↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/32

第七話 「ありがとう」の温度

エドガー・グランツが転倒してから数日が経った。


王都ケアギルド附属ケア施設。


朝の光が高い窓から差し込み、白い石壁を淡く照らしている。


磨かれた木の手すり。


規則正しく並ぶ魔導照明。


食堂から漂う朝食の匂い。


誰かの笑い声。


誰かを呼ぶ声。


施設は今日も目を覚ます。


利用者達の生活は続いていた。


昨日も。


今日も。


明日も。


何も変わらない。


変わってしまったのは。


アリアだけだった。



施設へ足を踏み入れる。


それだけで胸が重くなる。


車椅子が見える。


心臓が跳ねる。


杖が見える。


視線が逸れる。


歩いている利用者が見える。


胸の奥がざわつく。


また転んだらどうしよう。


また誰かを傷付けたらどうしよう。


そんな考えが頭から離れない。


事故の日からずっとそうだった。


「アリア」


声がした。


振り向く。


リナだった。


黒髪を後ろで束ねたいつもの姿。


「おはよう」


「おはようございます」


短い挨拶。


それだけ。


リナは何も聞かない。


アリアも何も言えない。


二人は並んで歩き出した。


窓の外では庭師のゴーレムが花壇の手入れをしている。


以前なら面白そうに見ていた光景だった。


今は何も感じなかった。



午前の業務は静かに過ぎていった。


見守り。


掃除。


記録。


利用者との会話。


身体は動いている。


けれど心だけが置き去りになっている気がした。


気付けば足は二階の居室棟へ向いていた。


長い廊下の奥。


陽当たりの良い部屋が並ぶ区画。


その一番奥。


木製の名札が掛けられた扉の前で足を止める。


エレノア。


アリアは軽く扉を叩いた。


「失礼します」


返事はない。


そっと扉を開ける。


午後の光が部屋を満たしていた。


白いレースのカーテンが風に揺れる。


棚には古びた写真立て。


小さな花瓶。


青い花が一輪。


窓際には色とりどりの毛糸玉。


そして。


窓辺の椅子に腰掛けるエルフの老婆。


白い髪。


長い耳。


穏やかな横顔。


春の光がその輪郭を柔らかく照らしていた。


まるで時間だけがゆっくり流れているみたいだった。


アリアは声を掛ける。


「こんにちは」


エレノアが振り向く。


そして柔らかく笑った。


「まあ、どちら様ぁ?」


アリアも少しだけ笑う。


この人は五分前の事を忘れる。


昨日の事も覚えていない。


今朝会った事も覚えていない。


だから会うたびに初対面になる。


「アリアです」


「そうなのねぇ」


エレノアは嬉しそうに頷いた。


本当に初めて会ったみたいに。



少しだけ話をする。


天気の話。


鳥の話。


窓の外に咲いている花の話。


意味のない会話だった。


けれど不思議と嫌ではなかった。


やがて。


エレノアの膝から毛糸玉が転がり落ちた。


赤い毛糸玉。


床を転がる。


椅子の脚へ当たり、止まる。


アリアは立ち上がる。


拾う。


そして差し出す。


ただそれだけだった。


本当に。


ただそれだけだった。


「どうぞ」


エレノアは目を細める。


皺だらけの顔が柔らかく緩む。


そして。


笑った。


「ありがとうねぇ」


その瞬間だった。


涙が落ちた。


一滴。


頬を伝う。


アリアは目を見開く。


なぜ。


そう思った時にはもう遅かった。


二滴目が落ちる。


三滴目が落ちる。


止まらない。


エドガーの顔が浮かぶ。


花壇が浮かぶ。


車椅子が浮かぶ。


病室が浮かぶ。


毎日面会に来ていた娘の顔が浮かぶ。


そして。


あの言葉が蘇る。


『もう、死んだ方がいいな』


胸が痛い。


苦しい。


息が詰まる。


涙が止まらない。


「ごめんなさい……」


声が漏れる。


何に謝っているのか分からなかった。


ただ。


涙だけが止まらなかった。


アリアはその場へしゃがみ込む。


肩が震える。


嗚咽が漏れる。


利用者の前だった。


ケアラー失格だ。


そう思う。


それでも。


身体が言うことを聞かなかった。


怖かった。


本当に怖かった。



エレノアは何も言わなかった。


ただ。


ゆっくりと手を伸ばす。


細い手。


しわだらけの手。


長い時間を生きてきた手。


その手が。


アリアの手を包む。


何も言わない。


慰めない。


励まさない。


理由も聞かない。


ただ。


握る。


そして。


優しく。


手の甲をさする。


ゆっくり。


何度も。


何度も。


窓から風が吹き込む。


レースのカーテンが揺れる。


午後の光が部屋を満たしている。


静かな部屋だった。


聞こえるのは。


アリアの嗚咽だけ。


エレノアは笑っていた。


穏やかに。


本当に穏やかに。


何も言わず。


ただそこにいた。


それだけだった。


それだけなのに。


アリアは泣き続けた。



夕方。


窓の外は茜色だった。


王都の屋根が夕陽に染まっている。


利用者達はそれぞれの時間を過ごしていた。


誰かが笑う。


誰かが眠る。


誰かが職員を呼ぶ。


生活は続いている。


今日も。


明日も。


アリアは窓の外を見る。


そして。


自分の手を見る。


もう温もりなんて残っていないはずだった。


それでも。


忘れられなかった。


「アリア」


声がした。


リナだった。


夕陽が差し込む廊下。


二人だけだった。


リナは静かに聞く。


「あなたは何をしたい?」


あの日と同じ問いだった。


アリアは考える。


分からない。


本当に分からない。


長い沈黙。


やがて。


小さく口を開く。


「分かりません」


正直な答えだった。


リナは頷く。


否定しない。


急かさない。


ただ待つ。


アリアは続ける。


「でも」


一拍。


窓の外を見る。


利用者達を思い浮かべる。


エドガーを思い出す。


エレノアを思い出す。


そして。


小さく言った。


「知りたいです」


リナはしばらくアリアを見つめていた。


やがて。


小さく頷く。


「そう」


それだけだった。


窓の外。


夕陽が施設を琥珀色に染めている。


今日も一日が終わる。


利用者達の生活は続いていく。


そして。


アリアもまた。


その中に立っていた。


第七話


ありがとうの温度 完

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。