運命なんざ犬にでも食わせとけ
──足が床を離れて、背中に衝撃が走った。後頭部を強かに打ち付ける。
何が起きたかを理解するのに数秒要した。どうやら体を床に叩きつけられたらしかった。
苦しい。咳き込みそうだが咳き込めない。喉に空気が通れるほどの隙間がない。押さえつけられるような形で首が圧迫されているようで、しかし自分の首に触れてみても人間の手であるとか、或いは紐や縄のようなものはなかった。見えない何かに掴まれているとしか言いようがなく、身を捩り体を翻そうと思っても、まるで脱せない。足で床を掻くことしか出来ない。
ぎいぎいと梁が鳴っていた。吊られた女がゆっくりと、小さく、左右に揺れている。蓬髪の間からじっとわたしを見下ろしている。考えを読み取ることはできないが、少なくとも、歓迎されていないことは理解できた。
意識が遠のいてゆく。酸素が足りていない。頭が回らない。
このままでは死んでしまう。ある程度物事が考えられる内に脱しなくてはならない。
わたしは半ば無意識に辺りに手を伸ばした。何かを掴もうとした。何でもよかった。
指先に固いものが当たった。ぐりりと黒目を動かしてそれを見ると、棒の先にたばこ入れのような浅い箱が付いた道具が転がっていた。
(──閃光器)
暗闇では霊の姿をおさめられないと考えたのだろう、リリーローズが用意していたらしい。
彼女にとっては皮肉だが、亡霊は環境の変化を嫌う。したがって激しい光も苦手だ。閃光器を使えば、この窮地を脱することが出来るかも知れない。
扱った事こそないが、家族写真を撮る際には幾度となく目にして来た代物だ。低酸素に喘ぐ頭にもう一踏ん張りしてもらって、写真屋がどのように使っていたかを思い出してみよう。
STEP① 留め具を外して箱の蓋を開放する。
STEP② 中にマグネシウム粉を乗せる。
STEP③ 柄についたトリガーを引く。
STEP④ 箱の中のフリントホイールが回転、ライターの要領で火花が散ってマグネシウムに着火、激しい閃光を放つ。
そうしてわたしは祈った。頼む、リリーローズ。几帳面であれ。暗闇の中での準備は難しいと考えて、箱の中にたっぷりとマグネシウム粉を入れていてくれ。
胸の前に閃光器を持ち、震える指で箱の留め具を外す。ぱかりと音を立てて箱が開く。中に粉が入っているかどうか目視をする余裕はない。トリガーを引いて歯車が回った──。
※※※
わたしとリリーローズは、何とかロッジから生還することができた。正直に言えば幸運だったと思う。今回の生還に再現性はなく、単に賭けに勝ったというだけで、強いて言えばリリーローズの几帳面さがわたしたちを救ったのだった。
朝になって警察が到着した。形式的な事情聴取があって、ロッジを寝床にしていた浮浪者か密猟者が襲いかかって来たのだろうということになり、その線で捜査が進められることになった。
リリーローズはまだ目を覚ましていない。首を絞められていた時間が思いの外長かったようで、医師によれば予断を許さないとのことだった。
ソフィはリリーローズが暴漢に襲われたと知るや否や取り乱した。
「だ、だって、私っ、そんなつもりじゃ──。ただ、お屋敷で過ごすのが楽しみだっただけなのに……。こんな事になっちゃって、わたしっ……!」
そう言い残すと彼女は部屋に閉じこもった。自身の発言が彼女を追い込んだと思ったのだろう。戦時下の都会で草臥れてしまった心を癒したいと考えていたろうに、なんとも気の毒な結果になってしまった。
「ああ、リリーローズ……。どうしてこんな馬鹿な事を……。あなたは本当に馬鹿ね……」
デヴァルー夫人もひどく動揺していた。絶えず呼びかけてはいるもののリリーローズは返事を返さないし、だからといって幾ら待ってみても彼女が起き上がる気配はなかった。やがて夫人は疲弊して、熱を出して寝込んでしまった。
一方で次女のシャーリーと三女のヴィクトリアは堂々廊下で大げんか。流石に取っ組み合いにまでは発展しなかったが、『そろそろ誰かが間に入って止めるべきだ』と使用人間で役割を押し付け合う程度にはヒートアップした。
「私のせいじゃないわよ。むしろシャーリーお姉さまが意地悪な言い方をしたから、リリーローズお姉さまが追い詰められてしまったのじゃなくて?」
「あなた、私のせいだって言いたいの……!?」
「言ってたじゃない。『虚言ばかりでうんざりする』って。あんな言い方は人としてどうかと思ったわ」
「言ったけれど、言ったかもしれないけど……、そ、それは……、みんながお姉さまを責めるからで……」
「責めるから何? 一番に追い込んだのはあなたのに、なんで被害者ぶれるわけ?」
「あんな場で自分の意見なんて言えるわけがないじゃないっ! そんな勇気は出ないわよっ!」
「じゃあお姉さまをいじめる勇気は出たわけね」
「な、なによそんな言い方……っ!」
「卑怯よ、シャーリーお姉さま。大事になってから『自分は悪くない』みたいに言い訳して。もういいわ。シャーリーお姉さまと話してると疲れてしまう。あなたが思うよりも深刻な事態なの、わかってるのかしら……!?」
そうしてヴィクトリアは背を向けて去ってしまった。
「何よ、何なのよ、どっちが卑怯よ……! まるで私だけが悪いみたいな言い方をして……! あなたがソフィに乗っかってお姉さまを虐めたんじゃないのっ!?」
シャーリーはぼろぼろと涙を流しながら、静かに去りゆくヴィクトリアの背中に怒号を浴びせた。
「ひどい!! 最低よ!! 大っ嫌い!!」
個人的にはあんまり考えたくはないことだが、仮にリリーローズが二度と目を覚ますことがなかったら、デヴァルー家に大きな禍根を残すことになるだろう。ソフィの心にも修復不可能な傷が残るに違いない。きっと、誰もが苦しみながら生きていくことになる。
(これもまた運命なのだろうか)
わたしは小説でも映画でも、ハッピーエンドが好きだ。特に善玉も悪玉も報われるパーフェクトなハッピーエンドが好きだ。誌面上の評論家が『非現実的だ』と顔を真っ赤にして怒っていようとも、そうした作品が好きだ。
どんな物語でも進行していく内に主人公や脇役の人となりが分かってきて、善玉であろうと悪玉であろうと好きになってくる。大概彼らには彼らなりの想いや生き方があって、実直に生きているに過ぎない。もちろん悪玉は行った悪事に比例するだけの禊を済ませる必要があるとは思っているが、最終的に、今を生きる人間はみな幸せになるべきだと思う。……でなければ人は何のために生きるのか。
(運命なんざ犬にでも食わせとけ、Fack,Fack,Fack──!)
わたしはリリーローズのために祈るのをほどほどの所で切り上げて、執事のホーキンズ氏を訪ねて階下に降りた。
「──はて、使用人名簿を見たいと? 何故そのようなものが気になるので御座いますか」
「あのロッジには元々誰が住んでいたのかを調べたく存じます」
「これまたどうして」
「好奇心、という答えでは不足でしょうか」
それらしい理由が見つからなかったので断られるかと思ったが、曰く『ユークお嬢様が頼み事をするとは珍しい』『何か深い訳があるに違いない』とのことで、深くは詮索せずに執事室に入れてくれた。沈黙は金、とはよく言ったものである。これからも多くを語らず御厄介になりたいものだ。
「まさか領地に不届者が潜んでいるとは思いもよりませんでしたな。門番も戦地に取られては、このようなこともありましょうか……」
本来ならお家の恥だ、とホーキンズ氏は落胆している様子だった。
「しかし、一昨日にはアナグマ用の毒餌をロッジに仕掛けましたが、人気があるようには思えませんでしたなぁ」
「ロッジに入ったのですか?」
何某かに襲われなかったのだろうか──。
「ええ、何度も入ったことがありますとも。ですが浮浪者のねぐらになっているとは到底……」
そしてホーキンズ氏はため息を一つ吐いて、使用人名簿を手渡してくれた。色々と疑問はあるが、一先ずは名簿を遡ってみよう。
まず、ここ1・2年は第一下僕、第二下僕に庭師と、若い男が徴兵のために離職していて、それより以前は家政婦や運転手がぽつぽつと入れ替わっているようである。特に疑問点は見られない。
しかし遡ること暫くして、妙な記述を見つけた。
『ルーシー・コリンズ 死亡のため見舞金払う 20ポンド エセックスへ』
その頁で手を止めているとホーキンズ氏は、
「気立てがよく、実直で、優しい子でありました。働き始めて一年も経たぬうちの悲劇でしたな。まだまだ若く、人生これからという時に──」
「──ロッジで首を絞められて殺された」
ホーキンズ氏は目を丸くしつつ、
「そう言えばリリーローズお嬢さまが皆様の前で『過去にロッジで殺人事件があった』と言ってしまいましたな。気分の良い話ではありませんから当時を知る使用人たちは口を噤んでおりますが、しかしユークお嬢様は死因までご存じとは」
「リリーローズの十八番ですので」
「まあ、乙女好みしそうな話ですから、知っていれば誰かに語りたくもなりましょう」
そしてホーキンズ氏は自身が知っていることについて教えてくれた。
まず、あのロッジは元々猟番小屋だった。かつて大樫より北側は狩猟地となっていたらしい。厳密に言えば今でも狩猟地ではあるのだが、管理がされていない為に荒れ放題で、遊猟には使えない。
事件当日は慌ただしかった。故デヴァルー氏が自由州から帰国し、しかも婚約者(もちろん夫人のこと)を連れ帰ってくるということで、屋敷では歓迎の準備が進められていた。
家政婦のルーシーは忙しくて手の回らない料理人に代わって、お祝いに欠かすことのできない七面鳥をしめて貰うよう、猟番に頼むべくロッジに向かったが、その後、死体で発見された。警察の調べでは絞殺とのことだった。
初めは猟番が疑われたが、彼は庭師と共に罠にかかったアナグマをしめていた事が証明されている。門番も不審者を見ていないし、村にも不審な人物を目撃した者がいなかったことから、犯人は屋敷の人間だとされた。しかしながら、全員にアリバイがあった。
以降縁起が悪いということでロッジは使用されなくなった。猟番も屋敷内に部屋を与えられたが、独身だったために昨年春に北フランスへ飛ばされ、狩猟地の入り口には有刺鉄線が張られた。
「なんだか今回と似たような状況ですなぁ。十年以上前の話なので、ただの偶然かとは思いますが……」
さらに名簿を遡ってみると、1879年にマーガレット・アンダーヒルなる人物が『死亡で退職』とあった。これはホーキンズ氏が屋敷で働く前の話なので、詳しい状況はわからない。ただ、マーガレットは家政婦であり、雇用されたのも同年であるから、若い女性と考えて良いだろう。
また遡って1877年、エダ・ブラウンという料理場手伝いが『狩猟地、事故死』にて離職。意味深である。ロッジも狩猟地と言えば狩猟地であるし、しかも手伝い係が狩猟地にのこのこと入って行くなどは考え難いから、猟番小屋、つまりはロッジに行ったものと思われる。
そして1870年の暮にサラ・バーンズという女性が死んだ。理由は『殺人』とある。穏やかではない。どこで死んだかは記載がないから分からないが、ロッジと無関係とは思えない。
いずれにせよ、エダもサラも女性である。サラは子守りとして雇われているしエダは料理場手伝いであるから、言ってしまえば2人ともぺーぺーで、マーガレットもルーシーも若かったし、そしてロッジで襲われたわたしもリリーローズも若い娘だ。これを偶然とは片付け難い。
なお、ホーキンズ氏は度々ロッジに行っているようだし、そもそも猟番はそこに住んでいる。即ち、男性は無事であるらしかった。
──何故、亡霊は若い女だけを襲うのだろうか。
疑問に思いながら頁を捲っていくと、また妙な記述を見つけた。時は1831年。今より86年も前である。
『アビゲイル・ウェントワース 退職 大樫の離れに家移り』
大樫の離れ? 恐らくはロッジの事だとは思うが、『離れ』という単語はいかにもゲストハウスを思わせる。とするとあの屋舎はもともと猟番小屋ではなく客舎だったのだろうか。確かに、猟番を住まわせるにしては立派な気もしていた。エントランスホールもドローイングルームも備わっているので。
しかしこのアビゲイルなる人物はなぜ退職したのに領地から出なかったのだろう。屋敷に留まる理由が思いつかない。
名簿を読むに、アビゲイルは退職する2年前に家政婦として働き始めた。その後、件のロッジに転宅したらしいが、彼女は死んではおらず、その後『サリー郡貧民狂人収容所に入院』と書き添えられている。
「サリー郡貧民狂人収容所……」
聞いたことのない精神病院だった。
「今はもう無い病院ですな。確か併合されたはずで、名前を、えーっと、──聖メアリー総合病院とか」
・猟番小屋
ゲームキーパーが住む家。大概は屋敷の敷地内にある。
・猟番
敷地内の猟場を管理している人間。
・ゲストハウス
屋敷に遊びに来た人が泊まる場所。




