3.呪いをかけたら、呪いが返ってきました
『魔女の塔』を囲む、常春の庭。
年中薄桃色の花をつける聖樹の幹へ背中を預けながら、サクラは叫んだ。
「どうして、どうして……呪いが解けないのよー!」
——あの【痛み返しの呪い】を失敗したと知ってから、すでに数日が経っていた。
本来なら、一晩もすれば自然に消えるはずの軽い呪い。
だというのに、その気配はいまだサクラの身体に残っていた。
呪いが失敗したのが原因なのだろうか。
あらかじめ用意していた解呪薬を飲んでも、呪いをかけるのに使った魔紙も焼き捨てても、サクラの刻んだ術式は消えてくれなかった。
魔力で強引に焼き切ろうとすれば、どこからともなく金色の火花が散ってサクラの術を弾く。かといって自然に術が解けることもない。
端的に言って、お手上げだった。
「サクラは何も間違えてなかったのにねぇ。どうしてだろう、不思議だねぇ」
「一番考えられるのは呪詛返しだったんだけど……ジンを問い詰めても、そんなものは使っていないと言い張るのよね」
サクラの髪へ絡まりながらのんびりと言うチェチェに、サクラはため息をこぼしながら答える。
呪いが失敗したと察したサクラは、すぐにジンの身につけているものを片っ端から調べた。
だが呪詛返しの符も、それに類する魔術具も見つからない。
本人にも心当たりを尋ねたところ、返ってきたのは——
『呪いなら、わざわざ跳ね返す必要などありません。術者を亡き者にすれば済むことなので』
……という、物騒極まりない言葉だった。
「呪ったことがバレたら、私が亡き者にされるかもしれない……」
平然と言ってのけたジンの顔を思い出し、サクラは頭を抱える。
後ろ暗いところのあるサクラは、そっと目を逸らすことしかできなかった。
「大丈夫! サクラのことはチェチェが守るよ!」
そんなサクラの前に勢いよく飛び出し、チェチェは小さな胸を張った。
頼もしいとは言い難い姿だったが、その気持ちは嬉しい。思わず頬を緩めた。
「ふふ。ありがとう、チェチェ……う゛っ!?」
瞬間。
胸の奥を何かにきつく握られた感覚がして、サクラはうめき声をあげた。
「サクラぁ? どうしたのぉ?」
「だ、大丈夫よ……」
心配そうに羽根を揺らすチェチェに、サクラは微笑んで答える。
だがまた胸にきゅうと切なく締め付けられるような痛みが走った。
チェチェと戯れていただけの自分に、痛みが発生する原因などない。
と、なると……
「……サクラさん。そろそろ、まじないの時間ですよ。いつまで油を売っているつもりですか」
胸元を押さえるサクラの頭上に、低い声が降ってきた。
見上げるとそこには、いつからいたのか、ジンがこちらを覗き込むようにして立っていた。
「油なんか売ってないわよ! 私は今、重大な問題について考えていたの!」
「ほう。俺の目には、チェチェさんと遊んでいるようにしか見えませんでしたが」
「考えながら遊んでいたのよ!」
流れるように悪態をつくジンに、サクラはぎゃんと言い返す。
気づけば胸の痛みはすっかり消え失せていた。
目の前のジンも、どこかを痛がるようなそぶりはない。
サクラは首を傾げつつ、祭壇へ向かおうと立ち上がった。
「やっぱり、早く解呪方法を見つけないと駄目ね。いつ痛みに襲われるか、わかったものじゃないもの」
サクラはジンのあとを追いつつ、チェチェにしか聞こえないような小声でぼやいた。
隣をふわふわとついてくるチェチェが、まったりと答える。
「でもぉ、この塔で怪我なんて滅多にしないでしょう? ゆっくり探せばいいんじゃなぁい?」
「それもそうね」
何しろここは、世間から恐れられる『呪いの魔女』の塔である。好んで近づく者などほとんどいない。
塔の周囲は聖樹に守られ、魔物さえ滅多に現れない、平和そのものの場所だった。
解呪ができずとも、ジンが怪我をしない限り、その痛みがサクラへ伝わってくることもない。
危険があるとすればジンがまた聖樹の実を暴食することくらいだが、それもすべてサクラが取り上げてしまった。
サクラはチェチェの言う通り、ゆっくりと解呪に取り組むことに決めた。
*
——だがそれからも、サクラはたびたび胸を締めつけるような謎の痛みに襲われた。
たとえば、サクラがジンから距離を取ろうとしたとき。
サクラが今回施したような軽微な呪いでは、術者と対象者が離れることで効力を失うものが多い。
ならばジンとの距離を置けば、この呪いも弱まるかもしれない。そう考えたサクラは、ジンとできるだけ離れて過ごすようにしていた。
書庫にこもり解呪の方法を探していた時も、当のジンが入ってくれば、
「サクラさん。頼まれていた資料を——」
「あら、もうこんな時間。続きは別の部屋でやろうかしら!」
……と、机に広げていた呪術書を慌ただしくかき集め、ジンの横をすり抜けようとする。
「まだ途中ではありませんか」
「あなたの近くは空気が悪いもの。読書には向かないのよ」
いつもどおり軽口を交わし、さっさと工房を出ようとした——そのときだった。
「……っ」
胸の奥に、ずきりと鈍い痛みが走った。
思わず足を止めて振り返ると、ジンがいつもの無表情でこちらを見つめていた。
「どうしました?」
「……なんでもないわ」
痛みの原因は、やはりジンとしか思えない。
きっと嫌味を返されたことに腹を立てたのだろう。サクラはそう結論づけ、今度こそ工房をあとにした。
それだけではない。
また別の日、サクラとジン、チェチェの三人で、午後の茶を囲んでいたときのこと。
「サクラぁ、お菓子もう一つ食べてもいい?」
「さっきもそう言って食べていたでしょう」
「さっきのはさっきの分だよぉ。これは今の分なの」
「どんな理屈よ、それ」
呆れてそう言いながら、チェチェと自分の紅茶のおかわりを注ごうと、サクラは茶器へ手を伸ばした。
それとほとんど同時に、向かいに座っていたジンも手を伸ばす。
触れそうになった指先を見て、サクラは反射的に手を引いた。
「ご、ごめんなさい!」
椅子まで鳴らして身を引いた瞬間、胸の奥へ鋭い痛みが突き刺さった。
「う……っ」
息を詰め、胸元を押さえる。
だが、向かいにいるジンは何事もなかったように茶器を持ち上げていた。
「……大丈夫ですよ」
そう告げる声は、普段と変わらず落ち着いている。
「あなたは一応、この塔の主人なのですから。こうした雑用は俺にやらせてください」
「一応は余計よ!」
サクラのカップへ紅茶を注ぐジンの顔は、いつもどおり平然としていた。
それなのに、胸へ突き刺さった痛みだけは、なかなか消えてくれなかった。
ジンから離れようとしたとき。
触れそうになった手を慌てて引いたとき。
そんな時にはいつも決まって、胸が強く痛む。
【痛み返しの呪い】は肉体的な痛みだけでなく、怒りや悲しみからくる心の痛みも対象へと伝える。
サクラも最初は、ジンからの小言から来る頭痛を返してやりたい、なんて軽い気持ちからジンへと呪いをかけたのだ。
だとすれば……
「もしかしてジンは、私の顔を見るだけで胸が痛くなるほど、私に苛立っているのかしら……?」
だとすればいったい、自分はどれほど嫌われているというのか。
チェチェと二人きりになった寝室で、サクラは寝台の上に横たわりながらそうこぼした。
「そうかなぁ? 怒ってる顔には見えなかったよぉ?」
その枕元で、宙に浮かんだままチェチェは不思議そうに首を傾げる。
「でも、それ以外に私を見るたび胸が痛む理由なんてある?」
「あるよぉ。サクラはお子様だなぁ!」
「お、お子様ですって?」
思い悩むサクラとは対照的に、チェチェは何やら楽しそうだった。
得意げに鼻を高くし、花びらのような羽根をぱたぱたと動かしている。
「じゃあ、チェチェには分かるっていうの?」
「もっちろん! チェチェはサクラと違って、お姉さんだからねぇ!」
「はいはい」
そう言うチェチェにサクラは苦笑いで返す。
サクラの神力から生まれたくせに、なぜか本人よりも年長者のように振る舞いたがるのだ。
「それで、お姉さんには何が分かったの?」
「それはねぇ——」
チェチェはもったいぶるようにサクラの顔へ近づくと、いかにも訳知り顔で告げた。
「恋だよぉ!」
「……はあ?」
あまりにも思いがけない言葉に、サクラは寝台からがばりと起き上がった。
「そんなわけないでしょう!」
「じゃあサクラは、誰かを見るたびに胸が痛くなって、避けられたらもぉっと痛くなることを、何だと思うのぉ?」
「……重い心臓病?」
「そんな病気、ジンが持ってるように見えるぅ?」
「見えないわね」
聖樹の実をあれほど食べても、多少の頭痛で済ませる男である。
重い病を抱えているとは到底思えない。
「じゃあ、やっぱり恋だよぉ!」
チェチェはサクラの膝へ降り立つと、今度は諭すように人差し指を立てた。
「恋をするとねぇ、好きな人を見ているだけで胸がきゅんってするんだって。この前読んだ本に書いてあったもん」
「あなたの知識、恋物語からの受け売りじゃない」
「でも、ジンの痛みとおんなじでしょう?」
そう言われ、サクラは押し黙った。
脳裏に、これまで胸が痛んだ場面が次々と蘇る。
サクラが工房から逃げようとしたとき、黙ってこちらを見つめていたジン。
茶器へ伸ばした手が触れそうになり、サクラが慌てて引っ込めたあとも長く消えなかった胸の痛み。
確かにそのどれもが、巷で人気の恋物語に描かれる『恋の痛み』とよく似ている。
つまりあの痛みは、ジンがサクラを嫌っているからではなく——
「ジンが、私のことを……」
……好き?
顔を青くして呟かれた一言に、チェチェが得意げに微笑んだ。




