第9話 夏。
「なあ、ジュリ。リュシーの息子はいつ頃乗れるようになるんだ?」
広い放牧場に出された何組かの親子馬を柵にもたれ掛かって眺めながら、婿殿に質問された。
「2年…3年、位かな。体がきちんとできてからでないと人は乗せないな」
「そうか。なるほど」
そうだな。婿殿がこの領を出る頃は、まだ無理だな。
「婿殿はあの馬が気に入ったのか?記念に差し上げよう。こちらできちんと調教して…レミ伯爵領に送ればいいか?」
「うーん……」
「まあ、考えておいてくれ。さあ、行くぞ」
今日は私も婿殿も長袖シャツにエプロンに麦藁帽子に編み上げブーツ。
いよいよ蕎麦の刈り入れが始まる。領主用に作られている畑では、近隣の手の空いている者や屋敷の者、みんな総出で刈り取って、立てて乾燥させる。
「まだ青いのがあるぞ?いいのか?」
隣の列を刈り取っている婿殿が聞いてくる。
「ああ、いい。立てて干すことで、熟成するから」
「へえ」
刈り取って、束ねて、立てる。
永遠とも思えるような作業が、夕方まで続く。
「腰が痛てぇ」
帰り道。腰を伸ばしながら婿殿がそう言うと、こうしたらいい、ああしたらいいと、使用人や領民が笑いながら声をかけてくれている。
「うちの孫がな、婿殿の勉強の教え方が上手いと言っていたぞ。手紙を書いたらしい」
「ああ、うちの息子も言っていた。婿先生って」
「あはははっ」
照れながら婿殿が笑っている。
「学校で、教えているのか?」
そう私が聞くと、少し恥ずかしそうに婿殿が、
「僕は出来が悪かったからね。どこでつまずくのかを知っているだけだよ」
そう言って笑う。
「ほら、勉強ができる奴はさ、なんでこんなことができないの?って言うだろう?その点、僕はできないことを知っているから、出来ない子に教えやすいんだよ。あんまり自慢することでもない」
…なるほど。そんなものか。
夏場の夕暮れは明るい。夕日に婿殿の長くなってじゃまなんだと小さく結んだ金色の髪が光って見える。私の弟は、私によく似た茶色の髪だった。
いつか…何年か後に、こんな夏の日を思い出すのかもしれないな。
***
「こんな感じでよろしいですか?旦那様」
「うん。ありがとう、アンヌ。上手だね」
窓を開け放した客間で、畑仕事から帰ってきた旦那様に頼まれて、シーツを巻き付けて髪を切った。
もう夕方だが、今頃の季節はずい分遅くまで明るい。
アンヌは今しがた切った髪を片づけながら、鏡越しに満足そうにしているシリルを眺めた。思いっきり短くして、と言われたので遠慮なく切った。お顔は随分日に焼けた。
「せっかく綺麗な髪でしたのに」
「だって、畑仕事するとき邪魔だしね。ねえアンヌ、こんなに上手なら、ジュリの前髪も切ってあげればいいのに」
「…当主は…他人にお顔を見られるのを嫌いますので…」
旦那様がどこまで知っているのかわからないので、アンヌは慎重に答えた。
「疱瘡で顔が見れないぐらい酷い跡があるって噂だったけど、全然そんなことないじゃない?ジュリが畑で汗を拭いてたから見ちゃったんだけど…ほんのちょっとニキビの跡みたいな?中等部時代の同級生の方がニキビの跡がひどかったぐらいだよ?そばかすもかわいいよ?」
鏡で短くなった自分の前髪を触りながら、旦那様がなんてことないように言う。
「疱瘡、ではございません。ただの水疱瘡、だったんですけどね…」
「ああ。なるほど。噂ってどんどん大きくなっちゃうんだね」
「……」
アンヌは切った髪が付いたシーツを内側に器用に丸め込みながら、しばらく考えて、口を開いた。
「小さい頃、お嬢様とお坊ちゃま…弟君が水疱瘡に掛かりましてね。熱が下がらず、まだ3歳だった弟君が…亡くなってしまいまして。お嬢さまも発疹はひどかったのですが何とか一命をとりとめたのですが…。奥様が…非常に落胆されまして…」
「……」
「うつる病気ですので、弟君のお葬式もひっそりとしたものでした。奥様は…気落ちされて寝込まれて…間もなくお亡くなりになられて」
「……」
「奥様のお葬式の時、お嬢さまのお顔の水疱瘡の跡を親戚の娘に…気持ちが悪い、うつってしまうと大騒ぎされまして…それ以来…。あの時お嬢さまはまだ8歳でした」
「…え?たったそれだけのことで?15年間も?」
「…それだけ、と言うには…お嬢さまにはおつらい体験だったのでございましょう」
「あ……ごめん」
鏡越しの旦那様が、自分で言った言葉に傷ついている。素直な方だ。
ブラシで旦那様の服に付いた短い髪を払っていく。
いつか…お嬢さまが長い前髪を切って…誰の前でも笑えるような日が来てくれればいいと思う。ずっとそう思ってきたのは私だけではない。15年間…皆がそう思いながら静かに見守ってきた。
「でもね、アンヌ。ジュリはね、とても綺麗な優しそうな緑の瞳だったよ。もったいないよね」
「そうですね…私どもも…もう随分と長いこと見ておりません」
この方が…いつかお嬢さまの前髪を切るきっかけを作って下さるだろうか?
そんなことを考えながらアンヌは、旦那様の短くなった髪を櫛で梳かし始めた。




