第5話 アンドレの苦難。
「いやあ、こんなにうまくいくとは思わなかったよ」
客間に帰ってきたシリルは、大きな寝台に飛び込んで笑った。心底楽しそうだ。
食事に行っている間に屋敷から持ってきた荷物はすべて解かれて、綺麗に片付いていた。靴のブラシまで終わっているようだ。
「苦労してこんな辺鄙な場所に来たかいがあったよ。一年かぁ、あっという間だね。しかも、好きなように暮らしていいって。なんにもしなくていいらしい。僕の天職、だね!」
脱ぎ捨てられた上着を畳みながら、アンドレが苦笑いをする。
「アンドレ。お前どうせ父上にお目付け役で付けられたんだろう?下手に書くなよ?上手くいったとだけ書いておくれ」
次の日から、シリルは使用人たちから「旦那様」と呼ばれるようになった。徹底した教育がされているのだろう。
アンドレは2日、3日は怠惰な生活を送るシリルに付き添っていたが、もともとの性格が貧乏性なのか…ヴァレリー伯爵家がどんな家であるかの興味もあったし…執事長に言って仕事を貰って働き出した。
「私の給金はレミ伯爵家から支払われておりますので、お気になさらず」
そう言って、銀器磨きや、靴磨き、厩舎の手伝いまで…。坊ちゃまのことは屋敷付きのメイドがなんとかするだろう。
使用人はそう多くない。
厩舎関係の使用人を除くと、20人いるかどうか。今まで屋敷に住んでいたのが当主だけだったことを考えると、十分な人数な気もする。来客も、商談のお客がほとんどのようだ。
仕事終わりには使用人なら誰でも使える大風呂もある。
アンドレは大風呂に入って、従業員用の食堂で食事をとるようになって、他の使用人から新人だと思われていることに気が付いた。訂正するのも面倒なので、そのままにしている。
「この屋敷は働きやすくていい。結婚も自由だ。独身寮のほかに、既婚者用の社宅の長屋もある。おめえも、いい子がいたら結婚したらいい」
そんなことを風呂に入りながらじいさんたちに話しかけられる。王都の屋敷では、使用人は独身が多い。住み込みが多いのもその理由の一因だが、女性なら妊娠したりしたら仕事にならないから。
「…結婚か…」
「んだんだ。仕事ならいくらでもある。農家でもいいし、牛飼いになってもいい。家に年寄りがいるなら時間を決めてチーズ工場で働けばいい。うちの領は食用の牛が主流だが、乳牛もいるからな」
「んだ。うちの当主は子供を大事にしてくれる。いいところだぞ?」
この領のもうひとつの特徴は、女性が仕切っている仕事が多いこと。
チーズ工場の工場長も、馬の調教師も女性だ。女性が多い、というより、徹底した能力主義、と言った方がいいだろうか。
ヤンじいさんが俺を連れて歩いてくれたから、けっこういろいろと見学できた。そんなこんなで、1か月ほどたった。
ここのところシリル坊ちゃまの部屋の控室に戻る頃には疲れて寝るだけだ。
厩舎の仕事は朝早いので、俺が部屋を出ていくとき、まだ坊ちゃまは眠っている。
坊ちゃまは相変わらず部屋でゴロゴロしているようだ。朝食も昼食も部屋で召し上がって、当主が屋敷にいるときには夕食だけダイニングに降りていくようだった。
「ねえねえ、アンドレ。もう寝るの?」
「はい。明日も早いものですから」
ごろりと寝返りを打って、控室のドアを開けて何かと話しかけてくる坊ちゃまの声が聞こえないように枕で耳を覆う。
「さすがに退屈なんだよね。メイドに可愛い子がいるんだけど、もう既婚者みたいだし」
「……」
(あなたもな)
「なんだかみんな当主が好きみたいで、当主の話ばっかりしてくるんだ。先代から代変わりしてからこう変わった、とかね、教会で休みの日には勉強ができるのだとか、屋敷の図書館は領民にも開放されているとか…ねえ、聞いてる?」
「……」
知ってるし。
…うるさい…。
「それにさあ、あの当主、23歳という割には老けて見えるよね。猫背だし。前髪長くて顔見えないし。顔見せらんないぐらい酷いのかな?しかも、学院も出てないらしいよ?ドレスもみんな古めかしい、おばあさんの形見みたいなのばっかりだしさあ…。それに領地を回っているらしくてあんまり屋敷にいないんだよ。外回りなんか、使用人に任せりゃいいのにね。そんなことも分かんないのかな」
「……」
「ねえ?聞いてる?アンドレ?」
「ん、だああ!」
がばりと布団を蹴とばして、眠いのに眠らせてもらえない俺はさすがに怒った。
「いいですか、坊ちゃん。あなたも学院は出ていないでしょう?中退は卒業したとは言えないんです。あの方は交易に必要なブリア語もイリア語もぺらっぺらに話せます!なんならイング語も不自由なく話せます。それに、使用人も簡単なあいさつ程度なら2か国語を話します。出来ますか?あ・な・た・に?」
「えー学院でブリア語は少し習った、かな?それにしたって、アンドレは僕の侍従のはずなのに、冷たくない?」
「そうですね。学院でブリア語は必須です。赤点でしたね、坊ちゃま」
「アンドレ?」
「…これだけは言うまいと思っていましたが…私はキチンと学院を卒業しています。もういいですか?寝たいんですけど」
「えー」
蹴とばした掛布団を頭からすっぽりと被って、俺は寝ることにした。明日早いし。




