14.解任と新たな目的
「私は、誰のものにもなれないのよ」
そう言い切るサクラに、ジンは何も答えなかった。
神子の歴史も、神が定めた約定も、彼はすべて知っている。いや、神子を擁するこの国で暮らす者なら、誰もが知る話だった。
なかでも『神子に触れた者は不幸になる』という逸話は、子供を戒める寓話として語られることさえある。ジンも幼い頃から幾度となく聞かされてきた。
「……ほら。見て、これ」
サクラは片膝を椅子の上へ載せ、左のくるぶしを晒した。
聖樹から落ちた直後には赤く腫れていたその場所は、怪我など初めからなかったかのように元へ戻っている。
「怪我なんてもう、なかったみたいでしょう。神から授かった神力のおかげで、私は怪我も病もすぐに治る。寿命以外では死ねないし、その寿命もいつ来るのか、今のところわからない」
サクラは足を下ろし、静かに続けた。
サクラは若い女性の姿をしているが、その実年齢はすでに百を超えている。
神の寵愛を受けたその身体は、普通の人間とは作りも寿命も違う。
もはや人間というより半神のようなものだと、サクラはジンに語った。
「あなたの気持ちは嬉しいわ。本当に、心の底から。私を恐れるどこか、一人の女性として見てくれる人なんて、この世にはいないと思っていたから。……でも」
サクラはそう言うと、居間の窓へ目を向ける。
その向こうでは、塔を取り囲む聖樹が薄桃色の花を風に揺らしていた。
「それでも私は、その気持ちには応えられない」
あの聖樹もまた、サクラの神力が生み出したものだ。
サクラがこの塔へ住み始めてからこの周囲は常春の恩恵に包まれ、聖樹は季節を問わず咲き続けている。どれほど風が吹いても、花びら一枚散らすことがない。
サクラを保護したこの国も、大きな災厄に脅かされることもなく、穏やかな繁栄を築いている。
それは神の寵愛の証。
同時に、サクラが神以外の誰のものにもなれないという証でもあった。
「……」
聖樹を眺めるサクラの横顔を、ジンは黙って見つめる。
その間も、サクラの胸には鈍い痛みが何度も届いていた。
そのことに申し訳なさと嬉しさを感じつつ、サクラは言う。
「陛下へ、あなたの任を解くよう正式に願い出るわ。すべての事情を説明して、護衛を交代してもらう」
その言葉に、ジンの無表情がわずかに揺れた。
そもそも、最初からそうしていればよかったのだ。自分のかけた呪いが、変質したと気づいたその時に。
ジンにも、陛下にも、すべてを打ち明けて解呪に取り組めば、互いに傷付かずに済んだのかもしれない。
「……絶対に触れないと誓います。それでも、そばにいることは許されませんか」
ひたむきな視線でそう言われ、サクラはわずかに胸を高鳴らせた。
彼のまっすぐな想いは心臓に悪い。この、何もかもを射抜いてしまいそうな黒鉄色の瞳も。
——だけど。
「あなたが約束を破るとは思っていないわ。でも、事故で触れてしまうことだってある。私が転んであなたが反射的に手を伸ばすだけで、死んでしまうかもしれない」
歴代の護衛騎士や使用人なら、サクラが多少転んだところで気にしなかっただろう。
彼女に触れることを恐れ、必要以上に近づこうとしない。それに、神力に守られたサクラの怪我はすぐに治る。慌てて助ける必要などないと、誰もが知っていた。
だが、ジンは違う。
サクラが転びかければ、襟首を掴んででも引き留めてしまう。
怪我をして動けなくなれば、厚手の布で包んでまで抱き上げて運ぼうとする。
そんな彼と共に暮らし、今後間違いがないとどうして言い切れるだろう。
「それに……あなたが私に触れたいと願っていると知ったまま、何も知らないふりをして隣で暮らすことはできない」
胸を締め付けるような痛みを知ってしまった。今更知らないふりなどできない。
「……私に触れたことで不幸になった人をたくさん見てきた。あなたには、そうなってほしくないの」
サクラはそう言うと、膝の上で手を握り締めた。
ジンはしばらく何も言わなかった。
やがて神妙な顔で、低く尋ねる。
「……どうしてもですか?」
「どうしても、よ」
「今ここで受け入れなければ、死ぬほど後悔する羽目になると言っても?」
「……あなた、いったい何をするつもり?」
「チッ……冗談です」
「今、舌打ちしたわね!?」
サクラは思わずテーブルへ身を乗り出した。
真面目な話をしているというのに、相変わらずの態度である。
こめかみを引きつらせながらも一度深く息を吸い、乱された気持ちを立て直した。
「……とはいえ、今すぐあなたを塔から出すわけにはいかないわね」
気を取り直したサクラは、人差し指を顎に添えた。
互いの痛みを共有する呪いを残したまま離れれば何が起こるか分からないし、ジンの胸に現れた神紋についても詳しく調べる必要がある。護衛の解任はそのあとだ。
「安心して。次の勤め先は、私が責任をもって紹介してあげるから」
サクラが自信満々に胸を叩くと、ジンは何か言いたげに眉を寄せた。
言葉を呑み込むように咳払いをする。
「そのことですが……呪いはともかく、この神紋まで消す必要があるのでしょうか?」
ジンは上衣越しに、左胸に手を当てた。金色の太陽紋が刻まれた場所だ。
「先ほども申し上げたとおり、この紋が現れたからといって、俺の身体には何の変化もありません」
「今は、でしょう? これから何が起こるか分からないから、先に対処したいのよ」
サクラは考えを整理しながら説明する。
「詳しく調べないと断定はできないけれど、呪いが変質した際、私とあなたの間に魔力回路ができた可能性が高いわ。神紋は、その影響が身体へ現れたものかもしれない」
「それの何が問題なのです?」
「その回路が、痛みだけを伝えるものならいいのよ。けれど、神紋まで刻まれたということは、私の神力もそこを通った可能性がある」
サクラの表情が曇った。
「……言ったでしょう。私の中には、これまで神子の力で取り払ってきた災厄が、負債として蓄積されている。もし神力まで通せる回路がつながったのなら、神力によって抑えられているそれが、回路を通じてあなたへ漏れ出すかもしれない」
「なるほど……神紋を見てあなたがあれほど狼狽していたのは、そのためですか」
ジンは納得したように頷いた。
あくまでサクラの推測にすぎないが、可能性がある以上は放置できなかった。
「触れてもいないのに回路を伝って流れるとは思えないけど……一応、ね」
「まあ、全部あなたのせいなんですけどね」
「わかっているわよ!」
軽口を返したあと、ジンはもう一度胸の神紋へ触れた。
そしてそのまま、しばらく黙り込む。
向かいに座る彼を見ながら、サクラは今さらながら申し訳ない気持ちに駆られた。
(我ながら、ずいぶん勝手なことを言っているわよね……)
自分の都合で密かに呪い、それを解かなければジンの身に危険が及ぶかもしれず、しかも問題が解決したあかつきには護衛を辞めてもらうつもりでいる。
事実だけを並べれば、とんでもなく横暴な主人である。
ここにチェチェがいたらきっとジンの味方をしただろう。小さな身体で頬を膨らませ、サクラを叱る姿が目に浮かぶようだった。
「……わかりました」
長い沈黙のあと、ジンが答えた。
胸元から手を離し、妙に穏やかな顔でサクラを見据える。
「あなたがそこまで望むのなら、従います。ただし、呪いと神紋の問題が解決するまでは、護衛としてここに残らせてください」
思いがけずあっさりと了承され、サクラは目を瞬いた。
これまでどれほど塔から追い出そうとしても、頑として動かなかった男である。想いを知られたところでどうしたと開き直り、そのまま居座る可能性も考えていた。
「それはもちろんよ。むしろ、こちらからお願いしたいくらいだわ」
解呪には、呪いの対象者であるジンの協力が欠かせない。
次の護衛が決まるまで彼が塔へ残ってくれるのなら、サクラとしても助かる。
断る理由はなかった。
「では、まずは呪いの解呪と、神紋についての調査を。俺も協力します」
「ありがとう。私もあなたのために、できるだけよい転職先を探してくるからね……!」
「……ほどほどでいいですよ。あなたの感覚は信用なりませんので」
「どうしてよ!」
——そうして二人は、呪いと神紋の問題を解決するため、協力することになった。
それが終われば、ジンはこの塔を去る。
その事実を寂しいと思った心には、今だけ気づかないふりをした。




