25.ジン・サイガ
「いやっ、ジン! ジン——!」
薄れゆく意識の中で、誰かの泣き叫ぶような声が聞こえた。
見ればそこには、薄桃色の瞳を濡らし、自分の名を呼ぶサクラの姿が見えた。
泣き濡れたその顔に、いつか見た泣き顔が重なる。
王都の路地裏の隅で、ローブにすっぽり包まれ泣いていた女性を見つけた時のことだ。
彼女の泣き顔は、いつだって自分の心をざわつかせる。
いつかと同じように手を差し伸べようとして、ジンは目を瞠った。
その指先は、神力で焼かれもはや炭のようになっていたからだ。
(ああ、結局失敗してしまったのか……)
全身を焼く痛みに悶えながら、ジンは自分の所業を思い出していた。
サクラを騙し、彼女から負債を引き受ける儀式を勝手に始めたこと。それに失敗し、鬼に呑まれ、彼女を攻撃しようとしその神力に焼かれたこと。
そしてあまつさえ、こうして彼女を泣かせてしまったこと——
(俺はただ、もう、誰かのせいで泣くあなたを見たくなかっただけだったのに)
黄金の光に焼かれる手の痛みに、外套を巻いた手の記憶が重なる。
ぐるぐるに布の巻かれたその手に、彼女がその手を重ねてくれた。
始まりは、ただそれだけだった。
*
ジン・サイガが初めてサクラ・トワに出会ったのは、まだ彼の年齢が10歳かそこらの頃だった。
母におつかいを頼まれた帰り、王都の路地の片隅で、彼はぷるぷると小さく震える布の塊と出会った。
下町ではなかなか見かけないような上質な布だった。何事かと声を掛ければ、中から薄桃色の瞳を涙に濡らした女性が顔を出した。
はじめは、どこのお姫様が街に迷い込んだのかと思った。
絹のような黒の髪も、艶やかな金の刺繍に見劣りしない美しい相貌も、ジンには初めて出会うものだった。
だがそのお姫様は、ジンが声をかけても怯えるばかりで、どうしてこんなところにいるのか、何をしているのか尋ねてもわからなかった。
そのうち王宮に行きたいが迷ってしまったこと、誰かに触れられることに怯えていることがわかり、ジンは羽織っていた外套を手にぐるぐると巻き、彼女へと差し出した。
『これなら、怖くない?』
そう言って差し出した手に、彼女はその瞳をきょとんと瞬かせた。
何度か視線を彷徨わせたあと、やがておずおずとした様子で手を伸ばし、布の端をちょこんとつまむ。
『……ありがとう』
そうして彼女は、ふっと笑みをこぼした。
まだ涙に潤んだままの瞳で、だけど心から安心したように。
その笑顔にジンは、どくりと自分の心臓が高鳴るのを聞いた。
布越しに手を引かれ手歩く彼女の背は高く、その年齢はジンより十は上のように見えた。
だけど目の端を赤くして、身を縮めるようにして怯える彼女に感じたのは、綺麗な年上の女性への憧れよりむしろ、彼女を守りたいという庇護欲だった。
なぜあんなところで泣いていたのか、なぜ誰かに触れられることに怯えたのか、ジンにはわからない。
ただ、もう泣かないでほしい。怯えないでほしい。
先ほど自分に見せてくれたような笑顔で、ずっといてほしい。
そう願いながらジンは、彼女を目的地へと送り届けた。
彼が、初めて恋に落ちた瞬間だった。
幼い日に抱いた憧れは、彼の胸に強く焼きついた。
彼女がかの有名な『呪いの魔女』だと知ったあとも、時折思い返しては胸を焦がした。
それでも相手は『神子』。二度と会うことも叶わない、会えたとして触れ合えぬこともできない相手だ。
誰かに触れるとその相手に不幸が流れるという彼女の体質も。
それから解放されるには誰かがその身に背負った災厄の負債を引き受けねばならないという理も。
神が定めたその約定は人間には達成不可能だということも——
この国に住まう者ならば誰もが知る話だ。
ジンはいつしかその初恋を、道ならぬ相手に抱いた幼い思い出と胸にしまい込むようになった。
——だが、再会の時は訪れる。
「……まじないの儀の護衛? 俺では管轄が違うのでは?」
「そう言うなよ。あの『呪いの魔女』の護衛なんて御免だって、人が集まらないんだ。ジン、お前はそういうの気にしないだろう?」
「まあ、構いませんが……」
ジンが大人になり、騎士となったあとのことだ。
王都で行われる神子サクラ・トワのまじないの儀の護衛に、ジンは駆り出されることとなった。
護衛といっても、任されたのはサクラの身辺警護ではなく神殿内部の警備だった。
しかしこの国では、サクラは崇拝の対象であるとともに恐怖の象徴だ。たとえ遠目からであっても彼女に関わるのは御免だと、護衛の兵が足りずにジンにまで声がかかったのだ。
(まったく、莫迦げてる。あの人をそこまで恐れる必要などないだろう)
怯える騎士たちの気持ちがジンにはわからなかった。ジンにとってサクラは、国に安寧をもたらす神子ではなく、あの日路地裏で怯えていたか弱い女性だったからだ。
しかし、再会した彼女は、ジンの記憶とはまったく違う姿をしていた。
見た目の話ではない。彼女の見た目はむしろ、長い年月が過ぎたというのに記憶と少しも変わっていなかった。かつては十も年上に見えた彼女より、今では自分の方が年上に見えるかもしれない。
だというのに、醸し出す雰囲気がまったくの別物だった。
あの日泣きはらしていた目は静かに神像を見据え、祈りの言葉を紡ぐ声には、一片の揺らぎもない。
彼女が両手を掲げると、金色の光が祭壇から広がった。高窓から射す陽光まで、その身へ集まっているように見える。居並ぶ神官たちが一斉に頭を垂れる中、サクラだけが顔を上げ、神像と向き合っていた。
人々と同じ場所に立ちながら、彼女だけが別の世界にいるようだった。
——その姿はまさに、『神子』そのもの。
あまりにも神々しいその姿に、ジンは祭壇から遠く離れた警備の持ち場で静かに息を呑んだ。
(あれが、あの時のあの人なのか? ……本当に?)
あの時路地裏で泣いていた姿と、今毅然と立つ姿。どちらが本当の彼女なのか、ジンにはわからなかった。
(……彼女のことを、知りたい)
そこで、ジンの胸に新たな感情が芽生えた。
あの泣き笑いと、この静かな横顔が、本当に同じ人のものなのか確かめたくなった。
幼い日の思い出として、胸にしまったはずだった淡い恋。
それが、再び動き出した瞬間だった。
自分の魂に『鬼格』が芽生え始めていると知ったのは、そのすぐあとのことだった。
その時にジンは思い至る。
サクラの身に封じられた負債は、普通の人間が引き受けるには器が足りない。
——では、人外の魂を持つ者ならば?
この鬼格が定着したら、自分にも不可能とされている約定を果たせるかもしれない。
そう考えたジンは、すぐに『魔女の塔』の護衛騎士に志願した。
サクラに関わる仕事は基本的に人気がない。志願すればすぐにその任に就くことができた。惜しむ声もかけられたが、ジンにとって重要なのは騎士としての将来ではなかった。
塔の中で過ごすサクラは、あの日と同じようによく笑い、よく困る女性だった。
小さなことで笑い、怒り、まるで幼い少女のようにその胸のうちを隠さない。
かと思ったら、少し身を寄せるだけで怯え、近づいた分だけ距離をとった。
『引きこもってばかりいられない』と塔を抜け出しては森へ行き、すぐに迷ってべそをかくところも。
そのくせ一人では決して人混みの街へは赴かない、必要がある時はたとえ真夏の太陽の下でも厚いローブを纏うその健気さも。
知れば知るほど彼女に惹かれた。
同時に、ジンは思い知った。
神の寵愛が、サクラの自由も、何気ない日常も奪っているということを。
初めて出会ったとき、彼女は泣いていた。
——どうして?
人に触れ、不幸にしてしまうことに怯えたからだ。
今もこうして怯えている。
——誰のせいで?
彼女に寵愛を与えた、神のせいで。
その時、仄暗い感情がジンの胸に芽生えた。
それは怒りという名かもしれない。嫉妬と呼んだ方が正しいかもしれない。
ただ、彼女を縛り、彼女を泣かせるものが憎かった。
『神』という存在から、彼女を解放してやりたくなった。
そしてサクラが悪戯半分でかけた呪いが、儀式に必要な最後の条件を揃えてしまった。
最後まで迷いもあったが、【痛みの共有】で伝わってきた彼女の胸の痛みから、自分との別れを惜しんでいるのではないかという期待まで抱いた。
だからこそ、生きて彼女と触れ合える未来に賭けた。
成功する自信はあった。それでも失敗したなら、その命を代償として受け入れるつもりだった。彼女を神から解放できるのなら、命など惜しくはなかった。
(——だが、考えが甘かった、か……)
まさか、何も成し遂げられないまま彼女の目の前で崩れていくだなんて。
神力に焼かれながら、ジンは自嘲の笑みをこぼした。指先が、また一つ灰となって崩れる。
意識が遠のいていく中、泣き叫ぶサクラの顔だけが見えた。
泣いてほしくないと願った相手を、今自分が泣かせている。
自分の命を自分で賭けるのも勝手と思っていた。その命を失うことが彼女にとって何を意味するのか、わかっているつもりで見ないふりをした。
そんな意識すら、鬼の衝動に呑まれていく。
サクラの声だけが、ジンの耳に届いている気がした。
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明日は、完結までの残り2話を連続投稿予定です。
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