武将 蒲生氏郷 第78話 氏郷の決断(1582年6月4日/岐阜城)
六月四日の朝。
岐阜城の空気は、前日よりも重く沈んでいた。
本能寺炎上。
安土炎上。
明智の誘い。
秀吉の大返し。
情報は増え続けるのに、
岐阜城はひとつも動けないままだった。
その静けさを破ったのは、
またしても駆け込んできた使者だった。
「明智殿より──
再び“協力の誘い”が届いております!」
広間がざわめく。
「またか……」
「どういうつもりだ……」
「岐阜を味方に引き込む気か……!」
若武将たちが動揺し、
氏郷のもとへ集まってくる。
「氏郷殿、どうされます!」
「明智につくのか、つかぬのか……」
「岐阜はどちらへ向かうべきなのか!」
声は焦りに満ち、
判断を求める視線が氏郷に集中した。
だが、氏郷は答えなかった。
答えられなかった。
岐阜城は、
まだ“城としての判断”を下せる状態ではなかった。
重臣たちは意見をぶつけ合うばかりで、
誰も責任を負おうとしない。
「岐阜を固めるべきだ!」
「いや、安土へ向かうべきだ!」
「明智につくべきだ!」
「つくべきではない!」
同じ言葉が繰り返され、
同じ反論が返される。
そのとき、
冬姫が静かに氏郷のそばへ歩み寄った。
彼女の顔には迷いがなかった。
ただ、深い決意だけがあった。
「氏郷様」
その声は小さかったが、
広間のざわめきの中でもはっきりと届いた。
「父の志を継ぐ者を……
どうか、見誤らないでください」
氏郷は冬姫を見つめた。
彼女は続けた。
「岐阜は動けません。
誰も決められません。
でも……
あなたは、動けるはずです」
その言葉は、
氏郷の胸に深く落ちた。
左馬允が横に立ち、
静かに口を開いた。
「殿。
秀吉殿につくべき理由を申し上げます」
広間の空気がわずかに引き締まる。
左馬允は淡々と、
しかし迷いなく言葉を重ねた。
「まず、秀吉殿はすでに動いております。
明智が京を押さえる前に、
京へ戻るつもりでございます」
「次に、秀吉殿は“流れ”を読むお方。
明智が動いた瞬間に、
自らの進む道を決めておられます」
「そして──
信長様の娘婿である殿が秀吉殿につけば、
秀吉殿は必ず殿を重んじましょう」
若武将たちが息を呑む。
左馬允は最後に言った。
「岐阜城は動けませぬ。
しかし、殿の隊は動けます。
殿が動けば……
岐阜の“意思”は、殿の動きに宿ります」
氏郷は静かに目を閉じた。
冬姫の言葉。
左馬允の言葉。
秀吉の動き。
信長の死の影。
すべてがひとつの線となって胸に結ばれていく。
氏郷は目を開いた。
「……秀吉殿に従う」
その言葉は、
広間の空気を一瞬で変えた。
若武将たちが息を呑み、
重臣たちが顔を上げる。
氏郷は続けた。
「岐阜城の軍勢は動かさぬ。
城は冬姫に任せる。
私は……
自分の隊だけを率いて出立する」
左馬允が深くうなずいた。
岐阜城はまだ動けない。
だが──
氏郷は動く。




