20.朝露
「幼い俺にはそれが、本当に可愛らしく映ったんですよ」
始まりは、それだけのこと。
そう言いながら、ジンは黒鉄色の瞳を細めた。
20年近い時が流れても、その時の笑顔が胸の内にずっと引っかかっていた。
そして大人になり、騎士として生き——
『魔女の塔』の護衛騎士を募る報せを聞き、ふと思い立ったのだという。
——サクラのことを、もっと知りたいと。
「じゃあ、この前言っていた確かめたいことって……」
「あなたがどんな人なのか、知りたかったのですよ。あなたの言う通り、あなたは想いを寄せるには幾分厄介な相手ですから。ああ、一応言っておきますが、研究に向いているからっていうのも本心ですよ」
「……」
「幼い頃の記憶なんて、美化されるものですしね。いっそ本当のあなたを知って、幻滅でもできればいいと思っていたのですが……」
静かに語るジンの横顔を、サクラはただ黙って見つめた。ジンはそんな彼女を一度振り返ると、
「……その後どうなったかは、あなたの知る通りです」
と、小さく笑みを向けた。
その声は、淡々とした口調とは裏腹に、静かな夜に甘く溶けていくようだった。
聞き慣れているはずの低い声が、黒鉄色の瞳が、今更サクラの胸に強く響く。
その眼差しに見つめられたまま、サクラは自分の鼓動だけがひどく大きく聞こえるのを感じていた。
(あなたの知る通り、なんて。なんて、意地悪な言い方なの)
じわじわと熱くなっていく頬を自覚しながら、サクラは思う。
サクラはジンの想いを、文字通り痛いほど知っていた。サクラを知りたいと志願した塔の護衛任務を通じて、彼は幼い初恋を、胸を締め付けるような狂おしい恋へと変化させた。
その事実が、今までよりもさらにサクラの胸を締め付けた。
だって、ジンは言った。
その時ジンは、自分が神子だと知らなかったと。
ジンが好きになったのは、『神子』でも『呪いの魔女』でもない。ただの、道に迷って泣いていた、サクラなのだ。
この塔に来てからのジンもそうだ。
いつだってサクラに無遠慮で、不躾で、憎まれ口ばかり叩いて……彼がサクラを『神子』として扱ったことなど、一度もない。
それは主人と護衛としては、間違った態度なのかもしれない。
だけど……
「……そろそろ、夜が明けますね」
黙り込んでしまったサクラから視線を外し、ジンはわずかに白んでいる東の空を見上げた。
霧に覆われた森のせいでわかりづらいが、そろそろ日が出る頃合いなのだろう。
『神眠りの花の朝露』は、夜明けの一瞬にだけ結ばれ、正しく採取しなければたちまち蒸発してしまう希少な素材だ。
時を逃してしまえばまた一晩ここで夜を越さなければいけなくなる。ジンは立ち上がり、素材採取に必要な道具を鞄から取り出した。
「さあ、行きましょうサクラさん。足場が悪いので、これに捕まってください」
そう言って差し出されたのは、この旅の道中何度も使用した予備の荷紐だった。
(……これくらい、どうってことないのに)
差し出されたそれを見て、サクラは思う。
いくらサクラがおっちょこちょいだからといって、ここで転んで素材を台無しにするほどの阿呆ではないし、霧の晴れた泉のほとりで迷うこともない。
だからこれは、ジンの心からの気遣いだとわかっていた。サクラを、大切に思ってのことなのだと。
その姿に、幼い彼の姿が重なる。
(ああ、あなたは——何年経っても、変わらないのね)
サクラは、その荷紐の端を、指先できゅっと握った。
「……ここは、『神眠りの泉』。この泉には、神力や魔力を鎮める効果があるの」
二人の手の間に渡された紐を見つめながら、サクラが言う。
ジンは訝しげに首を傾げ、「知っていますよ、そんなこと」と返した。
「だから、私の中にある神力も、ここにいる間は一時的に弱まっているわ」
「……? 存じていますよ。だから、怪我でもしたら危ないと——」
「ここなら、私に触れても大丈夫かもしれないわよ」
サクラの言葉に、ジンの表情が固まった。
たしかにこの泉では、神力や魔力のような外に働く力が弱まる。
理論上なら、人に触れたとき相手に負債を流す神の理も、今なら働かないかもしれなかった。
サクラの言わんとしていることを察したジンは、大きく目を見開き——
そしてすぐに深く眉を顰め、長い長いため息をついた。
「あなたって人は……」
「な、何よその顔。わ、私に触りたいって言ったのは、ジンの方じゃない!」
「そうですけど……。はあ、もう……お願いですからそのセリフ、俺以外には言わないでくださいね」
「……? あなた以外に、こんなこと言う相手いないでしょう」
「……」
サクラが言うと、ジンはさらに顔を歪めサクラに差し出したのとは別の手で額を抑えた。
その仕草の意味がわからず、サクラはきょとんと首を傾げる。
ジンはそんな彼女にじとりと視線をやったあと、もう一度深く息を吐いてこう言った。
「……触れませんよ。そんなことをしても意味がありませんし」
「……意味があるなら触れるみたいな言い方ね」
「意味があるなら、そりゃあするでしょう。でも、今はしません。理論上の話をするなら、あなたの身の内の負債を抑えている神力まで消えていないとおかしい。それなら、触れても安全だと断言はできません。何があるかわからないのに、簡単には触れられませんよ」
「……」
その言葉に、サクラの胸にずきんと鈍い痛みが走った。
泉の作用で、二人を繋ぐ魔力回路も今は静まっている。今、ジンの痛みが伝わってくるはずはない。
——だからこの痛みは、サクラ自身のものだった。
ジンに触れてもらえなかったことが、寂しい。胸を締め付けられるほど、苦しかった。
長い年月の中で、人と触れ合うことのできない苦しみを感じたことはあった。
だけどそれは、『誰かに触れたい』からではなかった。
誰かに触れたことで、不幸にしてしまうことが怖い。
それなのに今、その可能性があってもなお、ジンに触れたいと思ってしまった自分がいた。
自覚してしまったそんな自分を、もう見ないふりはできない。
いつかその願いを優先して、ジンを不幸にしてしまうかもしれない。そのことが怖かった。
「それに……」
俯いたままいるサクラに、低い声が落とされた。
「そうなったときに一番後悔するのは、サクラさん、あなたでしょう」
サクラは今度こそ、心から泣き出したい気分になった。
「さあ、いい加減に行きましょう。朝露が蒸発してしまいます」
「……」
ジンが荷紐を小さく揺らすのを合図に、サクラはようやく立ち上がる。
そして、夜と共にその白銀の花びらを閉じようとする『神眠りの花』の傍らに膝をつき、朝日に輝く朝露をそっと神力で包んだ。
これを専用の保管箱に入れれば、これで旅の目的は終了となる。
(——聞かなきゃ良かった。ジンがどうして、私を好きになったかなんて)
朝露を保管した箱に静かに神力を注ぎ続けながら、サクラはそう思った。
これが、解呪に必要な最後の素材だ。
解呪を終えればジンは、あの塔からいなくなる。
そしてそれは間違いなく、自分が望んだことだった。
口うるさくて、不遜で、無遠慮で——そんなジンが大嫌いだった。
大嫌いだと、思いたかった。
『サクラ、ジンといるといっつも楽しそう!』
いつしかそう言ったチェチェの言葉が、今更ながら胸によぎった。
楽しくないわけがない。
神子という肩書抜きに遠慮なく話し、普通の女性のように気遣ってくれたのは、ジンが初めてだった。
呪術や神学の話が通じるのが嬉しかった。口うるさいと怒りながらも、対等に言い返してくれる時間が楽しかった。
腕利きの騎士だったと聞けば、そんな人をこの塔に引き留めていていいのかと心から悩んで眠れなくもなった。
大嫌いだと遠ざけておけば、いつか来るお別れの日に傷つかずに済むと思っていた。
幸せな日々が永遠に続くことはないと、サクラは知っている。
このままそばにいれば、きっと新たな欲が出る。
今し方サクラが、彼に触れたいと思ってしまったように。
そうしてジンを、不幸にするのか?
触れ合えない距離のまま、変わらない日々を過ごすのか?
その先に待つのだって、ジンだけが年老いていく未来だというのに。
「……帰りましょう、サクラさん」
朝露を旅鞄にしまい込んだサクラに、ジンはどこか気遣わしげにそう言った。
優しげなその声にサクラは、ゆっくりと頷く。
その拍子に頬を伝い、足元へ落ちた一滴を、ジンが朝露と見間違えてくれればいいと思った。




