武将 蒲生氏郷 第79話 岐阜出立(1582年6月4日夕刻/岐阜〜近江路)
夕刻。
岐阜城の天守に、沈みかけた陽が赤く差し込んでいた。
氏郷の決断から数刻。
氏郷に従う兵はすでに城下に集まり、
鎧を締め、馬を整え、
静かに出立の時を待っていた。
岐阜城そのものは動かない。
重臣たちはまだ議論を続け、
誰も結論を出せずにいた。
だが、氏郷の隊だけは違った。
迷いなく、ただ前を向いていた。
城門前に立つ氏郷の姿を、
城下の民が不安げに見つめていた。
「氏郷様が……」
「どこへ向かわれるのだ……」
「岐阜はどうなる……」
誰も声を上げて止めようとはしない。
だが、その沈黙には
“行かないでほしい”という思いが
確かに混じっていた。
氏郷は馬に手を置き、
城を振り返った。
冬姫が、
静かに立っていた。
風に揺れる衣の裾。
その姿は、
城そのものの“芯”のように見えた。
冬姫は小さく微笑んだ。
「岐阜は、私が守ります。
どうか……お気をつけて」
その声は強く、
揺れがなかった。
氏郷は深く頭を下げた。
「頼む。
城を……皆を、頼む」
冬姫はうなずき、
その目で氏郷を送り出した。
左馬允が馬を引きながら近づく。
「殿。
最短で瀬田へ向かう道を選びました。
夜のうちに近江へ入れましょう」
氏郷は馬に乗り、
手綱を握った。
胸の奥に、
重いものが沈んでいた。
──信長様は、本当に……。
まだ確かな報はない。
だが、
本能寺炎上、
安土炎上、
明智の動き。
そのすべてが、
ひとつの結末を示しているように思えた。
氏郷は息を吸い、
その思いを胸に押し込んだ。
「……行くぞ」
その一言で、
兵が一斉に動いた。
馬の蹄が土を叩き、
鎧の音が重なり、
隊列がゆっくりと城下を進み始める。
城下の民が道の両側に立ち、
黙って見送った。
誰も声を上げない。
ただ、
その沈黙が
氏郷の背に重くのしかかった。
城を離れ、
岐阜の町並みが遠ざかる。
左馬允が馬を寄せる。
「殿。
秀吉殿は、すでに京へ向かっております。
我らが遅れれば、
戦の流れをつかめませぬ」
氏郷はうなずいた。
「分かっている。
急ぐぞ」
夕陽が山の端に沈み、
道は薄闇に包まれ始めた。
だが、
氏郷の胸の中には
ひとつの光があった。
──信長様の死が、
この国の“線”を断ち切ったのなら。
──自分は、
その先の“線”を選ばねばならない。
馬が走り出す。
兵が続く。
岐阜の灯が遠ざかる。
氏郷は振り返らなかった。
その背は、
すでに“新しい時代”へ向かっていた。




