オールド・ミンスター・ハウスの首吊りおばけ
──物音がして目が覚めた。
音は部屋の外から聞こえているようだった。時計は午前2時を指している。
廊下の様子をうかがうと、暗闇の中に一点の灯りが揺れていた。よく目を凝らしてみれば、リリーローズがランタンを片手に、えっちらおっちらと階段を降りている。
なにやら箱のようなものを手にしていて、腕には三脚を抱えていた。どうやら三脚がそこここに当たって物音がしていたらしい。箱はカメラだろうか。確か、去年の誕生日に買ってもらった、と言っていたような気もした。
(こんな夜更けに一体何を……)
少し考えて、ソフィの一言を思い出した。
『──私、嘘つきと話をすることなんてありませんから。二度と話しかけないでくださるかしら』
まさか、嘘ではない事を証明しようとしている? では、そのカメラで霊の姿を捉えるつもりとか……?
件のロッジは雑木林を通った先にある。もちろん整備などされていない。日中ならともかく、真夜中にそこを通るのはいかがなものか。アナグマも出ると言っていたし、脚を噛まれでもしたら大事だ。運が悪ければ敗血症になる。
わたしは彼女を追いかけることにした。羽織物とランタンを取って階段を降りたが、しかし彼女の姿は見当たらなかった。わたしの知らない勝手口から屋敷を出たのかも知れなかった。
屋敷を出て周囲を見渡してみたが、姿は見当たらない。ならば、と夜の庭園を駆けて暗い雑木林に入った。木々の隙間から覗く星空を見上げながら大樫の根本を目指す。林を抜けた先にロッジはある、と言っていたはずだが──。
(──まさか、これがロッジ?)
視界が晴れて廃屋が姿を現した。およそ屋舎と呼べるような雰囲気ではなく至る所が崩れかけていて、小山のようにも見えた。入り口らしき場所には扉もない。朽ちたらしい。
(風でも吹けば崩れそう。さっさと退散したほうが良さそうだ)
足元を照らしながら中に入る。暗い。ひ弱な灯りでは闇が飲み込んでしまう。
一歩、一歩と進む度に、ぎぃ、と頼りなさげな音で床が鳴いた。僅かに体が沈む。床全体も斜めになっていて歩きにくい。天井は歪んで下りてきていて、妙な圧迫感があった。
(……臭う)
様々な臭いがしている。
木の匂いにカビの臭い。
埃の臭いもする。
どこかでアナグマが死んでいるのだろうか、卵が腐ったかのような腐敗臭もしている。
中でも一番気になるのはある種の生臭さだ。腐敗臭は別物で、たとえるならば、コインを握りしめた後に手につく臭い──、つまりはオゾン臭がしている。
入り口を直進してエントランスホールに入る。崩れかけた外観からは想像できない程に、そこには生活の跡が残っていた。コート掛けにはそのままコートが掛かっていて、ブーツ置きにも泥の汚れがついたままのブーツが置かれている。壁にはフックがついていて、鍵束が吊るされている。暖炉の中には灰と火かき棒が突っ込まれていた。いつから放置されているのかは分からないが、廃屋にしては生々しい。
キャビネットの上には蝋燭立てが置いてあり、その横には倒れたマリア像、それから小さな写真立てが置いてあった。砂埃で覆われたガラス面を拭くとキリストの肖像が現れた。一般に、聖公会を信仰していればこのような簡易祭壇を仰々しく設ける事は少ないと思うが、カトリック信者でも住んでいたのだろうか。
仮にそうだとしても違和感がある。静かに祈るための空間を、客人を迎え入れるためのエントランスに置くものだろうか……。
「リリーローズ、いるなら返事をしなさい」
答えはない。声は闇に吸い込まれた。
「ダイニングでの出来事はお忘れなさい。あなたは『無価値』などと罵られるべき人間ではありません」
直進して、小さなドローイングルームに入った。放置された家具が倒れている。見回しても人影はない。わたしの影が灯りに揺れるだけだった。
床には小動物の糞と、そして木彫りのマリア像が転がっていた。その近くには濡れて乾いて波打つ聖書らしき本と、やはり蝋燭立てや写真立てなどの祈りのための道具が散乱していた。つまりドローイングルームにも簡易祭壇が設けられていたことを意味する。……まさか全ての部屋に置かれている?
「デヴァルー家にご厄介になると決まった時、わたしは孤立を覚悟していました。度を超えたネクラなもので、あまり優しくされたり気を遣われたりすると責められているように感じる性分なのですが、あなたのように勢いで接して貰えるとある種の気楽さを覚えます。少なくともわたしは、あなたの話には退屈していません」
部屋には小さな曇りガラスの入った扉があった。扉の先はダイニングルームだと思う。
「リリーローズがどう思っているかは分かりませんが、わたしはあなたのことを友人だと思っています」
近寄ってみると、扉の奥からカタカタと音がした。小刻みで均等だ。アナグマが爪を研いでいるのであれば良いが、果たして──。
胸の前で十字を切って、そっとドアノブに触れる。
ぱちん、と静電気が起きて、手を引っ込める。
体感、湿度はそこまで低くない。既に冬は遠い。乾燥による帯電とはまた別の理由で静電気が起きたと考えて良いだろう。
(damn……)
正直に言えば、ロッジに入った瞬間から予感はしていた。人間とは不思議なもので、悪い予感に対して軽々に向き合ってしまうと、概して恐れていることが現実になるものである。
予感などという不確かなものに捉われないようなるべく冷静になろうとしていたが、わたしの精神力が未熟だからなのか、無視をしようとすればするほどに悪い予感は膨れ上がってゆく。
(……わたしの中にもリリーローズの話は虚言だろうと決めつけている部分があったのかも知れない。正真正銘ホーンテッド・ハウスと分かっていれば、何か武器になるものを持ってきたのに)
この先に進むべきか。それとも出直すべきか。
一瞬の内に悩んで──、オカルトを語るリリーローズの楽しげな表情と、机に向かって『話したいことリスト』を作るその背中、それから、泣きながら年下の少女に謝る姿が脳裏によぎった。
進もう。今一度ドアノブを握って、ゆっくりと扉を押し開ける。
「リリーローズ」
部屋の中央、割れたダイニングテーブルの上に寝そべるようにしてリリーローズが倒れていた。彼女の側には持っていたランタンが転がっていて、火が消えている。ガラスも割れているようだった。テーブルの上には三脚が立てられているが、カメラは床に落ちている。
彼女の鼻からは血が漏れていて、口からは泡を吐いていた。両手足はピンと突っ張って痙攣を起こしている。失禁もしているらしい。瞳は斜視のようになって焦点が合っていない。顔面は白い。当然意識はなく、呼びかけにも応じなかった。
何が起きたかは分からない。分からないが、扉の前で引き返さなくてよかった。そして、今は状況を考えるよりも逃げたほうが良いだろう。
彼女を机から下ろそうと腰に手を入れた時、首元に痣があるのを見つけた。
ハッキリと手の形が残っている。
『──庭園に大きな樫の木が見えるでしょう……? 昔ね、あの辺りにはロッジがあってね、昔、そこで使用人が殺されたらしいの。な、何者かに首を絞められたそうよ』
リリーローズの話が耳に蘇る。
(ダメだ。意識してはいけない)
今のわたしは無防備だ。亡霊に襲われたらば対処できない。
であれば意識をしないことだ。『亡霊などいない』と思い込むことだ。奇妙なことなど何もないと思い込み、そして不気味なことなど何もない思い込むことだ。
亡霊を亡霊と認識しないことで、生と死の間に壁を作る。まずは信じないことが盾となる。わたしの精神が亡霊のテリトリーに入らなければ干渉される可能性も低くなる。
森の中で熊に出会った時とよく似ている。相手をするな。気づいていないふりをしろ。慎重に、冷静に。こちらから刺激せず、目の前のことだけに集中しろ。リリーローズをロッジの外に出さなくちゃいけない。
(……)
唐突に、わたしの鼻の奥から、スゥと抵抗なく何かが流れ出てきて、ポタポタと滴った。それが机を打ってパタパタと音がする。
鼻血だ。咄嗟に鼻を押さえた。
床に置いたランタンの火が消えた。もちろん吹き消したわけではない。
僅かばかり思考が停止し、そして、背後から囁き声が聞こえた。
『ガブリエルじゃない』
至近距離だったと思う。
3秒ほど遅れて、覆い被さるような寒気がした。
振り返らずにリリーローズを回収して去るべきだ。
無視を決め込もう。ここには何もいない──。
だが、視界の端で何かが揺れていた。
右に左に、一定に揺れる。
白い。直接は見ていないので実際に白いかは分からないが、白く感じる。
人は動くものがあると、それを意識せざるを得ない。
太古パンゲアの時代から備わる防衛本能だ。
そればかりが気になって、他に頭が回らない。
顎から鼻血が垂れて、机を打つ音だけが聞こえている。
──誰かが後ろにいる。
認めてしまった瞬間、そっと、冷たい何かが首元に触れた気がした。
わたしは反射的に背後を振り返った。
揺れているのは青白い素足だった。覚悟を決めて、それを見上げる──。
白い服を来た女性だ。手足はだらりと下げて、蓬髪が顔を覆っている。首には縄がかかっているようで、体が梁に吊るされていた。
蓬髪から眼球が覗く。
瞳が蝿か虻のように忙しなく動いている。
それがぴたりと一点に止まって、わたしを見た。
目が合った。
・ドローイングルーム
食事前の待合室。客人がいる時は食事後にも使うことがある。




