第17話 井戸の底にあるもの。
翌朝早い時間に、シリルが旅行カバンを抱えて出て行った。門のところで振り返って一つ深い礼をして…そして霧の中に消えていった。
眠れないまま机の前で過ごした私は、カーテンの陰から彼を見送った。
アンヌが部屋に駆け込んできて、泣きそうな顔で叫んだ。
「お嬢様!旦那様が行ってしまわれます!」
「ああ。そうするように、私が言った」
そう言うとアンヌは、顔をゆがませて部屋を出て行った。
なんてことはない。シリルと出会う前の日々が戻っただけだ。
***
一週間ほどしたある朝、教会のシスターが当主を訪ねてきた。たまたま
領地を見回りに出かけていた当主の代わりに、アンヌが対応した。
「これを、婿先生、あら、すみません、旦那様に」
そう言ってたくさんの手紙、というか、ノートの切れ端を預かった。
「旦那様に学校あてにお手紙をいただきましてね、しばらく学校にいけないから、と。お勉強していてどうしてもつまずいたら、しばらくお休みしてもいいんだよ、って。子供たちが婿先生が病気になったのではないかと心配して…こんなにたくさんお手紙を書いてきたんです」
そう言って差し出したシスターが笑った。
「まあ、そうでしたか。お預かりしますね」
「旦那様は…お身体大丈夫なんですか?」
「え?ええ。心配いりません」
そうですか、とほっとした顔をして、シスターが帰っていくのを見送った。
手紙は切り取ったノートに、鉛筆で書かれていた。
【むこせんせい、はやくげんきになってね】
【せんせいのこどもができたら、わたしがあそんであげるね】
【むこせんせい すき】
【とうしゅとなかよくね】
【わたしがおよめさんになる】
【ずっとここにいてね】
…
「おやおや…」
読みながらアンヌは泣き出してしまった。小さな子供がわかることが、どうしてうちのお嬢さまはわかんないのかね…そう思って。
戻ってきたお嬢さまに子供たちからの手紙を渡して、事情を説明した。
「ふうん」と言って、手紙を持って自室にこもられた。
アンヌはお茶を出して、お嬢さまの部屋をノックしたが返事がないのでそのまま部屋に入った。ごろりとこちらに背中を向けてお嬢さまが寝台に寝転がっていた。
机の上には子供たちの手紙が広げてある。
「本当はもう、わかっていらっしゃるんでしょう?」
お茶のカップをテーブルに載せながらそうアンヌが聞くと、返事はなかった。
「あの方は、お嬢さまの弟君ではありません。本当の弟君なら…昔の恋人が訪ねてきてもお嬢さまが腐ったりなさいませんでしょう?」
「……腐ってなど…いない」
「やきもち、って言うんですよ?そういうの」
「……」
「あの方は言っておられました。お嬢さまの目は優しい緑色だねって。見せないなんてもったいないねって」
「…いつ、見た?」
背中越しのお嬢さまの声が少し硬くなった。
「夏に、ソバ畑で。汗を拭いていらしたと。その後だって、あの方は髪を切れとか、お顔を見せろとか…お嬢さまに無理強いはなさいませんでしたでしょう?それに旦那様が気に入っていつもつけていらしたペリドットは、お嬢さまの瞳の色でしょう?」
しばらく黙った後、お嬢さまはぽつりと言った。
「あれは……ここにいたいって、言ってた」
「そうですか」
「私のことが…必要だと言っていた」
「…そうですか。お嬢さまはどうなんですか?」
「私は…でも、こんな顔だ」
「それでもいいとおっしゃったんですよ」
「……」
「つまずいたら、少し休めばいい、と子供たちに言ったそうですよ。気の長い方ですよね」
「……」
「お嬢さまの本当のことは、本当の気持ちはどうなんですか?よくよく考えてごらんなさいませ。よくよく目を凝らしてみないと、本当のことなんか見えないものですから。ね?」




