24.鬼化
「ぐ、ぁあア゛……ッ!」
「ジン!?」
ジンが苦悶の滲んだ呻き声を上げると同時、胸元の太陽紋の縁にひびが入り、そこから墨を流したような線が伸びた。
その線は次第に、一つの形を作る。
空を割る雷のようなそれは、厄災を示す紋様だった。
「あ、ぁあ゛……ッ!」
胸元の紋が、ジンの鼓動に合わせるようにドクンと一つ跳ね上がった。
稲妻のようなそれはジンの胸から肩へ、そして腕へと伸びていく。
黒の線がその身を渡るたび、黒鉄の瞳が大きく見開かれた。
「ジン!? ジン、しっかりして!」
「さ、クラ、さ……ごほっ」
呼びかけが咳に変わる。ジンが口元を押さえると、その指の隙間から赤い血が吹き出した。荒い息に、黒い靄が混じる。
ジンはそれを見て、初めて表情をこわばらせた。
気づけば二人の足元に広がっていた太陽紋にも、黒い稲妻のような亀裂が走っていた。
——儀式が、失敗したのだ。
(嘘……)
サクラは愕然として立ち尽くした。
彼女の脳裏には、今まで自分に触れて死んでいった者たちの姿が思い出されていた。
その場で雷に打たれ消し炭になった者。
あらゆる病に冒され苦しみながら息を引き取った者。
本人ではなく周りが次々非業の死を遂げ、ついには自ら命を絶った者。
そして今ジンが受けた災厄は、サクラと少し触れ合うだけで漏れ出る不幸の比ではない。
国を襲う疫病、飢饉、天災——彼女が今まで封じてきたその災厄のすべてを、一人で背負うだなんて……
(ジンは……ジンはどうなってしまうの……!?)
サクラは怯えた瞳でジンを見上げた。
ジンは苦しみに喘ぎながらも、胸の神紋を押さえつける。赤黒い鬼の力が胸元に集まり、黒い筋を一瞬だけ押し戻した。
だが神紋を押さえる手の甲に、新たな筋が浮かぶ。
指が震え、ジンの膝が崩れかけた。黒い筋は彼の指の隙間から溢れ、腕へ、首へと這い上がっていく。
サクラの胸から負債が抜ける感覚も、いつしか止まっていた。
まだすべてを明け渡したわけではない。だけどジンは、もう耐えられないのだ。
「だから……だから言ったのに……」
サクラは、震える声を絞り出した。
「人ひとりに、国規模の厄災なんて受け止め切れるはずがない。神は私を手放すつもりなんてない。あれは、元から不可能な約定なのよ……!」
だからずっと、一人で生きる覚悟をしていた。
人里離れた自分だけの塔で、見張りの護衛騎士はともかく、使用人もほとんど寄せ付けなかった。
万が一、誰かを不幸にしてしまうのが怖いから。
万が一、情が移ってしまうのが怖いから。
だからジンのことだって、必死で遠ざけようとしていたのに。
遠ざければ彼を守れると思っていたのに。
それが、こんな形で仇となるなんて。
「それ、でも……」
サクラはずるずるとその場にへたり込んだ。
青ざめる彼女に、痛みに耐えるような声が降る。
「それでも……よかった、んです……」
「え……?」
「それでも、これ以上……ッ、あなたを、神だけのものにしておけなかっ……ゲホッ、ゴホッ!」
そこでジンは咳き込み、口元を押さえた。
「俺の想いに応えられなくても、構いません……ですが、あなたがこれ以上、神のものでいるのは——」
「ジン!」
言葉が途切れると同時、ジンはついに膝から崩れ落ちた。
『神だけのものにしておけなかった』。
その言葉に、ほんの一瞬胸が熱くなった。
サクラを救いたいだけではない。彼自身の独占欲が、そこにあったからだ。
——だけど。
「どうして……どうしてそこまで……!」
だけど血を吐きながらそれを言われて、どうして喜べようか。
ジンの身体を這っていた稲妻のような黒の筋は、もはや彼の全身に広がりその褐色の肌を侵していた。
痛みの共有はもう解けているはずなのに、その姿を見るだけでサクラの胸が痛んだ。
同時に、怒りが込み上げてくる。
「……何が、それでもよかった、よ。あんな果たせるはずのない約定のために、命を投げ出してもいいっていうの!?」
言いながら、自分の視界が滲むのをサクラは感じた。
目頭が熱い。
怒りと悲しみで、頭の中がどうにかなりそうだった。
「こんなこと、誰も頼んでない。たとえ成功したとして、私が喜ぶと本当に思っていたの……!?」
失敗すればジンは死に、サクラはまた一人残される。
成功したとして、ジンはどうなる? 苦しみに耐えるジンを見ている今さえ、これほどつらいというのに。
「あなたを失うくらいならそんな自由、いらないのに……!」
サクラが叫ぶ間にも、膝をついたジンの身体は変わり続けていた。
指先から、黒い灰のようなものがこぼれる。
灰になった部分は床に落ちる前に消え、残された指は骨ばった形へと痩せ細っていく。
「ジン、手が……!」
ジンの身体が、死に近づいている。
そう思ったサクラは、思わず駆け寄ろうと身を乗り出した。
——瞬間。
ジンの胸元で、赤黒い力が大きく脈打った。
魂に刻まれた鬼格が、流れ込む災厄を取り込んでいる。膨れ上がったその力が、今度はジン自身を内側から塗り替え始めた。
「……サ、クラさ……、」
かろうじて名を呼んだ黒鉄色の瞳が、赤く濁る。
唇の間から覗く牙が鋭く伸び、銀髪を押し分けて額に角が浮き上がった。
「ジ、ン……?」
その変化に、サクラは喉を引き攣らせた。
呼びかけても、返事はない。
代わりに帰ってきたのは、言葉にならない低い呻きだった。
「う゛……ぐる、る……」
「ジン!? どうしたの、ジン!」
獣が威嚇するような唸り声が鳴る。
苦しげにうずくまっていた背がゆっくりと伸び、その赤い目がサクラを捉えた。
黒に染まった肌。血のような紅い目。鋭い牙と角。それはまるで——
「鬼……!」
——そう、ジンはまるで、その見た目まで鬼と化してしまったようだった。
人外の“格”を得ても、それを受け止める器がなければ、心まで格に呑まれてしまう。
ジンは負債を引き受けるために鬼格を育てた。だが今、その鬼格の方がジンを呑もうとしているのだ。
「ジン、しっかりして! このままでは本当に鬼になってしまう!」
床に座り込んだまま、サクラは叫んだ。
だがジンの表情は動かない。
血走った目でサクラを睨みつけ、警戒したように姿勢を低くする。
「——ッ!?」
サクラが一度瞬いた、その瞬間。
床を蹴る音と同時、鬼と化したジンがサクラへと飛びかかった。
もう人としての理性も記憶もないのだ。
そのことにサクラは絶望する。
眼前で長い腕が振り上げられる。
サクラは指先一つ動かせなかった。
だが、
「ぐぁあ゛ッ!」
彼の手が届くより早く、金色の光が二人の間に立ち上がった。
神子を害するものを退ける、神の守りだった。
光に弾かれたジンの身体が、工房の床へ叩きつけられる。さらに神力がその腕に絡みつき、赤黒く変じた肌を焼いた。
「グぅ、ぁ゛ア……!」
「……ッ! いやっ、やめて! ジン、ジン!」
サクラが叫んでも、光は消えない。これは彼女の意志で操れるものではないからだ。
ジンは呻き声を上げながら、床の上で身をよじった。灰になりかけた身体から、また黒い欠片が散る。
目の前で、ジンの身体が消えていく。それだけで、サクラは心臓が凍るような思いがした。
だというのにジンは、それでもなお体を起こし、サクラを包む眩い光を睨んだ。
その害意に反応したように、金色の光がさらにその輝きを増す。
そのことに、サクラの全身からさあっと血の気が引いた。
(ただでさえ負債を引き受けてボロボロなのに、今また神力に焼かれたら……!)
今度こそ、ジンが死んでしまう。
サクラの薄桃の瞳が涙に揺れた。
「お願い、もうやめて……! ジン——!」
サクラの泣き声だけが、光に満ちた工房に響いた。




