武将 蒲生氏郷 第76話 安土炎上の報(1582年6月3日/岐阜城)
六月三日の朝。
岐阜城の空気は、前日から続く混乱をそのまま抱え込んでいた。
本能寺炎上の急報が届いてから一夜。
誰も眠れず、
誰も確かな情報を持たず、
ただ不安だけが城内を満たしていた。
その静けさを破ったのは、
またしても駆け込んできた使者だった。
「安土──!
安土城が、燃えております!」
広間にいた武士たちが一斉に立ち上がる。
「安土まで……?」
「まさか、明智が……」
「信忠様はどうなされた!」
声が重なり、
混乱はさらに大きくなった。
使者は息を切らし、
泥にまみれたまま膝をついた。
「城下は大騒ぎにて……
誰が火を放ったのか、分かりませぬ……
ただ、明智の名が……」
その言葉が落ちた瞬間、
広間の空気が変わった。
「明智……?」
「やはり明智か……」
「本能寺も、安土も……」
噂は一気に広がり、
誰もがその名を口にした。
そのとき、
城の外から新たな使者が到着した。
「岐阜へ──
明智殿より“協力の誘い”が届いております!」
広間がざわめきに包まれた。
「明智が……岐阜に?」
「協力の誘いだと?」
「どういうつもりだ……!」
若武将たちが動揺し、
氏郷のもとへ駆け寄る。
「氏郷殿、どうされます!」
「明智につくべきなのか……」
「それとも、岐阜を固めるべきか……!」
声は焦りに満ちていた。
氏郷は答えず、
ただ広間の混乱を見つめた。
岐阜城は、
本能寺の急報で揺れ、
安土炎上でさらに揺れ、
明智の誘いでついに“割れ始めていた”。
左馬允が氏郷の横に立った。
「殿。
まだ動いてはなりませぬ」
氏郷は目を向ける。
左馬允は低い声で続けた。
「情報が揃っておりませぬ。
安土の炎も、明智の動きも、
確かなものは何ひとつございませぬ。
いま動けば、明智の思うつぼにございます」
若武将たちが口をつぐむ。
左馬允はさらに言った。
「岐阜城は、いま指示系統が乱れております。
誰も決断できぬ。
だからこそ、殿が焦って動く必要はございませぬ」
氏郷は静かにうなずいた。
確かに、
岐阜城は“動けない城”になっていた。
重臣たちは意見をぶつけ合うばかりで、
誰も責任を取ろうとしない。
「岐阜を固めるべきだ!」
「いや、安土へ向かうべきだ!」
「明智につくべきだ!」
「いや、断じてつくべきではない!」
声は大きくなるばかりで、
何ひとつ決まらない。
その中で、
冬姫だけが静かに動いていた。
女中たちに指示を出し、
子供たちを奥へ避難させ、
食糧と水を確保し、
城の奥を整えていた。
彼女の動きは迷いがなく、
ただ“守るべきもの”を守るためのものだった。
氏郷はその姿を見て、
胸の奥に重いものが沈むのを感じた。
──岐阜城は動けない。
──誰も決断できない。
──だが、時は待ってくれない。
左馬允が小声で言った。
「殿。
岐阜が動けぬなら……
動ける者が動くしかございませぬ」
氏郷はその言葉を胸に刻んだ。
安土炎上の報は、
ただの知らせではなかった。
それは、
岐阜城が“止まった”ことを示す報でもあった。
そして、
氏郷自身が“動くべき時”が近づいていることを
静かに告げていた。




