27.エピローグ
——頬を撫でる風に、ジンは目を覚ました。
ゆっくりと瞼を開くと、見慣れた天井が目に入る。『魔女の塔』にある、自分の寝室だった。
大きく開いた窓から風が入り込み、寝台の上を通り抜けていく。
「……気がついた?」
呆けていると、そう声をかけられた。
声のする方へ目を向けると、寝台の傍らに置かれた丸椅子にサクラが腰掛けていた。
「サクラ……さん……?」
薄桃の瞳がこちらを見下ろす。
思いがけないその光景に、ジンは驚いて身体を起こしかけた。
「どうしてここに……ッ痛——!」
「ああもう、まだ寝ていなさい! あなた、今生きているのが不思議なくらい重体だったんだからね!?」
「重、体……?」
身体に走った痛みに顔を顰めると、サクラが慌てて身を乗り出した。
ジンは寝台に背を戻し、彼女の言葉を繰り返す。
そこで、途切れていた記憶が蘇った。
重体どころではない。あれは、ほとんど死んでいたはずだ。指先など、灰になって崩れ落ちていた。
だが、目の前に持ち上げた手には、五本の指が揃っている。
試しに握ると、ぎこちなくはあったが、確かに動いた。
「どうして……俺は、生きているのです?」
信じられず、呆然としたままジンはサクラに問いかけた。
途端、サクラの眉が思い切りつり上がる。
「どうして生きているか、ですって……!?」
サクラは怒ったようにそう言うと、ジンの両頬をぎゅっとつねった。
「よくもぬけぬけと、そんなことが言えたわね! この私が、助けてあげたからに決まっているでしょう!?」
「ちょ、ちょっと。やめてください」
「ばか、ばか! 私が一体どんな気持ちで、あなたが目覚めるのを待っていたと思って……!」
「痛……くはありませんが、話しにくいので離してください」
「本当に腹が立つわね!」
ジンがそう言うと、サクラはさらに声を荒げジンの頬をぎゅうと引っ張った。
その指の温もりに、ジンはようやく気づいた。
サクラの手が、自分の頬に触れている。
布も、手袋も隔てずに。
「……どうして、触れられるのですか」
おそるおそる尋ねると、サクラの手が止まった。
まだ怒りの残る顔でしばらくジンの顔を見つめたあと、どかりと丸椅子に腰を下ろす。
「——端的に言うと、あなたの命は助かったわ。この私の神力を、あなたに分け与えたから」
その言葉を皮切りに、サクラはジンが意識を失ってからのことを語り始めた。
負債を受け止めきれず鬼に呑まれかけていたジンを救うために、サクラは残っていた魔力回路を通じて自分の神力を送り込んだ。外から厄災を抑えるのではなく、彼自身の内側にそれを封じる力を宿らせたのだ。
普通の人間なら、本来耐えきれぬ量の神力を分け与えることになるため、成功するかは一か八かだった。
だが、鬼格という人ならざる器と、聖樹の実を食べ続け神力に慣れた身体のおかげで、どうにかサクラの神力はジンの身体に定着した。
負債を封じられるようになったことで、肉体の崩壊も止まった。あとは神力による治癒が、焼かれた身体を少しずつ元に戻したのだという。
「今も、私とあなたの間には魔力回路が繋がっている。その回路を通じて、神力も負債も等しく二分された状態なのよ」
「……だから、あなたに触れても平気になったと?」
「ええ。同じ神力で負債を封じているから、お互いに触れても問題ないわ。チェチェもね」
サクラはそう言って、窓の外を指差した。精霊であるチェチェは今、自分の代わりに塔の見回りをしてくれているらしい。
ジンは、サクラの示す方向へゆっくりと身体を向けた。
窓の外では、チェチェが結界に沿って飛んでいた。彼女の言う通り、塔の周囲を見回っているのだろう。こちらに気づくとぱあっと顔を明るくし、大きく手を振る。
ジンも手を上げかけ——その背後の光景に、息を呑んだ。
聖樹の花が、散っていたのだ。
常春の恩恵に守られ、決して散るはずのない薄桃色の花びら。それが今、枝を離れ、ちらり、ちらりと風に舞っている。
それは、自然界なら当然のこと。だけどジンには信じられず、思わず声を上げた。
「な、なぜ……!?」
「……神から授けられた力を、あなたと私で分けたからよ」
目を瞠るジンに、サクラが静かに答える。
「神力が消えたわけではないけれど、一人の神子に満ちていた時とは、力の働き方も変わってしまったの。私一人を中心に、この一帯を常春に保つほどの恩恵はもうないみたい」
窓の外を眺めながら、サクラは続ける。
国への加護も同様、分散された神力が引き続き守るが、それも永続的なものではないだろう。次第に神の加護は薄れ、今後は災害も不作も起こり得る、普通の国になっていくと。
「とはいえ、私たちの中にはまだ、人の身では持ち得ないほどの神力がある。その影響は、あなたにも現れるはずよ。怪我や病の治りは早くなる。寿命も……おそらく、人よりずっと長くなるわ。私と同じように」
語る声が、少し沈む。
窓の外から視線を外さずにいた彼女は、そう言うと、落ち込んだように俯いた。
やがて覚悟を決めたように、こわばった声で続ける。
「……それに、神の理がなくなったわけでもない。あなたも負債を抱えているのだから、他の人に素肌で触れれば不幸が流れるはずよ。分け合った分、以前ほど大きなものではないでしょうけれど……」
サクラは膝の上で、両手をギュッと握り込んだ。
まるで処刑を待つ罪人のように、ジンからの反応を待つ。
だが、彼女にジンが投げかけたのは、思いもよらない言葉だった。
「それは……俺は、あなたと共に生きられるということですか?」
「……え?」
返ってきたのは、悲哀でも後悔でもなかった。
むしろ、黒鉄色の瞳に、かすかな光が宿る。
その表情に、サクラは言葉を失った。
長く生きること、人に触れられなくなること。その重さを伝えたつもりだったのに。
彼はただ、未来を確かめるように自分を見つめていた。
「……もう! 何よ、その反応! もっと他に言うことがあるでしょう!」
「ありますか? 一番重要なことでしょう」
「だから、そういう……っ!」
頬が熱くなる。
それまで握っていた手をほどき、サクラは寝台へ身を乗り出した。
「大体、私、怒っているんだからね! 私を騙して、勝手なことばかりして……!」
サクラはジンを睨み、押し込めていた言葉を吐き出した。
「どうして私が、あれほど人に触れられることを怖がっていたか、わかる? もう誰にも、傷ついてほしくなかったからよ。なのにどうして、あなたは自分の命まで賭けようとしたの? それは、私が一番恐れていたことよ。誰かを身代わりにしてまで、解放されたいなんて思っていなかった」
語るうちに、声が震え始める。薄桃の瞳に、じわりと涙が浮かんだ。
「身体が治っても、あなた、全然目を覚まさなくて……」
神力に焼かれるジンに、体は回復したはずなのに一向に目を覚さないジンに、サクラがどれほど恐怖したことか。
もしかして、自分のせいでジンが死んでしまうのではないかと。このまま二度と、言葉を交わせないのではないかと——
頬を伝った涙を、サクラは乱暴に拭った。
ジンは何も言えず、その姿を見つめる。
彼女を泣かせたことはわかっていた。だが、意識を失った後もこれほどの恐怖を背負わせていたのか。
「……申し訳、ありません」
ジンは寝台に手をつき、ゆっくりと上体を起こした。
「ジン! 起きちゃ駄目って——」
「いいえ。あなたの顔を見て、謝りたい」
痛みに一度息を詰め、それでもサクラに向き直る。
「生きて戻るつもりでした。ですが、それで許されることではありませんね。あなたの意思を無視して、怖がらせた。本当に、申し訳ありませんでした」
深く頭を下げられ、サクラは口を閉ざした。
しばらくして、小さく息を吐く。
「……顔を上げなさい。何度も謝ってほしいわけじゃないわ。ただ、私の気持ちをわかってほしかったの」
「しかし——」
「しつこいわね。いいったら、いいの!」
そう言って、サクラは目元に残る涙を拭った。
「……これから、長い時間を一緒に生きていくんだから。私の気持ちも、ちゃんと考えてくれなきゃ困るわ」
ジンが顔を上げた。
見開かれた黒鉄の目と目が合う。
「……今のは、どういう意味ですか?」
「……言わなくても、わかるでしょう」
「わかりません。もう、共有の呪いは解けてしまいましたから」
「……そんなことを言うなら、私もわからないわ。勝手をした私を、あなたがまだ、好きでいてくれるのか」
サクラは視線を落とし、膝の上の手を握った。
命を救えたことを、後悔してはいない。
それでも、彼のこれからを変えてしまったことに変わりはなかった。
「私、あなたまで長く生きる身体にしてしまったのよ。他の人に、気軽に触れることもできなくなった。……そんなことをした私と、まだ、一緒にいたい?」
最後の言葉は、かすれるほど小さかった。
膝の上で、拳を握り込む。その上に、温かいものが重なった。
「……ジン?」
「……」
ジンの手だった。
驚いて顔を上げると、ジンはまっすぐに自分を見つめていた。
「——好きです。あなたのことが、痛いほどに」
告げられた言葉に、サクラはその薄桃の瞳を大きく見開いた。
同時に、自分の胸がぎゅうと締め付けられる。
痛みなど、もう互いには伝わらない。
なのに彼の言葉に呼応するように甘く痛む胸に、サクラは涙に濡れた瞳を細め、泣き笑いのような笑顔を浮かべた。
「……私もよ」
重なったその手を、そっと握り返す。
窓の外では、薄桃の花が風に舞っていた。
サクラ・トワ
ジン・サイガ
チェチェ
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