能動的ジュリエット
然して、父がハニーチャーチ夫人にあてた手紙を読めば凡その理解が進むと思う。
※※※
ハニーチャーチ夫人
不躾ながら書中をもってご通知申し上げますこと、何卒ご海容ください。
あれから暫く考えさせていただきましたが、やはりと言うべきか、ユークレースは病んでいるとみて間違いないでしょう。精神分裂であろうとおもいます。小児の分裂病は稀ですが、過去に例がないわけではありません。まずは冷静にその事実を受け止めていただきたくおもいます。
彼女の話は奇想天外でした。8歳の少女が生み出したものとは思えない作話のディテールです。まさか本当に別の人間として生きたのではないかと疑うくらいには、よく出来たものでした。
後に調べてみたのですが、彼女が口にした『Nihon』なる土地は、極東の『Japan』のことを言っているようでした。ロシアを破った強国であることは知っていますが、浅学な私には、ユークの言うような先進的な世界が広がっているとは思えません。どこかで見聞きした内容を元に紡がれた物語でしょう。
一応は、彼女のように奇妙な体験を持って生まれた者が他にもいるのではないかと考え、さまざま資料を漁ってみたのですが、残念ながらそのような事案は見当たりませんでした。妄想と断定して宜しい。
一つ、興味深い話があります。東洋哲学や神智学には輪廻転生という考え方があるそうです。それによれば、人は死で終わりを迎えません。死の後にも物語があり、何度も何度も絶え間なく濁流のように生を継ぐのだといいます。肉体から解き放たれた魂は、次の肉体へ──、そしてまた死によって解き放たれれば、魂は再び次の肉体へ──。而して永遠の旅を続けるのです。
生前の行いによって、その後の運命は変わります。『生前の行い』のことを業と呼ぶそうです。業には様々な種類があります。悪い行いをしたという業、良い行いをしたという業、後悔をしたという業、何かに執着をしたという業……。その業を失った時、魂の旅は終わりを迎えます。
例えばユークレースが生前の業を背負い、今の生きづらさを感じているなら、それはひどくスピリチュアルであり、ナンセンスです。世の理は科学的であるべきで、精神世界に答えを求めるべきではありません。
ハニーチャーチ夫人。ユークレースの話が真実だったとしましょう(本当に、本当に恐ろしい仮定の話です)。たとえそうであっても、ユークレースは貴女が腹を痛めて産んだ子供です。自信を持って、彼女と接してください。
そして、必ず、命を懸けて、彼女の気が触れていることを隠しなさい。
夫人の手腕が問われます。愛しいユークのためを思うなら、ごくありふれた、普通の令嬢として育て上げるのです。
気狂いだと噂が立てばユークレースだけでなく、あなたと、あなたの家の名誉さえも傷つけられます。ハニーチャーチ家は長い歴史を持つ名家です。ユークレースの病がきっかけで汚される事はあってはなりません。神の下に秩序は保たれるべきであり、ハニーチャーチ家は矜持を以てして責任を負うべきです。
従って、彼女は入院させません。長い時間をかけて診ていきましょう。念の為、婚約も破棄された方がよろしい。妙な噂の立たないような診断書も用意しますから、折を見て相談したく思います。
ここ暫くの治療法は読書が良いでしょう。どんな本でも良いです。とにかく目の前の何かに熱中させることです。電気を流してみるのも効果的ですが、小さな体にそれが耐えられるか定かではありませんから、まずは読書を。
最後に、私はいつでも貴女方の味方です。根気よく治療を続ければユークレースは正気に戻ると信じています。次の診療は病院の裏口に自動車をお停め下さい。誰にも見られないように。口の軽い使用人にはご注意を。
本書の内容が、いささかなりともご安心につながれば幸いに存じます。
敬具
聖メアリー総合病院 精神科主任医 ジョージ・ウィリアム・ウォーターハウス
※※※
診察室にユークが現れてから半年後に父は死んだ。原因はハッキリしない。禁酒会のアン叔母さんは怪死だと面白おかしく触れて回ったが、検死官によれば脳溢血だろうとのことだった。
上記の文は、遺品を整理した時に見つけたレターブックに記録されていた。見ての通り、そこにはユークには婚約者がいた旨が綴られている。
情けないが、心臓が張り裂ける思いがした。しばらくの間、食事も喉を通らなかった。
かつて、ユークと2人で修道院に忍び込んだことがある。彼女は『ロミオとジュリエット』を読んだと微笑んで、それらしい小部屋で結婚式の真似事に付き合わされた。
『あなたはロミオ、わたしはジュリエット。神父さまは、まあ、いなくてもいいわ。今日はわたしたちだけで十分。このシーンはね、描かれていない部分なの。だからわたし達で作るのよ。台詞は考えてきたわ』
無邪気だった。もちろん、ごっこ遊びだ。ユークも俺も本気じゃない。
だけれど、あの部屋の情景は今でも覚えている。僅かに残る香のかおりや、隣に立つユークの体温。そっとキスをされて、そして2人で誓った甘やかな言葉も──。
とかく俺はユークの何もかもが分からなくなった。彼女の存在は嘘の上に成り立つものだったのだろうか。俺は虚像の虜になっていたのだろうか。
あれからユークには会わなかった。彼女はタウンハウスから出てこなかったし、俺もそこを避けて生活をした。
父への憧れは失せてしまった。唐突に死んでしまったことも、然して悲しくは無かった。どちらかといえば母の泣き腫らした顔を見る方が辛かった。
この心情の変化については、自分なりの答えを見つけた。恐らくきっかけは、父がユークを精神病だと診断したことだった。あの日を境に、憧れはゆるりと失せたものと思う。父の診断が誤りだとは思わない。ユークは間違いなく狂っていたし、手の施しようも無さそうだった。それでも狂った人間に狂っていると診断を下した父が残酷に思えたし、俺の半分を奪ったようにも思えた。
ユークの面影は俺を離れなかった。弔い切れなかった初恋を引きずっていると言えば多少ロマンティックには聞こえるが、情けない言い方をすればただの執着だった。あの青い瞳に見つめられた時間が長すぎたせいで、知らず知らずのうちに、その宝石のような瞳の、神秘の洞窟の中に迷い込んでしまったのだろう。至る所が輝いて、道がわからず、出られなくなったらしい。洞窟の中でユークが笑って踊っている。
パブリックスクールは16歳で卒業した。母を心配させまいと勉強していたから、その年には大学に入れた。周囲の勧めがあって医学部を選んだが、父と同じ精神科医になる気はなく、外科医を目指した。
そこからは自堕落な生活に甘んじた。反吐が出るほどの女々しさを払拭しようとして、煙草を覚えてみたり、悪友を作ってパブに入り浸るようになった。言い掛かりをつけたり、あるいはつけられたりで、しばしば殴り合いの喧嘩にも発展した。そのうち不良の烙印を押され、狂犬だのドラ息子だの呼ばれ始めた。母もその噂を耳にしていたものと思うのだが、特に咎められはしなかった。何も言わずに、俺が家に帰る日を待っていた。
どれだけ荒れた生活を送ろうとも、ユークの面影は消えなかった。
その燻り続ける想いが、例えばジュリエットを想うロミオのようであれば健全だろう。ある種の爽やかさを持ちながらも、情熱的で、作中の台詞もあってか詩的な気もする。
だが俺の場合はそうではない。それは『嵐が丘』さながら荒涼とした世界を舞台に、キャスリンに想いを寄せ続けるヒースクリフのように、地獄の釜で煮凝りとなった執着に体を焼かれているのに近かった。
いずれはヒースクリフのように破滅の道を歩み出すに違いないと、自らの人生を諦めていた。報われない恋が恨みへと変わり、身勝手な復讐心でも湧こうものなら、その時は自ら命を断とうとも思った。
※※※
19歳の夏、ドイツがベルギーに攻め込んだ。バルカン半島で問題があってから事態が厄介な方向に転がり始めている気はしていたが、個人的にはやや唐突な印象を受けた。曲がりなりにも医学部に在籍しているだけにドイツ医学を身近に感じていたこともあって、不意打ちを喰らった気分になっただけかも知れなかった。
初めの内はそういうこともあるだろうと半ば無関心だったが、今にこの街にも飛行船がやってきて爆弾を落とすのではないかと噂が立ち始めて、ようやく戦争を現実として考えるようになった。
空に幾つもの巨大な飛行船。
黒々とした大量の落下物、真っ赤に燃える街。
怪物のような黒煙に土煙。
轟音、熱風に舞う灰燼。
かつてナポレオンの作ったような地獄が、この街にも押し寄せるのかも知れない。
その時、ユークの住む、あの美しいタウンハウスはどうなるのだろうか。街が火の海になったらば、ユークは逃げることができるのだろうか?
──亜麻色の髪を靡かせて、火の中を逃げ惑う幼いユークの姿が脳裏に過ぎった。
下らない喧嘩に明け暮れてまともに授業も受けていなかった俺は、既に大学での居場所を失っていた。医者になることにも拘っていなかった。だから兵役に志願することに抵抗はなく、ポスターの中のキッチナー元帥に誘われるがまま入隊した。
志願したことに反応を示してくれたのは警察官と母親くらいのもので、前者はもう俺に振り回されずに済むと喜んでくれ、後者は悲しむと同時に応援もしてくれた。家を出る前の日の晩に、子供の頃に俺が好きだったプディングを母が焼いてくれた。もう家政婦は雇っていなかったので、味も見た目も別物になっていた。母は失敗した、と言って笑っていた。
訓練キャンプでは、戦争など半年も経たずに終わるといった根拠のない楽観論が広まっていた。多くの兵がクリスマスの過ごし方を具体的に考えていたが、結果として実にめでたいその日は塹壕で過ごすこととなった。
来る日も来る日も穴を掘った。手のマメを潰した。掘って、掘りまくり、また手のマメを潰した。土の壁を築いた。砂の袋を積んだ。有刺鉄線を張り巡らせ、塹壕を走り、歯を食いしばって機関銃を放った。初めは兵として戦っていたが、後に医療の知識があることがバレて半分は担架卒として働いた。ここで戦っている間は、戦車を駆る豚畜生どもが故郷に上陸することはない。それだけでも自分に価値があるように思えた。
「次の休暇で故郷に帰る。結婚をしようと思うんだ。待たせてるヤツがいるのさ」
煙草を一本ばかり恵んでやったら、ウィリアム・マッソンが教えてくれた。農家の三男坊で、戦地で会った兵の中でも取り分けておしゃべりな奴だった。いつも一言余計に受け答えをするから、よく上官に殴られていた。
「こんな穴ぽこの中じゃあ、いつ死神に肩を叩かれるか分かったもんじゃねえ。それにアイツも単に俺を待つよか、万が一を考えて遺族年金を貰えるようにしておいた方がいい」
遺族年金という単語が、俺だけがいない世界を生々しく意識させた。
「お前にはそういう女はいないのか?」
ユークのことを思った。
「とっくに失恋したさ」
「忘れらんねえって顔だな」
めざとい奴だった。
「お前も帰ったら会ってみろよ。案外、お前の無事を祈ってるかも知れねぇぜ」
次の日、塹壕に塩素ガスを流しこまれてウィリアムは苦しんで死んだ。彼に休暇は来なかったし、彼の帰りを待つ女は遺族年金を貰うこともなかった。
戦いが激しさを増すにつれて、子供の頃を思い出すのが増えた。理由はわからない。これが幼児返りというやつなのだろうか。いや、単に一番幸せだった時期を思い出しているだけかも知れない。
日が暮れるまで近所の子供達で集まって遊んだ。煙突の煙で薄汚れた空の下──、フープ転がし、ビー玉あそび、凧揚げにトランプ、小部屋での結婚式、兵隊ごっこ──。
夢が現実か。泥と白煙の中を駆け回っていたつもりだったが、徐々に銃声や将校の叫びが遠ざかって、いつのまにか公園にいた。足の裏に柔らかな芝の感触があった。光と緑が眩しかった。木漏れ日がシャワーとなって降り注いでいた。
遠くに聞こえる街の喧騒に噴水の音。5月の雲雀が鳴いている。息が浅くなるほどに、質量を持った夏の兆しがそこにあった。
木陰に隠れていたユークが突然現れて、ブリキの銃を俺に向けた。そしていたずらな顔で「バン!」と引き金を引いた時、俺の目の前で榴弾が炸裂し、土をかぶった。そこからは記憶がない。
目覚めた時には左腕がなく、左目も見えなかった。
・神智学
テオソフィー。怪しいオカルト系学問。科学が発展し、機械化が進むにつれて霊的なエッセンスにも関心が集まった。東洋哲学と西洋のオカルトが融合したような思想が骨子となっている。
・レターブック
自身が送った手紙の内容を書き残しておくための本




