第六話 未来 後編
診断は。
大腿骨頸部骨折だった。
◇
事故が起きた翌日。
施設はいつも通り動いていた。
朝になれば利用者は起きる。
食堂には朝食の匂いが漂う。
職員は走る。
呼び鈴は鳴る。
誰かが笑う。
誰かが怒る。
誰かが眠る。
生活は止まらない。
それなのに。
アリアの時間だけが止まっていた。
◇
中庭を通る。
噴水の水音が聞こえる。
花壇が見える。
朝露を乗せた苗が風に揺れている。
つい昨日まで。
その前にエドガーがいた。
麦わら帽子。
革手袋。
仏頂面。
「情けないな」
そんな声が聞こえてきそうだった。
けれど。
誰もいない。
花壇だけが残っていた。
アリアは足を止める。
胸の奥が少し痛んだ。
◇
数日後。
病院から説明があった。
手術は行われない。
高齢による身体的負担。
術後の合併症。
回復の見込み。
様々なものを天秤に載せた結果だった。
保存療法。
そう決まった。
アリアにはよく分からなかった。
骨折だ。
治るんじゃないのか。
時間が経てば。
また歩けるようになるんじゃないのか。
そう思った。
そう思いたかった。
◇
面会室だった。
窓の外では夕陽が沈み始めている。
橙色の光が床へ長く伸びていた。
毎日面会に来ていた娘は泣いていた。
両手で口元を押さえている。
声を殺そうとしている。
それでも涙は止まらない。
「父は歩けてたんです」
震える声だった。
「毎日散歩してたんです」
涙が落ちる。
「花壇の話ばっかりしてたんです」
肩が震える。
「春になったら植え替えるんだって」
アリアは言葉を失う。
娘は続ける。
「楽しそうだったんです」
絞り出すような声だった。
「本当に楽しそうだったんです」
沈黙。
窓の外で鳥が飛んでいく。
娘は俯く。
「なんで……」
小さな声だった。
「なんでこんな事に……」
アリアは頭を下げる。
何も言えない。
申し訳ありません。
それしか出てこない。
娘は怒っていた。
悲しんでいた。
怖がっていた。
父親が失われていく事を。
アリアは初めて知った。
事故は。
利用者本人だけのものじゃない。
家族の未来も変えてしまうのだと。
◇
その夜。
王都ケアギルド附属ケア施設の裏庭。
昼間の賑わいが嘘みたいだった。
花壇の花が夜風に揺れている。
遠くで夜勤職員の足音が聞こえる。
それ以外は静かだった。
アリアは一人でベンチへ座っていた。
膝の上で手を握り締める。
何度も。
何度も。
あの日を思い出していた。
倒れていたエドガー。
転がった杖。
泣いていた娘。
何もできなかった自分。
胸が重かった。
息が苦しかった。
「ここにいたんだ」
声がした。
リナだった。
アリアの隣へ座る。
しばらく何も言わない。
花が揺れる。
風が吹く。
やがて。
リナが口を開いた。
「何がつらい?」
アリアは答える。
「私のせいです」
「それだけ?」
「家族にも怒られました」
「それだけ?」
アリアは黙る。
リナは責めない。
ただ聞いている。
静かに。
ただ待っている。
「エドガーさんは何を失った?」
アリアは答える。
「歩くことです」
「本当に?」
アリアは顔を上げる。
リナは前を見たままだった。
「歩くことだけ?」
沈黙。
頭の中へ景色が浮かぶ。
花壇。
噴水。
娘。
春を待つ苗。
窓辺。
そして。
『まだ三年はやる』
エドガーの笑顔。
少しずつ。
少しずつ。
繋がっていく。
「未来……」
小さな声だった。
「これからやりたかった事です」
「これからの時間です」
声が震える。
リナは静かに頷いた。
そして。
「骨は治るかもしれない」
アリアは顔を上げる。
「かもしれない?」
「うん」
リナは続ける。
「でも」
そこで言葉を止めた。
風が吹く。
花壇の花が揺れる。
アリアにはまだ分からなかった。
未来を失う。
そんな大袈裟な話なんだろうか。
骨折だ。
また歩けるかもしれない。
また花壇へ行けるかもしれない。
そう思っていた。
そう思いたかった。
◇
数週間後。
エドガーが戻ってきた。
施設の玄関前。
利用者達が集まっている。
職員達もいる。
娘もいた。
皆が待っていた。
アリアも待っていた。
また会える。
また話せる。
また花壇へ行ける。
そう思っていた。
馬車が止まる。
蹄の音が止まる。
扉が開く。
誰も喋らない。
静かだった。
職員達が近付く。
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
エドガーが姿を現した。
アリアは思わず笑いそうになる。
戻ってきた。
そう思った。
次の瞬間。
笑顔が消えた。
見えたのは杖じゃなかった。
車椅子だった。
◇
風が吹く。
誰も喋らない。
エドガーも何も言わない。
ただ前を見ている。
以前のような仏頂面もない。
皮肉もない。
笑顔もない。
何もなかった。
その横顔だけが。
妙に老けて見えた。
◇
それからだった。
エドガーは庭へ行かなくなった。
花壇を見なくなった。
窓辺へ立たなくなった。
娘が帰る時も。
見送らなくなった。
食堂でも静かだった。
以前のエドガーとは別人みたいだった。
◇
ある日。
アリアは勇気を出して声を掛けた。
「エドガーさん」
返事はない。
「庭、行きませんか?」
沈黙。
長い沈黙。
窓の外には花壇が見える。
春だった。
エドガーが待っていた春。
植え替えたかった春。
育てたかった春。
花は綺麗に咲いていた。
けれど。
エドガーは見ていなかった。
一度も。
花壇へ目を向けなかった。
やがて。
小さな声が聞こえる。
「行けん」
それだけだった。
アリアは何も言えなかった。
◇
風が吹く。
花が揺れる。
長い沈黙。
やがて。
エドガーはぽつりと呟いた。
「もう」
乾いた声だった。
「死んだ方がいいな」
アリアは固まる。
言葉が出ない。
慰められない。
否定できない。
その横顔が。
あまりにも空っぽだったから。
◇
その瞬間。
アリアは理解してしまった。
歩けない事じゃない。
車椅子じゃない。
骨折じゃない。
その先だった。
花壇。
散歩。
娘を見送る時間。
来年。
再来年。
『まだ三年はやる』
そう笑っていた未来。
全部。
失われてしまった。
未来だった。
◇
帰り道。
王都は夕暮れに染まっていた。
石畳へ長い影が伸びる。
赤い空。
遠くで鐘が鳴る。
アリアは黙って歩いていた。
隣にはリナがいる。
やがて。
アリアが口を開く。
「リナさん」
「何」
「こういう経験」
言葉が詰まる。
「ありますか」
リナの足が少しだけ止まる。
本当に少しだけ。
気付かない人は気付かない程度に。
けれど。
アリアには分かった。
何かがある。
昔。
きっと。
「あるよ」
アリアは息を呑む。
「骨折ですか?」
夕陽が石畳を赤く染める。
リナは答えない。
代わりに。
握っていた通信用結晶へ視線を落とした。
ほんの一瞬だけ。
指先に力が入る。
そして。
何事もなかったように前を見る。
「骨折ほど優しくなかったけど」
その声だけが静かに残った。
◇
風が吹く。
二人は再び歩き出す。
しばらくして。
リナが言った。
「アリア」
「はい」
「あなたは何をしたい?」
最初と同じ問いだった。
けれど。
意味はまるで違っていた。
アリアは答えられない。
まだ分からない。
利用者を助けたい。
話を聞きたい。
支えたい。
そんな言葉は浮かぶ。
でも。
今は違う気がした。
だから。
小さく首を振る。
「まだ分かりません」
リナは頷く。
「そう」
そして。
少しだけ優しい声で言った。
「探しなさい」
夕陽が王都を赤く染めていた。
アリアは空を見上げる。
失われた未来。
まだ見つけていない自分の未来。
その両方を胸へ抱えながら。
ゆっくりと前を向いた。
第六話
未来
後編 完




