武将 蒲生氏郷 第75話 岐阜城の混乱(1582年6月2日/岐阜城)
廊下を行き交う足音が重なり、
声が抑えきれず漏れ、
城の空気そのものがざわついていた。
「本能寺が……?」
「信じられぬ……」
「殿下はどうなされた……」
噂が噂を呼び、
誰も確かなことを言えないまま、
ただ不安だけが広がっていた。
大広間には、
すでに家臣や若武将たちが集まっていた。
氏郷が入ると、
その視線が一斉に向けられる。
「氏郷殿、聞かれましたか」
「本能寺が……」
「信長様が……」
声は震え、
誰も言葉を最後まで言えなかった。
重臣の一人が声を張り上げた。
「まずは岐阜を固めるべきだ!
敵がどこから来るか分からぬ!」
すぐに別の重臣が反論する。
「いや、安土へ向かうべきだ。
殿下の安否を確かめねばならぬ!」
さらに別の者が声を上げる。
「明智が動いたという噂もある。
もしそうなら、
岐阜は明智に従うべきではないか!」
その言葉に、
広間の空気が一気にざわめいた。
「何を言う!」
「明智につくなど……!」
「しかし、敵がどこかも分からぬのだぞ!」
意見は割れ、
声はぶつかり、
誰もまとめようとしない。
指示系統は完全に乱れていた。
氏郷は黙ってその様子を見ていた。
誰も状況を把握していない。
誰も動けない。
誰も決断できない。
そのとき、
冬姫が奥から現れた。
彼女は騒ぎに飲まれることなく、
静かに、しかし迷いなく歩いていた。
「女中たちを奥へ。
子供たちも避難させて。
食糧と水を確保しておきなさい」
冬姫の声は落ち着いていた。
その落ち着きが、
逆に城内の混乱を際立たせた。
氏郷は冬姫の横顔を見つめた。
彼女はすでに“守るべきもの”を動かしている。
城がどう動くか分からぬ中で、
自分にできることを淡々と進めていた。
左馬允が氏郷のもとへ駆け寄る。
「殿。
このままでは城が動けませぬ。
まず情報を確かめるべきにございます」
氏郷はうなずいた。
「そうだ。
噂では動けぬ。
確かな情報を集める」
左馬允はすぐに指示を出した。
「京へ向かう者、安土へ向かう者、
それぞれ二騎ずつ。
最短の道を行け。
見たものだけを報告せよ」
使者たちが走り出す。
広間ではまだ議論が続いていた。
「岐阜を固めるべきだ!」
「いや、安土へ!」
「明智につくべきだ!」
声は大きくなるばかりで、
誰も一歩も動こうとしない。
氏郷はその中心に立ち、
静かに息を吸った。
岐阜城は、
いま“動けない城”になっていた。
だからこそ──
自分が動かねばならない。
その思いが、
胸の奥で静かに形を取り始めていた。




