第七話 「ありがとう」の温度
エドガー・グランツが転倒してから数日が経った。
王都ケアギルド附属ケア施設。
朝の光が高い窓から差し込み、白い石壁を淡く照らしている。
磨かれた木の手すり。
規則正しく並ぶ魔導照明。
食堂から漂う朝食の匂い。
誰かの笑い声。
誰かを呼ぶ声。
施設は今日も目を覚ます。
利用者達の生活は続いていた。
昨日も。
今日も。
明日も。
何も変わらない。
変わってしまったのは。
アリアだけだった。
◇
施設へ足を踏み入れる。
それだけで胸が重くなる。
車椅子が見える。
心臓が跳ねる。
杖が見える。
視線が逸れる。
歩いている利用者が見える。
胸の奥がざわつく。
また転んだらどうしよう。
また誰かを傷付けたらどうしよう。
そんな考えが頭から離れない。
事故の日からずっとそうだった。
「アリア」
声がした。
振り向く。
リナだった。
黒髪を後ろで束ねたいつもの姿。
「おはよう」
「おはようございます」
短い挨拶。
それだけ。
リナは何も聞かない。
アリアも何も言えない。
二人は並んで歩き出した。
窓の外では庭師のゴーレムが花壇の手入れをしている。
以前なら面白そうに見ていた光景だった。
今は何も感じなかった。
◇
午前の業務は静かに過ぎていった。
見守り。
掃除。
記録。
利用者との会話。
身体は動いている。
けれど心だけが置き去りになっている気がした。
気付けば足は二階の居室棟へ向いていた。
長い廊下の奥。
陽当たりの良い部屋が並ぶ区画。
その一番奥。
木製の名札が掛けられた扉の前で足を止める。
エレノア。
アリアは軽く扉を叩いた。
「失礼します」
返事はない。
そっと扉を開ける。
午後の光が部屋を満たしていた。
白いレースのカーテンが風に揺れる。
棚には古びた写真立て。
小さな花瓶。
青い花が一輪。
窓際には色とりどりの毛糸玉。
そして。
窓辺の椅子に腰掛けるエルフの老婆。
白い髪。
長い耳。
穏やかな横顔。
春の光がその輪郭を柔らかく照らしていた。
まるで時間だけがゆっくり流れているみたいだった。
アリアは声を掛ける。
「こんにちは」
エレノアが振り向く。
そして柔らかく笑った。
「まあ、どちら様ぁ?」
アリアも少しだけ笑う。
この人は五分前の事を忘れる。
昨日の事も覚えていない。
今朝会った事も覚えていない。
だから会うたびに初対面になる。
「アリアです」
「そうなのねぇ」
エレノアは嬉しそうに頷いた。
本当に初めて会ったみたいに。
◇
少しだけ話をする。
天気の話。
鳥の話。
窓の外に咲いている花の話。
意味のない会話だった。
けれど不思議と嫌ではなかった。
やがて。
エレノアの膝から毛糸玉が転がり落ちた。
赤い毛糸玉。
床を転がる。
椅子の脚へ当たり、止まる。
アリアは立ち上がる。
拾う。
そして差し出す。
ただそれだけだった。
本当に。
ただそれだけだった。
「どうぞ」
エレノアは目を細める。
皺だらけの顔が柔らかく緩む。
そして。
笑った。
「ありがとうねぇ」
その瞬間だった。
涙が落ちた。
一滴。
頬を伝う。
アリアは目を見開く。
なぜ。
そう思った時にはもう遅かった。
二滴目が落ちる。
三滴目が落ちる。
止まらない。
エドガーの顔が浮かぶ。
花壇が浮かぶ。
車椅子が浮かぶ。
病室が浮かぶ。
毎日面会に来ていた娘の顔が浮かぶ。
そして。
あの言葉が蘇る。
『もう、死んだ方がいいな』
胸が痛い。
苦しい。
息が詰まる。
涙が止まらない。
「ごめんなさい……」
声が漏れる。
何に謝っているのか分からなかった。
ただ。
涙だけが止まらなかった。
アリアはその場へしゃがみ込む。
肩が震える。
嗚咽が漏れる。
利用者の前だった。
ケアラー失格だ。
そう思う。
それでも。
身体が言うことを聞かなかった。
怖かった。
本当に怖かった。
◇
エレノアは何も言わなかった。
ただ。
ゆっくりと手を伸ばす。
細い手。
しわだらけの手。
長い時間を生きてきた手。
その手が。
アリアの手を包む。
何も言わない。
慰めない。
励まさない。
理由も聞かない。
ただ。
握る。
そして。
優しく。
手の甲をさする。
ゆっくり。
何度も。
何度も。
窓から風が吹き込む。
レースのカーテンが揺れる。
午後の光が部屋を満たしている。
静かな部屋だった。
聞こえるのは。
アリアの嗚咽だけ。
エレノアは笑っていた。
穏やかに。
本当に穏やかに。
何も言わず。
ただそこにいた。
それだけだった。
それだけなのに。
アリアは泣き続けた。
◇
夕方。
窓の外は茜色だった。
王都の屋根が夕陽に染まっている。
利用者達はそれぞれの時間を過ごしていた。
誰かが笑う。
誰かが眠る。
誰かが職員を呼ぶ。
生活は続いている。
今日も。
明日も。
アリアは窓の外を見る。
そして。
自分の手を見る。
もう温もりなんて残っていないはずだった。
それでも。
忘れられなかった。
「アリア」
声がした。
リナだった。
夕陽が差し込む廊下。
二人だけだった。
リナは静かに聞く。
「あなたは何をしたい?」
あの日と同じ問いだった。
アリアは考える。
分からない。
本当に分からない。
長い沈黙。
やがて。
小さく口を開く。
「分かりません」
正直な答えだった。
リナは頷く。
否定しない。
急かさない。
ただ待つ。
アリアは続ける。
「でも」
一拍。
窓の外を見る。
利用者達を思い浮かべる。
エドガーを思い出す。
エレノアを思い出す。
そして。
小さく言った。
「知りたいです」
リナはしばらくアリアを見つめていた。
やがて。
小さく頷く。
「そう」
それだけだった。
窓の外。
夕陽が施設を琥珀色に染めている。
今日も一日が終わる。
利用者達の生活は続いていく。
そして。
アリアもまた。
その中に立っていた。
第七話
ありがとうの温度 完




