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第六話 未来 後編

診断は。


大腿骨頸部骨折だった。



事故が起きた翌日。


施設はいつも通り動いていた。


朝になれば利用者は起きる。


食堂には朝食の匂いが漂う。


職員は走る。


呼び鈴は鳴る。


誰かが笑う。


誰かが怒る。


誰かが眠る。


生活は止まらない。


それなのに。


アリアの時間だけが止まっていた。



中庭を通る。


噴水の水音が聞こえる。


花壇が見える。


朝露を乗せた苗が風に揺れている。


つい昨日まで。


その前にエドガーがいた。


麦わら帽子。


革手袋。


仏頂面。


「情けないな」


そんな声が聞こえてきそうだった。


けれど。


誰もいない。


花壇だけが残っていた。


アリアは足を止める。


胸の奥が少し痛んだ。



数日後。


病院から説明があった。


手術は行われない。


高齢による身体的負担。


術後の合併症。


回復の見込み。


様々なものを天秤に載せた結果だった。


保存療法。


そう決まった。


アリアにはよく分からなかった。


骨折だ。


治るんじゃないのか。


時間が経てば。


また歩けるようになるんじゃないのか。


そう思った。


そう思いたかった。



面会室だった。


窓の外では夕陽が沈み始めている。


橙色の光が床へ長く伸びていた。


毎日面会に来ていた娘は泣いていた。


両手で口元を押さえている。


声を殺そうとしている。


それでも涙は止まらない。


「父は歩けてたんです」


震える声だった。


「毎日散歩してたんです」


涙が落ちる。


「花壇の話ばっかりしてたんです」


肩が震える。


「春になったら植え替えるんだって」


アリアは言葉を失う。


娘は続ける。


「楽しそうだったんです」


絞り出すような声だった。


「本当に楽しそうだったんです」


沈黙。


窓の外で鳥が飛んでいく。


娘は俯く。


「なんで……」


小さな声だった。


「なんでこんな事に……」


アリアは頭を下げる。


何も言えない。


申し訳ありません。


それしか出てこない。


娘は怒っていた。


悲しんでいた。


怖がっていた。


父親が失われていく事を。


アリアは初めて知った。


事故は。


利用者本人だけのものじゃない。


家族の未来も変えてしまうのだと。



その夜。


王都ケアギルド附属ケア施設の裏庭。


昼間の賑わいが嘘みたいだった。


花壇の花が夜風に揺れている。


遠くで夜勤職員の足音が聞こえる。


それ以外は静かだった。


アリアは一人でベンチへ座っていた。


膝の上で手を握り締める。


何度も。


何度も。


あの日を思い出していた。


倒れていたエドガー。


転がった杖。


泣いていた娘。


何もできなかった自分。


胸が重かった。


息が苦しかった。


「ここにいたんだ」


声がした。


リナだった。


アリアの隣へ座る。


しばらく何も言わない。


花が揺れる。


風が吹く。


やがて。


リナが口を開いた。


「何がつらい?」


アリアは答える。


「私のせいです」


「それだけ?」


「家族にも怒られました」


「それだけ?」


アリアは黙る。


リナは責めない。


ただ聞いている。


静かに。


ただ待っている。


「エドガーさんは何を失った?」


アリアは答える。


「歩くことです」


「本当に?」


アリアは顔を上げる。


リナは前を見たままだった。


「歩くことだけ?」


沈黙。


頭の中へ景色が浮かぶ。


花壇。


噴水。


娘。


春を待つ苗。


窓辺。


そして。


『まだ三年はやる』


エドガーの笑顔。


少しずつ。


少しずつ。


繋がっていく。


「未来……」


小さな声だった。


「これからやりたかった事です」


「これからの時間です」


声が震える。


リナは静かに頷いた。


そして。


「骨は治るかもしれない」


アリアは顔を上げる。


「かもしれない?」


「うん」


リナは続ける。


「でも」


そこで言葉を止めた。


風が吹く。


花壇の花が揺れる。


アリアにはまだ分からなかった。


未来を失う。


そんな大袈裟な話なんだろうか。


骨折だ。


また歩けるかもしれない。


また花壇へ行けるかもしれない。


そう思っていた。


そう思いたかった。



数週間後。


エドガーが戻ってきた。


施設の玄関前。


利用者達が集まっている。


職員達もいる。


娘もいた。


皆が待っていた。


アリアも待っていた。


また会える。


また話せる。


また花壇へ行ける。


そう思っていた。


馬車が止まる。


蹄の音が止まる。


扉が開く。


誰も喋らない。


静かだった。


職員達が近付く。


ゆっくりと。


本当にゆっくりと。


エドガーが姿を現した。


アリアは思わず笑いそうになる。


戻ってきた。


そう思った。


次の瞬間。


笑顔が消えた。


見えたのは杖じゃなかった。


車椅子だった。



風が吹く。


誰も喋らない。


エドガーも何も言わない。


ただ前を見ている。


以前のような仏頂面もない。


皮肉もない。


笑顔もない。


何もなかった。


その横顔だけが。


妙に老けて見えた。



それからだった。


エドガーは庭へ行かなくなった。


花壇を見なくなった。


窓辺へ立たなくなった。


娘が帰る時も。


見送らなくなった。


食堂でも静かだった。


以前のエドガーとは別人みたいだった。



ある日。


アリアは勇気を出して声を掛けた。


「エドガーさん」


返事はない。


「庭、行きませんか?」


沈黙。


長い沈黙。


窓の外には花壇が見える。


春だった。


エドガーが待っていた春。


植え替えたかった春。


育てたかった春。


花は綺麗に咲いていた。


けれど。


エドガーは見ていなかった。


一度も。


花壇へ目を向けなかった。


やがて。


小さな声が聞こえる。


「行けん」


それだけだった。


アリアは何も言えなかった。



風が吹く。


花が揺れる。


長い沈黙。


やがて。


エドガーはぽつりと呟いた。


「もう」


乾いた声だった。


「死んだ方がいいな」


アリアは固まる。


言葉が出ない。


慰められない。


否定できない。


その横顔が。


あまりにも空っぽだったから。



その瞬間。


アリアは理解してしまった。


歩けない事じゃない。


車椅子じゃない。


骨折じゃない。


その先だった。


花壇。


散歩。


娘を見送る時間。


来年。


再来年。


『まだ三年はやる』


そう笑っていた未来。


全部。


失われてしまった。


未来だった。



帰り道。


王都は夕暮れに染まっていた。


石畳へ長い影が伸びる。


赤い空。


遠くで鐘が鳴る。


アリアは黙って歩いていた。


隣にはリナがいる。


やがて。


アリアが口を開く。


「リナさん」


「何」


「こういう経験」


言葉が詰まる。


「ありますか」


リナの足が少しだけ止まる。


本当に少しだけ。


気付かない人は気付かない程度に。


けれど。


アリアには分かった。


何かがある。


昔。


きっと。


「あるよ」


アリアは息を呑む。


「骨折ですか?」


夕陽が石畳を赤く染める。


リナは答えない。


代わりに。


握っていた通信用結晶へ視線を落とした。


ほんの一瞬だけ。


指先に力が入る。


そして。


何事もなかったように前を見る。


「骨折ほど優しくなかったけど」


その声だけが静かに残った。



風が吹く。


二人は再び歩き出す。


しばらくして。


リナが言った。


「アリア」


「はい」


「あなたは何をしたい?」


最初と同じ問いだった。


けれど。


意味はまるで違っていた。


アリアは答えられない。


まだ分からない。


利用者を助けたい。


話を聞きたい。


支えたい。


そんな言葉は浮かぶ。


でも。


今は違う気がした。


だから。


小さく首を振る。


「まだ分かりません」


リナは頷く。


「そう」


そして。


少しだけ優しい声で言った。


「探しなさい」


夕陽が王都を赤く染めていた。


アリアは空を見上げる。


失われた未来。


まだ見つけていない自分の未来。


その両方を胸へ抱えながら。


ゆっくりと前を向いた。


第六話


未来


後編 完

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