1日目
1日目 月曜日
「……遅刻?」
『悪い! マジで寝坊した!』
「お前さぁ……」
駅のホームで、俺は思わず天を仰いだ。
電話の相手は武。
小学校からの腐れ縁で、今回のアルバイトに誘った張本人でもある。
正確には、求人を見つけたのは俺だが、武が「俺も行く!」と言い出したのだ。
そして当日。
集合時間になっても姿を現さない。
嫌な予感がして電話をかけてみれば、案の定これである。
『いや、目覚ましはセットしたんだよ!』
「それで?」
『止めた』
「寝るなよ!」
『いやー、昨日ゲームが盛り上がっちゃってさ』
「知らねえよ!」
俺はため息をつく。
「とりあえず俺は先に行くぞ。お前は後から来い」
『了解! 昼過ぎには着けると思う!』
「絶対来いよ!」
『任せろって!』
……まったく信用できない返事だった。
◇
潮隠村。
そこは海と山に囲まれた、小さな集落だった。
最寄り駅からバスに揺られること約1時間。
途中から道路は細くなり、窓の外には鬱蒼とした山林が広がっていた。
そして長いトンネルを抜けると、突然視界が開けた。
「……おお」
思わず声が漏れる。
目の前には青い海。
山の斜面に沿うように古い民家が並び、その先には小さな漁港が見えた。
背後を山に囲まれ、正面を海に塞がれた村。
陸路で出入りするには、先ほどのトンネルを通るしかないらしい。
いかにも田舎の集落といった風景だ。
ただ、ひとつ気になることがあった。
「……なんか臭くね?」
バスを降りた瞬間、鼻をくすぐった独特の香り。
何か腐敗……いや、発酵したような、あの匂いだ。
気のせいか?
「おお! 君が悟史くんかね!」
声のする方を振り向くと、麦わら帽子を被った老人が立っていた。
「はい! 今日からお世話になります!」
「うむうむ。遠いところからよく来てくれたのう」
老人は満足そうに頷いた。
「ワシはこの村の村長をしておる、潮見源蔵じゃ。よろしく頼むよ」
「こちらこそよろしくお願いします!」
「もう1人来ると聞いておったが?」
「あー……すみません。友人が寝坊しまして」
「ほっほっほ! 若いのう!」
村長は愉快そうに笑った。
「まあよい。先に説明だけ済ませてしまおうかの」
◇
仕事内容は実に単純だった。
村に届く大量のチーズを倉庫へ運び、必要に応じて各家庭や施設へ届ける。
それだけ。
ただし、その量が尋常ではなかった。
「……これ全部チーズですか?」
「そうじゃよ」
倉庫いっぱいに積み上げられた段ボール。
そのすべてに、チーズと書かれている。
「いや、どんだけ食うんですか!?」
「ほっほっほ! ちー様のおかげじゃよ!」
「……は?」
「この村では古くからちー様をお祀りしておっての。毎日欠かさずチーズをお供えするんじゃ」
「へえ……」
「おかげで村は今日も平和じゃ!」
「……そうなんですね」
いや。
なんでチーズなんだよ。
という疑問は飲み込んだ。
信仰というものは、部外者が軽々しく口を出すものではない。
それくらいの常識は俺にもある。
「それと、ひとつだけ約束してほしいことがある」
村長の声色が変わった。
「村の北側には山道があるんじゃが、その先には古い社があっての」
「神社ですか?」
「うむ。そこは禁足地になっておる」
「禁足地……?」
「決して近づいてはならん。よいな?」
村長は俺の目をじっと見つめた。
先ほどまでの穏やかな表情とは違う。
妙な迫力があった。
「……わかりました」
「うむ。それならよい」
そう言うと、村長は再び穏やかな笑顔に戻った。
「さあ、まずは昼飯にしようかの!」
……切り替え早いな、この爺さん。
◇
午後になって、ようやく武が到着した。
「いやー! 悪い悪い!」
「悪いと思ってんなら走ってこい!」
「まあまあ。無事着いたんだからいいじゃねえか」
「お前なぁ……」
結局、武は村長からの説明を受けることなく、そのまま仕事に合流した。
俺も改めて説明する必要はないと思っていた。
仕事内容は単純だし、村の人たちも親切だ。
ただチーズを運ぶだけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
夕方まで作業を続け、俺たちは宿泊先へ案内された。
海沿いに建つ、小さな民宿。
部屋には2段ベッドがひとつ。
「うわ、懐かし! 修学旅行みたいじゃん!」
「俺上なー」
「寝坊したくせに勝手に決めんなよなー」
そんなくだらない会話をしながら、俺たちは荷物を片付けた。
夕食を食べ、風呂に入り、スマホをいじる。
特に変わったことは何もない。
海から聞こえる波の音が心地よかった。
「なあ、悟史」
「ん?」
「このバイト、当たりじゃね?」
「まあな」
「飯もうまいし、宿もタダだし。最高じゃん!」
「お前が寝坊さえしなきゃな」
「まだ言う!?」
笑い声が部屋に響く。
こうして、俺たちのアルバイト初日は何事もなく終了した。
◇ ◇ ◇
2日目 火曜日
「なあ、悟史」
「ん?」
「この村って、なんでこんなにチーズ食うんだろうな?」
倉庫で段ボールを運びながら、武が首を傾げた。
「知らねえよ」
「いや、だっておかしくね? 昨日からずっとチーズ運んでんじゃん」
「まあ、そうだけど」
「しかもさ、村の人口って何人くらいなんだ?」
「さあ? 数百人くらいじゃね?」
「絶対食い切れねえだろ、これ」
確かに。
昨日から運んでいるチーズの量は、明らかに村の規模に見合っていなかった。
「なんか神様に捧げるらしいぞ」
「神様?」
「ちー様っていうんだって」
「…………」
「…………」
「チーズだから?」
「そうらしい」
「ぶはっ!」
武が吹き出した。
「なんだよそれ! 安直すぎんだろ!」
「俺に言うなよ!」
2人で笑っていると、背後から声がした。
「おやおや、ちー様のお話かね?」
振り返ると、腰の曲がった老婆が立っていた。
「あ、すみません。ちょっと気になりまして」
「ほっほっほ。若い人は知らんじゃろうねえ」
老婆は嬉しそうに頷いた。
「ちー様は、この村をずっと守ってくださっておるんじゃよ」
「へえ……」
「昔からのう、村で困ったことがあると、ちー様がお助けくださるんじゃ」
「例えば?」
武が尋ねる。
「そうじゃのう……」
老婆は少し考え込んだ。
「昔、村に大きな病が流行ったことがあったそうじゃ」
「病気ですか?」
「うむ。じゃが、ちー様にお祈りをしたら、皆元気になったんじゃと」
「へえー!」
「それ以来、この村では毎日チーズをお供えするようになったんじゃよ」
「……なんでチーズなんですか?」
俺が尋ねると、老婆は不思議そうな顔をした。
「ちー様じゃからのう」
「…………」
「…………」
いや。
だから、その理由を聞いてるんだけど。
「ありがたや、ありがたや」
老婆は両手を合わせ、何度も頭を下げた。
俺と武は顔を見合わせる。
「……なんかすげえな」
「……だな」
まあ、信仰なんてそんなものなのかもしれない。
俺たちは再び段ボールを運び始めた。
◇
その日の夕方。
村の小さな商店で、俺たちは飲み物を買っていた。
「なあ、これ見ろよ」
武が指差したのは、店の棚だった。
そこには大量のシュレッドチーズが並んでいた。
「……またチーズかよ」
「しかも全部同じやつじゃね?」
確かに、パッケージはどれも同じだった。
業務用の大袋。
家庭で使うには少々大きすぎる。
「この村の人、どんだけチーズ好きなんだよ」
「そのうち血液までチーズになりそうだな」
「それはもう人間じゃねえだろ!」
俺たちは笑いながら店を出た。
店先では、先ほどの老婆が大量のチーズを買い込んでいた。
「……あんなに買ってどうすんだろ」
「チーズパーティーじゃね?」
「毎日かよ」
武の適当な返事に、俺は思わず笑った。
このときの俺は、まだ何も疑っていなかった。
引き返すなら今です。
ここから先はきっと戻れなくなります。




