22.解呪
「……これで、完成よ」
サクラは仕上げた薬液を濾し、ふうと息を吐いた。
完成した分離薬は、底の見えない薄墨色をしている。
ガラスの小瓶に注いだそれを、ジンの前へと差し出す。
「ありがとうございます」
ジンは小瓶を受け取ると、ためらわずに飲み干した。
「だから、早い!」
「何がです?」
「少しは躊躇うとかないの!? 正直、あんまり口にしたくない色合いじゃない!?」
「作ったのはサクラさんでしょう。飲まなければ先に進みませんし」
「それはそうだけど……」
「ジン、“ごうかい”ってやつだねぇ」
サクラはしばらく信じられないものを見るような目でジンのことを見つめていたが、気を取り直して解呪の準備をし始めた。
薬が効いている間だけは、ジンの中で三つの力がほどけ、サクラの呪術だけを見分けられる。
サクラがジンに大判の魔紙に描いた魔法陣の上に立つように指示すると、チェチェはその反対側に降り立った。
チェチェの額に触れ、神力を共鳴させる。
そうしてチェチェが回路の端を引き受けたのを確かめると、サクラは魔法陣の外から術式へ魔力を流した。ジンとチェチェの間に浮かび上がった黒い糸をたどり、痛みを伝える部分だけを一つずつほどいていく。
「……っ」
魔法陣が大きく光る。同時に、ジンが小さく息を漏らした。
呪いとはいえ、長く繋がっていた回路に手を加えられる違和感があるのだろう。見ればチェチェの方も、愛らしい相貌を少しだけ歪めていた。
「……はい。これで、痛みを共有する術式は外れたわ」
——やがて最後の一本が消えると、魔法陣の光も静かに収まった。
サクラが立ち上がると、ジンとチェチェは二人揃って、はあ、と安堵の息をつく。
「……本当だ。もう痛みは感じないようですね」
ジンが自分の頰をつねり、そう呟く。
以前なら悲鳴をあげていただろうその痛みは、サクラには少しも伝わってこない。
呪いを取り除くのが成功した証のはずなのに、今まで伝わっていたジンの感覚が感じられなくなったという事実が、サクラにはなんだか寂しく思えた。
「ずいぶんあっさりですね」
「解呪自体は、そこまで難しいものではないもの。ジンがそんな妙ちきりんな身体をしていなかったら、ここまで拗れることはなかったのよ」
「聞こえませんねえ」
「あなたねえ!」
「でも、チェチェは疲れたよぉ〜……」
いつもの口喧嘩になりかけた時、チェチェの眠たげな声が二人の間に飛び込んできた。
見れば、チェチェはその小さな指先で片目を擦り、今にも眠ってしまいそうにうつらうつらとしている。
「大丈夫ですか、チェチェさん」
「うぅん、眠い……」
「思ったより神力を使わせてしまったわね。もう解呪は終わったようなものだし、少し休んでいなさい」
「でもぉ……」
「大丈夫よ。手伝ってくれてありがとね、チェチェ」
「うん……」
チェチェはそう声を漏らすと、ふわふわとサクラの腕の中に着地し、そのまま眠り込んでしまった。
サクラの神力から生まれたチェチェは、力を使いすぎると、回復するまで眠ってしまうのだ。サクラは工房の端にある長椅子の、その上に置かれたクッションにチェチェを静かに横たえた。
「……それでは、最後に魔力回路を閉じてしまいましょう。これにはチェチェさんがいなくても問題ありませんし」
「そ、そうね」
チェチェが静かな寝息を立て始めたのを確認すると、ジンがそう切り出した。
“最後”。
その言葉を聞いた途端、胸がまたちくりと痛んだ。
その痛みは、もうジンには伝わっていない。
どこか躊躇した様子のサクラに、ジンは呆れたように言い出した。
「まだためらっているのですか? 先ほども言いましたが、ほんの指先触れるくらいなら大した不幸に見舞われませんよ」
「わ、わかってるわよ! でも……」
「そう言っていつまで待たせる気です? いい加減、待ちくたびれてしまいましたよ」
「そこまで待たせてないでしょう! わかった、わかったわよ! まったく、こっちは真面目に心配してあげてるのに……!」
わざとらしくあくびをするジンに怒ったように言いつつも、サクラにはわかっていた。
ジンのこの態度は、サクラに気負わせないためだ。
たとえ少しのことでも、自分のせいでジンに不幸が舞い込めば、サクラは気にする。
それを必要以上に気に病まないようにと、ジンはわざと悪態をついているのだ。
これは自分の意思だから。自分から進んでやれと言ったことだから、と。
——この男は、ずっとそうだった。
無遠慮で不躾で、だけどその裏にはいつだってサクラへの気遣いがあった。
勝手に呪って、勝手にその想いを知って、勝手に解任を言い渡して——本当なら、もっと恨み言を言われても仕方ないのに。
「……だから、私がやるわ」
自分がかけた呪いは、自分の手で終わらせる。
覚悟を決めたように振り返れば、ジンはすでに上衣の襟を開き、胸元の神紋を露わにしていた。
金色の太陽紋。神の所有物である証。
それがジンの身体にあるだけで、サクラの胸はざわついた。
サクラは右手の人差し指を立てると、その紋章に指先を近づけた。
あとは二人の間に繋がった魔力回路を閉じるだけ。
それでもう、すべてが終わる。
サクラは神紋に指の先で触れ、そこへ自分の神力を流した。
金色の光が走り、二人を繋ぐ魔力回路が浮かび上がる。
「——サクラさん」
するとジンが、いつにも増して落ち着いた声でサクラの名前を呼んだ。
そして、
「今まで、お世話になりました」
「え?」
その言葉の意味を尋ねるより早く、ジンの手がサクラの右手首を掴んだ。神紋に添えた指が、胸元へ強く押しつけられる。
「ちょ、ジン——!?」
「……『神子サクラ・トワに帰属する災厄、その一切を我が身へ』」
「……!?」
慌てるサクラを尻目に、ジンが何かを唱えた。
その言葉は、サクラには聞き覚えのあるものだった。
「『その生、その死、その後に至るまで、我を器と定めよ』」
ジンの胸の神紋が、眩い金色を放つ。
同じ太陽紋が、サクラとジンの足元に広がった。




