26.あなたが勝手をするというのなら
「——ジン! しっかりして、ジン!」
床に倒れ伏したジンを前に、サクラは声を上げた。
ジンは全身を焼かれ、浅い息を繰り返している。赤く濁った瞳はサクラを見ようともせず、喉の奥からかすかな呻きが漏れるばかりだ。黒く焦げた指先から、また灰がこぼれた。
「どうして……どうしてこんな勝手を……っ!」
唇が怒りで震えた。
つい先ほどまで言葉を交わしていたジンが、目の前で失われようとしている。そのことが恐ろしくて仕方なかった。
(しっかりしなさい……! このまま泣いていたって、何にもならないわ!)
だがこのまま何もしなければジンが死ぬだけだ。
そう思い直すと、サクラは涙を拭い、ジンとの間に残る魔力回路に意識を向けた。
(ジンの身では、負債に耐えられないというのなら……)
サクラはまず、彼へと渡った負債を自分の元へ戻すことを考えた。もともと自分が背負っていたもの、戻ってきたところで元の生活に戻るだけだ。
サクラは回路へ魔力を流し、ジンに渡った負債を引き戻そうとした。
「……ッ、ぐ……!」
「ジン!?」
途端に、ジンの身体が大きく跳ねた。
負債を引く手応えの奥に、別のものが絡みついている。赤黒い鬼格——そして、それを刻まれたジンの魂だった。
「……嘘。もう、混ざり始めているの……?」
彼へ渡った負債はすでに鬼格に取り込まれていた。無理に引き戻せばジンの魂まで引き裂いてしまう。サクラは慌てて魔力を止めた。
(戻せないなら、外から負債を封じれば……!)
次にサクラは、自分の神力で外側から負債を封じ込められないか試すことにした。
神力を広げ、ジンを覆う黒い紋様へ押し当てる。
金色の光に包まれた部分は、一瞬だけ黒さが薄れた。だがその下から新たな筋が浮かび上がり、すぐに光を押し返す。
災厄はもう、ジンの内側にある。外から神力で覆うだけでは、身体の奥で暴れる負債を封じられないのだ。
「私のものなのに……どうして、思い通りにできないのよ……!」
涙がまた頬を伝った。
一旦サクラの手を離れたものは、彼女自身にもどうしようもできないのだ。その事実に、サクラは手を握りしめることしかできなかった。
「どうしたのぉ!? 何かあったのぉ!?」
「チェチェ!」
と、そんなサクラの元に、薄桃色の精霊が飛び込んできた。
チェチェであった。
工房の端で眠っていたはずの彼女だったが、サクラの叫び声や神力の乱れに目を覚ましたらしい。
「……これ、ジンなのぉ……!? なんで、こんなことになってるの!?」
サクラを心配げに見下ろしていたチェチェだったが、その向こうに目を向けた途端、震える声でそう漏らした。
サクラは俯いたまま、チェチェが寝入ってからの出来事を彼女へ伝えた。
ジンがサクラを騙し、負債を引き受ける儀式を始めたこと。その負債に耐えきれず鬼に呑まれかけていること……
聞いているうちに、チェチェの薄桃色の瞳に涙が溜まっていく。
「ジン、どうなっちゃうのぉ!?」
「わからないわ……。ただ、このままだと……」
その先は言えなかった。
泣き出したチェチェの姿に、サクラの胸も締めつけられる。
「そんな……そんなのいや! チェチェがジンを助ける! チェチェの力、ジンに分けてあげるの!」
「無茶よ! 今のジンは、あなたのこともわからない。近づいたら——」
「でも、でも……!」
飛び出そうとしたチェチェを両手で受け止め、サクラは胸へ抱き寄せた。小さな身体が、腕の中でもがく。
その温もりに、サクラはふと動きを止めた。
チェチェは、サクラが唯一触れられる存在だ。
サクラの神力から生まれ、同じ力をその身に宿している。負債が触れた先へ流れたとしても、その神力が封じてくれるから、チェチェには不幸が降りかからない。
(——待って。それなら……)
サクラはジンへ目を向けた。
彼もまた、聖樹の実を食べ続けていた。その身に取り込んだ神力が、わずかながら負債を抑えているのだとしたら。今も命を繋ぎ止めているのは、その力なのだとしたら——
「戻せないなら、負債を抱えたまま生きられる力を与えればいい……?」
こぼれた言葉に、チェチェが顔を上げる。
「……サクラぁ?」
神力は、サクラの身体を離れれば消えるものではない。
チェチェも、塔を囲む聖樹も、その力が別の形に宿った存在だ。それならジンにも、自分の神力を分け与えられるのではないか。
外から災厄を押さえつけるのではなく、ジン自身の内側に負債を封じる力を宿らせる。
普通の人間なら、莫大な神力には耐えられない。だがジンは、聖樹の実で神力に身体を慣らしてきた。魂には鬼格が刻まれ、人ならざる力を受け入れる器もある。
そして、二人を繋ぐ魔力回路はまだ残っている。
「……あるわ。ジンを救える道は、まだ……」
サクラはチェチェを抱く手に、そっと力を込めた。
できるかもしれない。ジンが自ら作り替えてきた器へ、足りない力を注げれば。
絶望で満ちていた胸に、かすかな希望が灯った。
(だけど……)
同時に、迷いもあった。
神力は、ただ人を救うだけの力ではない。怪我も病もすぐに癒える身体、いつ終わるとも知れない命。それらもまた、この莫大な神力による恩恵だ。
それをジンにも、背負わせるのか?
そうなれば彼も自分と同じように、触れた相手へ不幸を流すようになるかもしれない。生き延びた先で、自分と同じ孤独に苦しむことになるかもしれない。
何より、サクラは神によってその運命を定められた身だ。
そんな自分が、誰かの運命を勝手に変えてしまっていいのか?
「……ぐ、ぅ…ッ」
迷う間にも、床の上でジンが呻いた。
苦しむ彼を前に、サクラはハッとして涙を拭う。
(このまま、失うくらいなら……)
「……チェチェ、少し離れていて」
「……うん」
サクラはチェチェをそっと放すと、静かに立ち上がった。
そして、ゆっくりとジンへ歩み寄る。
「……ジンだって、勝手をしたんじゃない」
まだなお神力に焼かれる彼に、吐き捨てるように言い放った。
「だったら、私も勝手にするわ。勝手に、あなたを生かしてやる……!」
その先に何が待っていても、自分だけが逃げるつもりはない。ジンに与えたものを、彼一人に背負わせはしない。
血走った目がこちらを向く。焼け爛れた手が床を掻き、サクラへ伸びた。
その動きに応じて、守護の神力が膨れ上がる。金色の光が、またジンを焼こうとした。
「鎮まりなさい……っ!」
サクラはその力を、必死に自分の内側へ押し戻した。そのままジンの元へと近づき、その傍らに膝をつく。
そして、赤黒く染まった太陽紋に、素手で触れた。
触れた肌は、焼けるように熱かった。近づいてようやく聞こえた呼吸も、ひどくか細い。
ジンのそんな姿に、だけどサクラはもう手を引かなかった。
「死ぬ覚悟じゃなくて、私とともに悠久を生きる覚悟を決めなさい」
言うと同時、サクラは残された回路へ自分の神力を注ぎ込んだ。
胸元の神紋に、細い金の筋が戻る。それは太陽の輪郭をたどり、赤黒い紋様を少しずつ塗り替えていった。
ジンの身体を覆う鬼の輪郭が揺らぐ。
額の角が崩れ、強張っていた顎から力が抜けた。荒い呻きが途切れ、赤く濁っていた瞳に黒鉄色が戻る。
その目が、サクラを見た気がした。
ジンの指がかすかに動き、ゆっくりと自分の胸元へと伸びていく。
そして、ジンの胸元に触れるサクラの手に、
静かに、その手が重なった。




