無くなったのかも知れなかった。
最新のユークの様子は、以下のようにメモされている。
──読書をして日々を過ごし、至って神色自若。ほとんど完治していると見て間違いはない。
まさか、信じられない。あのユークが、完治した?
本当に完治したのであれば胸を撫で下ろすところだが、10年前のユークの様子を思えば完治する様子など想像がつかない。
診察室での彼女の姿はこの目に焼き付いて離れない。空っぽの瞳を携えて、顔はロイヤル・コペンハーゲンのティーカップのように青白く、人の尊厳を極限まで削ぎ落とされたような雰囲気があった。
当時俺は子供だったが、あのような患者は今までも何度か見たことがあった。そうした患者は、やがて現実と幻想のあわいは崩れ去り、ただ横たわりながら糞尿を垂れ流すだけの廃人となるものだった。たとえ地獄が閉門しようとも死体が蘇ることがないように、彼女も狂気の世界から戻って来られないものと考えていた。
「ユークは本当に完治したのか……?」
翌日、詳しい話を聞こうと主治医のウィテカー氏を探したが、看護婦の話によれば老齢にも関わらず一年ほど前に志願、西部前線へと行ったらしい。ならば彼に手紙を書こうとも思ったものの、所属部隊が分からないので諦めた。
後任の主治医は特に決まっていないようだった。怒涛のように軍人が押し寄せたことのゴタゴタが影響して、そのまま放置されている。
──どうするべきだろうか。
やはり俺にはユークが完治したとは思えない。ならば彼女の病状を確かめるために、一度病院に招くべきだろうか。
そして看護婦たちの噂が本当ならば、ユークは両親を失った。孤独になる。仮に完治したとて、環境の変化によって病を再発させる可能性もあり得るし、客観的に考えても診ておいた方がよい状況にあると思う。
さんざん悩んだ挙句、俺はユークの住むタウンハウスを訪ねることにした。
悩んでいる間、彼女が俺を覚えていないことの恐怖に耐えられるかとか、覚えていたとしても彼女を突き放した俺を恨んでいるんじゃないかとか、ユークに会わないための理由を作ることに躍起になっていたが、実に無益なことに気がついた。
そもそも、俺は変わり果てた。仮に彼女の頭の中に俺という存在が形を残していようとも、今のこの姿を見て、俺を俺と結びつけられるとは到底思えない。
10年前よりも背はぐんと伸びた。風貌も変わった。しつけのなった柔和な感じのおぼっちゃまとは、もう違う。陰気で、しかも神経質そうで、嫌な雰囲気が出た。パブに入り浸っていたせいか、戦地にいたせいか、言葉遣いも荒くなった。アウトローのようだ。眼帯で顔は半分隠れているし、左腕もない。身なりはカーキの将校服、右腕には赤十字の腕章。ただの軍医だ。この姿を見れば大尉としか呼びようがないだろう。
総合的に見れば、まるで三文小説のイカした探偵に成敗される悪役だ。夜な夜な子供を攫い、闇医者に臓器を売らんとする極悪将校といった役所にベストマッチ、過去の俺とは似ても似つかない。シャツにチェックのニッカーボッカーを合わせてブーツを履いた、誰がどう見ても『良いところの中流階級の少年』だった俺とは結びつかないだろう。
恐れる必要はない。正々堂々、素知らぬ顔で会いに行けばよい。もう俺は俺ではない。おせっかいな軍医として、元患者の様子を見に行くだけだ。
そうして一度往診に伺いたい旨を看護婦に伝えて貰った。が、10年間の懊悩を鼻で笑うようにして、あっさりと、何の障壁もなく、日取りが決まった。
「大尉。木曜日、2時にお待ちしているそうです」
「電話に出たのか?」
目を丸くした俺を不思議に思ったのか、看護婦は小首を傾げて、
「ええ、ご本人かと……」
「何か変わった様子は?」
「いえ、特には。普通にお答えいただきましたが……」
やはりカルテに記されていた通り、完治しているのだろうか──。
※※※
その日、明け方から降り始めた冷たい雨は、昼前には霧雨となって街を灰色に烟らせた。空は時折思い出したように光って、遅れてごろごろと音を鳴らした。
彼女の住むタウンハウスはハーレー通りの南側に面し、理由はわからないが『サリンジャー・ハウス』という敵国風の名前で呼ばれていた。大貴族の所有する屋敷とまではいかないまでも、街区の中では比較的大きい邸宅だった。
数段の階段を登り、玄関脇の真鍮のタブを押してベルを鳴らす。家の奥でチン、と音が響いた。
暫し待って、使用人が扉を開けてくれる──と思っていたのだが一向に現れない。このまま2分近く立ち尽くしたろうか。なおも現れる気配がないので、もう一度ベルを鳴らした。
やはり誰も現れず、決して痺れを切らしたわけでは無いのだが、何となしにとマホガニーの扉を押してみると鍵がかかっていなかったのだろう、すんなりと開いてしまった。
「……不用心だな」
薄暗いエントランスホールが眼前に広がる。香のかおりがしていた。教会で嗅ぐような香だった。
人気がない。使用人が小走りでこちらに向かって来るような音も聞こえない。耳が詰まったかと思うほどに静かだ。
天井を見上げるとガス灯ではなさそうなシャンデリアがあって、一応は電気が通っているように思えた。灯りはつけないのだろうか。これではまるで廃墟だ。
「どなたか」
声は寂しく響いた。
まさか、屋敷に使用人がいない? いや、そんなわけがない。いくら戦時下とはいえ、この規模のタウンハウスを切り盛りするには使用人は必要不可欠だろう。
10年前にいた使用人達は何処に行ったのだろうか。執事のオークリー氏は既にお年を召されていたので引退なさっているやも知れないし、下僕のブラウン氏は兵に取られたかも知れないが、家政婦長のカーネルさんや家政婦のスタンプさんは今も働いていてもおかしくないとは思う──。
続けて2度3度と声をあげてみたが誰も出て来る様子がないので、良くないと思いながらもホールの中ほどまで歩いてみた。
中東趣味の入った美しい絨毯はあの頃のままだ。
壁に飾られているのは、きっとハニーチャーチ家と縁があるであろう港町を描いた絵画。
要所に珍しい異国の植栽が置かれている。
花瓶はあるが花は飾られていない。中を覗けば乾いていた。使っていないらしい。
中央階段を見上げる。赤の絨毯は薄暗い中でも冴えていた。これを溶岩の流れ出る山に見立ててユークと駆け上って遊んだものだが、成長して体が大きくなったからか、名峰は小ぢんまりとして見えた。これでは冒険にならない。
流石に居心地が悪くなってきたので日を改めようかと考えた時、どこかから、ほんの僅かに、ジー……と音が鳴っていることに気がついた。屋敷で聞くような音では無いが、でも、聞いたことのある電子音だった。
どこから鳴っているのだろう。耳を澄ませると、黒っぽい扉の向こうから聞こえているらしかった。ホールの間取りから考えて、応接間だと思う。
扉をそっと開いて、唖然とした。
その部屋には大小様々な機械が所狭しと置かれていた。壁一面にはパネルが張ってある。それぞれにダイヤルが付いていて、プラグがあちらこちらに伸びているから、これは無線受信機だろうか。戦艦に積んであったものを引っ張り出して来たのかと思うくらいに本格的な代物だ。
机の上に置かれているのはロール紙がセットされた大きな機械だった。タイプライターのようなハンマーがついていて……、まさか、印刷電信機か? 接続先に文字を打ち込ませる機械だ。少なくとも俺は郵便局でしか見たことがない。
他には、保険屋か会計士でも住み込んでいるのか手回し式の計算機があって、その近くには幾つものガラスを並べた巨大蓄電池……。ちくいち機械の名称を挙げていったらキリがなく、とにかくマシンが部屋でひしめき合っていた。
(なんだ、この部屋は)
機械の砦に誘われるようにして、半ば無意識のうちに足を踏み入れた。まるで異世界に入り込んだようだった。
ほとんどが軍用の機械かと思ったが、部屋の中に入ってみればそうでもないらしいことが分かった。
古典的な晴雨計に地震計、電流を計るための検流計、心理学の分野で使用される時間測定装置、打点式のモールス記録器、映画カメラ、フィルムの山──。
大きさも用途もバラバラだ。なぜ屋敷に、しかも応接間に、これだけの機械があるのだろうか。
(異様だ。全てハニーチャーチ氏のコレクションか……?)
ジーと音がしているのは、部屋に入ってすぐの場所に置いてあった身の丈ほどの箱だった。変圧器だ。基地で何度も目にしてきたマシンだし、音に聞き覚えがあるのはそのせいだ。思えば床もごく僅かに揺れている。機械の振動だろう。
「──お出迎えも出来ずに申し訳ございません」
背後から声が聞こえた。
「普段は誰も来ることがないので物置にしております。ご不便おかけしますが何卒ご容赦くださいませ」
部屋の入り口に立っていたのは、黒いデイ・ドレスを着た女性だった。
間違いない。ユークレース・ハニーチャーチだ。
肌が粟立った。
確信に至った理由は特にない。
目の前の女性は俺の知るユークの姿ではなく、かつての彼女がそのまま成長したとは思えない姿形をしている。
でも、彼女はユークに間違いないと思った。
愛おしい既視感があった。
とにかく身体中に電撃が走った気がした。
明るく輝いていた亜麻色の髪はない。精神が磨耗したのだろうか、さっぱりと色が抜け落ちて、白銅の色に染まっていた。
宝石のような青瞳、切れ長の目、不健康な白皙。睫毛はすうっと伸びて緊張感があり、ストレートに心臓を刺しに来るような美形──いや、単に美形というよりかは、よく出来たセルロイド人形か、或いはアカデミズム風絵画の中に住む人物に近く、とかく生活感のない、壮絶な美女となってユークは現れた。
ユークはじっと俺の体を見つめて、言った。
「このようなお姿でも、お働きになるのですね」
左袖がぶらりと垂れ下がっているのに気がついたのだろう。
「国が傷痍年金を出し渋ってるのさ」
10年ぶりの会話だった。
「ご両親を亡くしたこと、心から気の毒に思う。簡単な診察だから、気楽に構えていただいて結構。お時間も取らせない」
「ありがとう存じます」
ユークの表情は変わらない。心が揺れ動く様子も見られない。その青い双眸でじっと目を見て、淡々と答えた。
俺のことは覚えていないようだった。
・ロイヤル・コペンハーゲン
食器のメーカー。




