2.呪いの魔女なので、呪いをかけることにしました
【痛み返しの呪い】——
それが記された呪術書を書庫から持ち出すと、サクラはチェチェを連れ、魔術工房へこもった。
必要な素材を作業台へ並べ、大判の魔紙へ迷いなく魔法陣を描いていく。
ほどなくし手本通りの術式が完成した。
「サクラぁ。まさか、ジンを呪うのぉ?」
工房へとついてきたチェチェが、不安げに眉を寄せてそう尋ねる。
サクラは少しだけバツの悪そうな顔をして、チェチェに言い返した。
「大げさに言わないで。ほんの少し、私の痛みを返すだけよ」
「それを呪うっていうんじゃないかなぁ」
「教育よ、教育!」
サクラの言う通り、【痛み返しの呪い】は相手を傷つけるような大層な呪いではない。
術者が相手によって与えられた不快感を、軽い痛みとして本人へ返すだけ。効果も一晩で消える、子供の悪戯のような術だ。
「ほんとに危なくないのぉ?」
「頭が少し痛くなるだけよ。ジンの説教を聞かされたあとの私と同じね!」
こっちはジンがこの塔の護衛として着任してから、毎日頭が痛いのだ。少しくらい返してやってもバチは当たらないだろう。
サクラは開き直ると、魔法陣へと掌をかざした。
「——あなたが私に与えた痛み、その身をもって思い知りなさい!」
そしてその陣へと、慣れた手つきで魔力を流し込む。
魔紙に描かれた術式が、黒く輝いた。
呪いは一本の光となって工房の壁をすり抜け、塔の上階へと飛び去った。
——成功した。
そう思ってサクラが満足げに笑った、次の瞬間だった。
魔法陣が、逆向きに回り始めた。
「……え?」
術式の文字が次々と反転する。
黒かった光に一瞬だけ金色の火花が交じり、引き絞られた糸のようにサクラへ跳ね返ってきた。
光が額へ突き刺さる。
「いっっったああああああ!?」
「サクラぁ!?」
激しい頭痛が襲う。
耐えきれずサクラは、頭を両手で押さえ叫び声を上げた。
「あ、頭が……! 頭が割れる……!」
「サクラぁ、大丈夫ぅ!?」
「うっ……!」
心配するチェチェの声すら頭に響き、たまらずその場でうずくまった。
おかしい。完全におかしい。
自分がかけたのは、【痛み返しの呪い】であるはずなのに……
「どうして私が痛いのよーー!?」
「呪った相手じゃなくて、サクラが痛がってるねぇ」
チェチェがのほほんと返す。
サクラはこめかみを押さえながら、自分で仕上げた魔法陣を見直した。
しかし、術式にはひとつの間違いも見当たらない。魔力の量も、素材の配合も正しい。
「呪い返しでもされたのかしら……?」
ジンへ飛んだはずの呪いは、金色の火花を帯びて戻ってきた。
術式に問題がないのなら、原因は呪いを受けた側にある。
「あれでも呪い師の塔に勤める騎士だもの。呪詛返しの符くらい持っていてもおかしくないわ」
「“よういしゅうとう”ってやつだねぇ」
「ジンのくせに生意気よ!」
よく目を凝らせば、跳ね返った魔力の残滓が、細い黒糸となって工房の外まで続いていた。
「まだ痕跡が残っているわ。何が私の呪いを弾いたのか、直接確かめてやる!」
「わっ! ちょっと待ってよ、サクラぁ!」
サクラは痛む頭を押さえながら、黒糸をたどって工房を飛び出した。
その先にあったのは、ジンの私室だった。
*
「ジン、いるんでしょう!?」
ジンの私室へとやって来たサクラは、返事も待たずに勢いよく扉を開け放った。
簡素な部屋の中央で、ジンはひとり卓についていた。
その手には、淡い紅色をした小さな果実。そして目の前の皿には、同じ実が山のように積み上げられている。
その姿を見て、元から痛かった頭がさらに痛んだ。
「……何をしているの、あなた」
思わず声が低くなる。
ジンは突然乗り込んできた彼女に驚くでもなく、手にしていた実を口へ放り込んだ。
無表情のまま咀嚼し、ごくり、と音を立て呑み下す。
そして、顔色ひとつ変えず言い放った。
「おや、サクラさん、チェチェさん。どうしたんですか?」
「おや、じゃないわよ!」
サクラは慌てて卓へ駆け寄り、卓上の皿をジンから奪い取った。
皿に盛られていたその果実は、この塔を囲む聖樹から採れる実だったからだ。
「何やってるの! 聖樹の実はこんなふうに食べるものじゃないのよ!?」
聖樹の実は、花が受粉し、結実したものではない。塔一帯に満ちる神力が枝先へ集まり、凝縮することで直接生まれる特殊な果実である。
一粒に含まれる神力は、人間がそのまま取り込むには強すぎる。そのため乾燥させて粉末にしたり、ほかの薬草と調合したりして、ごく少量を薬として用いるのが常識だった。
間違っても、皿へ山盛りにして食べるようなものではない。
「ジン、食いしん坊だねぇ」
「そういう問題じゃないわよ!」
慌てるサクラを尻目に、ジンは悪びれもせず口の中にあった種を傍らの小皿へ吐き出した。
そこにはすでに、十を超える種が積み重なっている。
「ばかばか! こんなに大量に食べたら、体にどんな影響が出るか分からないわよ!?」
「大丈夫ですよ。それより返してください、まだ予定していた量に達していません」
「予定して食べてたの!? なおさら悪いわよ!」
皿を取り戻そうと伸びてきた大きな手を、サクラは実の入った皿ごと背中へ隠してかわす。
「いっぱしの研究者であるあなたが、この実の危険性を知らないわけがないでしょう! いったい何を考えているのよ!」
厳しく問い詰めると、ジンはしばらく黙ってサクラを見つめた。
やがて追及をかわすように、わずかに視線をそらす。
「自分を使った人体実験、といったところでしょうか」
「人体実験?」
「この実の神力を肉体へ定着させられないか、試しているのです。うまくいけば、今より頑丈な身体を手に入れられるかと思いまして」
「あなた、これ以上強くなってどうするのよ……」
十代のうちから戦場へ出、鬼将軍とまで恐れられた男である。
ただでさえ人間離れした強さだというのに、いったいどこを目指しているのだろう。
ましてこの平和な塔の護衛など、戦う相手は厨房に入り込んだネズミくらいのものだというのに。
呆れるサクラをよそに、ジンは平然と言った。
「心配には及びません。今のところ、身体に大した影響はありませんから」
「これだけの量を食べておいて?」
「多少こめかみが痛むかな、という程度です」
「十分に害が出てるじゃない!」
サクラの怒声にも、ジンは顔色ひとつ変えない。
だけどもようやく実を取り返すことを諦めたのか、腰掛けていた椅子に座り直すと、長い脚を尊大に組みサクラを見上げながら尋ねた。
「ところで、こんなところまで何かご用ですか?」
「ちょっと、主を前にその態度はなんなわけ?」
「こっちは私室に勝手に踏み入られてるんです。しょうもない用事だったらさすがに怒りますよ」
「それは——」
言われて、口ごもる。
今度はサクラの方がギクリとする番だった。
ここに来たのは、呪い返しの仕掛けをたしかめるためだ。
だけどそんなこと、正直に言えるわけがない。そんなことをしたら、サクラがジンに呪いをかけようとしたことまで知られてしまう。
ジンの様子を見るに、サクラの痛みは彼へは伝わっていないようだ。
あの、頭を割るような強烈な痛みが——
「……あら?」
そこでサクラは、ようやく気づいた。
先ほどまでサクラを苦しめていた頭痛が、いつの間にかきれいに消えている。
——まさか。
サクラは皿の実へ目を落とし、次いで、何事もなかったように椅子に腰掛けるジンを見下ろした。
その二つを何度も見比べる。
跳ね返った呪いによって突然痛み出した頭。
呪いの対象だったジンが食べていたこの実と、それを取り上げた途端に痛みが消えた事実——
……いや、偶然だ。
そんなことがあるはずはない。
そう思いながらも、嫌な予感に頬が引きつる。
「サクラぁ、どうしたのぉ?」
「その実が、どうかしましたか?」
チェチェが不思議そうに首を傾げる。
ジンもまた、訝しげにサクラの手元へ視線を落とした。
サクラは手に持っていた皿を卓上に戻すと、おそるおそるジンに申し出た。
「……ねえ、ジン。もう一度、これを食べてみてくれる?」
「先ほどあれほど怒って取り上げたのは、あなたでしょう」
「いいから! 確かめたいことがあるのよ!」
ジンは怪訝そうに眉を寄せたものの、素直に皿へと手を伸ばした。
指先でつまんだそれを口へ運び、無造作に噛み砕く。
直後。
「痛っ……!」
鋭い痛みが、サクラのこめかみを貫いた。
思わず頭を押さえ、その場でよろめく。
「サクラ?」
「や、やっぱり……!」
サクラは再度、卓上から大皿ををひったくった。
「何をするんです」
「黙ってなさい!」
実を噛んだ直後に走った痛みは、神力がジンの体内へ吸収されるにつれて、少しずつ遠のいていく。
やがて頭痛がすっかり消えたところで、サクラはもう一度、聖樹の実を差し出した。
「……もう一回、食べて」
「あなたは俺に食べさせたいのですか、食べさせたくないのですか。どちらなんです」
「私だってわからなくなってきたわよ! いいから、もう一度!」
有無を言わせず皿を押しつける。
ジンは深々とため息をついてから、再びそれを口へ入れた。
しゃくり、と実が噛み潰された瞬間——サクラの頭に、先ほどとまったく同じ痛みが走った。
「いっ……たあ!」
こめかみを押さえて叫ぶサクラの傍らで、チェチェが目を丸くする。
「ジンが食べると、サクラが痛くなるねぇ。変なのぉ」
「ええ、変よ。ものすごく変だわ……!」
「なんなんですか、さっきから……」
頭を抱えてしゃがみ込むサクラと、その周りをふよふよと飛び回るチェチェ。
様子のおかしな一人と一匹を眺めながら、ジンはその精悍な顔を訝しげに歪めた。
一度だけなら、偶然という可能性もあった。
だが二度とも、ジンが実を噛んだ瞬間に痛みが生じ、神力が馴染むと同時に消えている。
『聖樹の実を大量に摂取したことでジンに頭痛が起き、その痛みがなぜかサクラに伝わっている』
——そうとしか、もう考えられなかった。
「ジン。本当に、その実を食べても体に影響は出ていないの?」
サクラは自分のこめかみをさすりながら、改めて問いかけた。
「先ほど申し上げた通り、多少頭が痛む程度ですよ」
「多少って、どれくらい?」
「この程度、槍で腹を貫かれたときに比べれば痛みのうちにも入りません」
「比較対象がおかしい!」
サクラの怒声が、簡素な私室に響き渡る。
だが当のジンは、どうして怒られたのか分からないという顔をしている。
どうやら強がりでも痩せ我慢でもなく、本心から「大した痛みではない」と思っているらしい。
(この男、痛覚の基準が壊れているのではないかしら……)
呆れ果てながらも、サクラはこれまでの出来事を頭の中で組み立て直した。
ジンが聖樹の実を食べる。
神力過多によって、ジンに頭痛が起こる。
その痛みが、術式を通してサクラへ伝わってくる——
それは、本来の【痛み返しの呪い】とは正反対だった。
サクラがジンから受けた痛みを、一方的に本人へ返す。それがサクラがジンにかけた呪いだ。
それとは逆の現象が、今自分に降りかかっている。
「……嘘でしょう」
つまりこの頭痛は、呪いが想定とは全く違う事象を招いた証拠。
「この私が……呪いに失敗したっていうの……?」
愕然とした声が、サクラの唇からこぼれ落ちた。




