わたしには何も見えなかった…
『わたし、ハルと結婚するのよ。ウォーターハウス夫人と呼ばれるのが夢なの。黄金に光る水仙の絨毯と、太陽を閉じ込めた水晶の水車が、私たちを祝福してくれるの』
俺はユークに恋をしていた。
『ロミオとジュリエットのような運命的な恋って信じる? わたしは信じるわ。あるに決まってる。でなければ、世界がこんなに華やいでいて、輝いているはずがないんだもの。大人たちはさまざまなことに対してすぐに悲観をするけれど、わたしには、世界のどこを切り取っても楽園に見えるわ』
彼女は幼馴染だった。同じ街区に住んでいて、よく一緒に遊んだ。
『5月の雲雀が美しく歌うのは恋のため、イトヨが真っ赤に着飾るのも恋のため。鹿が角を磨くのも恋のためだし、蟻が空に羽ばたくのも恋のため』
宝石のような青い瞳が好きだった。風に揺れる繊細な髪が好きだった。小さなことで大袈裟に笑うところが好きだった。
『女のくせにこんな事を言うのは、はしたないと思われるかも知れないけれど、わたしはあなたが好き。夢にあなたが出てくると、どうしようもなく嬉しくて、どうしようもなく切なくなる』
いつも振り落とされるくらい激しくブランコを漕いで、花冠を編むのが上手で、抒情的な詩をたくさん知っていて、冗談を言うのが得意だった。活発であり、知的でもあり、チャーミングだった。
『きっとわたしたちには運命的なつながりがあって、どんなことがあっても魂が分つことはない。わたし、何の根拠もないけど、確信してる』
彼女は本なら何でも読んだ。だから、俺もたくさんの本を手にした。恋愛小説や冒険小説、歴史小説に古典戯曲、処刑や殺人ばかりを描く下らない三文小説まで読んだ。中には読むのに苦労する本もあったが、彼女との共通言語が出来たようで嬉しかった。
『たとえロミオとジュリエットのように運命の力に焼かれてしまおうとも、きっとわたしたちは結ばれる。その時はね、海に深く沈んでしまった真っ青な教会で、2人きりで、式を挙げるのよ』
あれは忘れもしない、今から丁度10年前。12歳の春の日。暖かな陽が降り注ぐ土曜日に、ユークは母親に連れられて診察室にやって来た。
当時、父に憧れていた俺は、頻繁に診察室に出入りしていた。そして突如として狂ってしまった彼女から、聞きたくもなかった気味の悪い作り話を聞いた──。
※※※
──ユークの中には別の人生があるらしい。
ただしそこでは『ユークレース・ハニーチャーチ』という名ではなく『Mizuki』なる奇妙な名前で生きたとのことだった。
Mizukiはアパートメントの一室で、両親と妹と、それから2匹の飼い猫と暮らしていた。家政婦も置かない妙な家に住んでいた。
彼女は小学校と呼ばれる、プレップスクールのようなものに通学した。そして教育熱心な親の下、土曜日においては個人的に私塾に通い、日曜日においては外国語を習いに行った。他人から何かを強いられることが嫌いなユークらしからぬ生活だった。その後は働かずに進学を選び、中学校なる学校を経て、高等学校なる学校に入学した。高等学校とは、きっと恐らく、話を聞く限り、文法学校に似たものと思う。わずかに異なる教育過程、違和感が胸を掻く。
次いでユークの小さな口から、見たことも聞いたこともない異界の生活が語られていった。
灰色に乾いた都会、摩天楼の森、羊のように群れる車、飛び交う巨大な飛行機、世界の誰とでも繋がれる小さな機械、今よりはるかに優れた文化の記憶──。
訳のわからないことばかりを言っている。
確かにユークは、普段から運命などという不確かなものを信じ、愛という感情に夢みがちで、ポエティックな所のある女の子だ。
だが、今日のユークはそうではない。明らかに様子が違う。
話は具体的で、かつ常識という枠を逸脱していた。存在しない単語までも使い熟し、まるで異邦人だった。
空想を語るという次元ではない。
毒気を帯びた妄想だ。
怖かった。
彼女の言葉の半分も頭に入らなかったと思う。
いつも優しい笑顔を浮かべているハニーチャーチ夫人も、今日ばかりは青褪めた表情でユークを見つめていた。忙しなく瞳が揺れて、肩が小さく上下していた。
ユークは虚空を見ていた。表情もなかった。落ち窪んだ目に光はなく、干からびた青い唇を少しばかり動かして、喋っている。まばたきは殆どない。体は彫刻のように微動だにしない。多動な面のあるユークが、背凭れを使うこともなく、姿勢を崩さずに、じっと、座っている。
彼女の身に何が起きたのだろう。
昨日まで笑っていたユークはどこに行ったのだろう。
手の込んだ冗談だろうか。
だとしたら、もう分かった。
十分に怖い。降参だ。
ユークからユークが消えてしまったかと思った。迫真の演技だ。
だから、頼むから、これ以上、変な事は言わないで欲しい──。
困惑する俺を他所に、ユークは訥々とストーリーを語り続けた。
Mizukiは学業で一定の成績を残し、大学への進学を決めた。そのことで友人らとささやかな祝宴を上げることになり、市内のカフェーのような場所に集った。そこで、友人の1人が密やかに言った。
『──Shirotakaに行ってみない?』
父が眉根を寄せて問うた。
「シロタカ? シロタカとは、何だね」
曰く、土地の名前らしい。彼女の世界『Nihon』の単語は総じて独特な響きをしていた。
その友人が言うに、シロタカには誰も住まわない屋敷が残っているとのことだった。それは『古い時代に存在した紡績会社』であり『市の所有物』であるらしい。
屋敷には妙な噂が付き纏っていた。例えば、椅子や机が浮かぶなどのポルターガイストが起きる。例えば、ウィル・オ・ウィスプが浮かんでいる。例えば、そこに立ち入ったものは1週間以内に死ぬ──。いわばホーンテッド・ハウスで、シロタカに行くことは肝試しを意味した。
Mizukiは肝試しに興味がなかったので、断る気だった。だが、友人たちは好奇心を抑えきれない様子で浮足立ち、どうも白けているのは自分一人だけらしいことに気がついた。そして断ることで謗られるのではと憂慮して、結局、彼女もシロタカなる土地に赴くこととした。
夜半を待って肝試しは決行された。自転車で20分ほど移動をして、4人はシロタカに到着した。様々な工場が立ち並ぶ地区にその屋敷はあった。敷地内は茫々と草が生い茂り、人が踏み入った跡はなかった。
Mizukiは闇に溶ける屋敷を見上げた時、妙にうそ寒い気がした。風邪の引き始めのような悪寒がした。直感的に、屋敷の中に入るのはよそうと思った。だが友人3人はホーンテッド・ハウスに入ることしか頭にないようだった。外で1人で待っているのは堪えるので、彼女は渋々後ろをついて行く事にした。
「それで、そのホーンテッド・ハウスには何かいたのかな?」
「何もいませんでした」
「では、こう、薄闇に浮かぶ影を見たとか、怪物がいたとか……」
「──わたしには何も見えませんでした。わたしだけは何も見えなかったんです」
友人らは一様に同じ方を向いて青褪めていた。具体的に言えば、エントランスホールから伸びる通路の奥、タールのように粘つく影を見つめていた。吹き抜けの窓から漏れる僅かの月明かりに彼女らの目がぬらりと光っていた。何かを捉えようとして瞳孔が開き切っていた。
なぜ友人らは急に固まってしまったのだろう。Mizukiは不安に思って、辺りを見回した。荒れたエントランスには象嵌入りの椅子や机が点々としている。割れた姿見や床に散らばるガラス片は闇に沈んで動かない。身近に異変の理由は落ちていない。
どうしようもなく怖くなって、真隣にいた友人の腕を引っ張った。不可解なことに、力一杯引っ張ってもぴくりとも動かなかった。話しかけても反応がなかった。
だから彼女は、みなが見つめる闇の先に、自分も何かを見つけようとした。それなりの勇気を持って凝視したが、どれだけ見ようとも闇は闇だった。彼女にはわからなかった。何もわからなかった……。
「でも確かに、あの日、わたしの全てが変わったんです」
その2日後に友人の1人が自害した。高所から飛び降りたらしかった。遺書が残っていて、そこには既婚者との恋愛に疲れた旨が書かれていた。
「遺書は尤もらしい内容に思えるが、『わたしの全てが変わった』とは、どういう意味かな?」
「その次の日に友人が自動車にひかれて死にました。同日の夜にもう1人の友人が浴槽で溺れて死にました」
薬品を整理していた看護婦が、手を止めてユークを見つめた。
「それで、君はどうなる?」
「わたしは肩が凝ったんです」
「肩が?」
彼女を襲ったのは癌だった。Mizukiは直ちに入院するに至った。そこで医師による診断が行われ、結果、根治不可能と判断されたとの事だった。
「癌で肩が凝る? 何だろう。乳がんか、肺がんか、或いは腫瘍が肥大して骨を圧迫しているのか……。病気が見つかって、ご家族は悲しんだろうね」
「死にました」
父は目を瞬かせた。
「何故?」
「わかりません。先に死にました」
「全員か?」
「はい。父も、母も、妹も。飼い猫さえも死にました」
ここまでを聞いて、俺は確信した。──ああ、ユークは気が触れてしまったんだ。
そう確信すると、足先、指先が冷えた。血の気が引いて行くのが分かった。
精神病と診断されてしまえばお終いだ。ユークは2度と普通の生活には戻れない。社会からは隔離され、結婚も叶わず、ハニーチャーチ家の汚点として封じられてしまうに違いない。
どうしよう。俺はどうするべきだろう。
そうだ。今すぐに彼女の小さな手を取って、そして診察室から逃げてしまおうか!
しかし無鉄砲に走り出したところで、その先はない。彼女は救われないし、俺に彼女を救うだけの力はなく、ユークを更なる破滅に追いやるだけだということは誰の目にも明らかだった。
この状況から脱することを考えれば考えるほどに窮していく。どうにもならないことが分かる。日常が崩れ去ってゆく。
「あの日、わたしの友達は何を見たんですか? なぜわたしの家族は死んだのですか?」
今まで凍りついていたユークの眼球が動いた。部屋の隅で凍りついていた俺を見た。砕けた宝石の瞳。
「──わたしは何に殺されたのですか?」
直接問われた気がした。そして1つの答えが頭を過った。
亡霊……。
ホーンテッド・ハウス。粘つく黒い影。
ユークは言った。あの日から、全てが変わった──。
途端に恐ろしくなった。わけもなく孤独感に襲われて、考えを振り払うようにして頭を横に振った。……今の感覚はなんだろう。ユークの狂気に当てられたのだろうか。亡霊だなんて非現実的だ。全ては狂気が生んだ妄想に決まっているじゃないか。
真実のみに目を向けて、現実を受け入れるべきだ。それがたった一つの冴えた方法だ。
もう昨日までのユークはいない。脳を病んだ。それを認めなくてはいけない。
そうしないと、俺まで狂気に飲まれてしまう。水は低きに流れるんだ。ここに壁を作らなくてはならないんだ。
「話しかけないでくれ。君は狂ったんだ、ユーク」
父の背中越しにカルテが見えた。そこには精神分裂と書き記されていた。
・Euclase Honeychurch
(ユークレース・ハニーチャーチ)
主人公。前世の記憶を持っているが、精神病だと診断された。
・Mizuki (ミズキ)
ユークレースの前世での名前。苗字の『水木』か、名前の『瑞稀』や『みずき』なのかは不明。
・Shirotaka (シロタカ)
埼玉県の小字。
・精神分裂
統合失調症の昔の呼び方。Schizophrenia (スキゾフレニア)。schizo=分裂した。phrenia=精神。




