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第六話 未来 中編

施設班の実習が始まって数日。


アリアは毎朝、中庭へ向かうのが少し楽しみになっていた。


朝露が花壇を濡らしている。


まだ咲ききらない蕾。


柔らかな土の匂い。


噴水の水音。


その中で。


今日もエドガーはしゃがみ込んでいた。


麦わら帽子。


使い込まれた革手袋。


膝には土。


移植ごてが石へ当たるたび、乾いた音が小さく響く。


カツ。


カツ。


「おはようございます!」


アリアが声を掛ける。


エドガーは振り向かない。


「朝から元気だな」


「取り柄なので!」


「他の取り柄も探せ」


「探してます!」


「見つかったら教えろ」


風が吹く。


花壇の花が揺れる。


エドガーの口元が少しだけ緩んでいた。



昼食の時間だった。


食堂には湯気が立ち上っている。


焼き立てのパン。


香草の効いたスープ。


焼き魚の匂い。


利用者達の話し声。


賑やかな昼だった。


その中で。


灰色の耳を持つ獣人の老婆が端の席へ座っていた。


新しく入所してきた利用者だった。


周囲を気にしている。


何度も辺りを見回している。


けれど。


誰にも声を掛けられない。


食事にも手を付けていなかった。


アリアは少し迷った。


声を掛けるべきだろうか。


どう話せばいいだろうか。


そう考えていた時だった。


椅子が引かれる音がした。


エドガーだった。


杖を突きながら老婆の前へ立つ。


「おい」


老婆が顔を上げる。


「はい?」


「空いてるから座れ」


「え?」


「聞こえんかったか」


老婆は戸惑う。


エドガーは構わない。


「一人で飯を食うな」


「でも……」


「いいから来い」


ぶっきらぼうだった。


優しくもない。


気遣っているようにも見えない。


それでも。


老婆は席を移る。


やがて。


近くの利用者が話し掛ける。


別の利用者が昔話を始める。


誰かが笑う。


誰かが茶々を入れる。


気付けば。


老婆も笑っていた。


食後。


アリアがその話をすると。


エドガーは不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「勘違いするな」


「え?」


「一人で飯を食われると」


一拍。


「こっちの飯が不味くなる」


アリアは吹き出した。


エドガーも少しだけ笑っていた。



午後になると。


決まって玄関の鐘が鳴る。


カラン。


小さな音。


すると。


エドガーは時計を見る。


別に嬉しそうじゃない。


むしろ面倒そうだった。


それでも。


娘が来る時間が少し過ぎると落ち着かなくなる。


窓を見る。


廊下を見る。


また窓を見る。


そして。


玄関から娘が現れる。


「お父さん」


「来たのか」


「来るよ」


「暇人だな」


「心配なの」


「するな」


「無理」


毎回同じ会話だった。


けれど。


娘は嬉しそうだった。


エドガーも。


少しだけ嬉しそうだった。


認めないだけで。



帰る時間になる。


娘が玄関へ向かう。


「また明日ね」


「勝手にしろ」


「来るからね」


「好きにしろ」


扉が閉まる。


娘の姿が見えなくなる。


それでも。


エドガーは窓際に立っていた。


石畳の道を歩く後ろ姿を。


姿が見えなくなるまで見送っていた。


アリアは何度も見た。


だから知っている。


この人は。


娘が大好きなんだ。


絶対に。



ある日の午後。


アリアは花壇の手伝いをしていた。


土を運ぶ。


苗を並べる。


水を撒く。


想像以上に重労働だった。


「疲れました……」


花壇の縁へ腰を下ろす。


エドガーは鼻を鳴らした。


「情けないな」


「頑張ってるんですよ!」


「若いのに」


「若いからです!」


「意味が分からん」


風が吹く。


苗が揺れる。


エドガーはゆっくり立ち上がった。


腰を押さえながら。


花壇を見渡す。


春を待つ苗。


空いた区画。


古くなった木柵。


手入れが必要な植え込み。


まだやる事は沢山ある。


「春になったらな」


また言う。


最近よく聞く言葉だった。


「向こうも植え替える」


エドガーは花壇の奥を指差す。


「あと何年かかるか」


「何がですか?」


「全部だ」


花壇。


庭。


木柵。


噴水。


エドガーは笑う。


「見栄えが悪い」


アリアも笑う。


十分綺麗だった。


でも。


エドガーには違う景色が見えているらしい。


「まだ三年はやる」


そう言った。


迷いなく。


当然みたいに。


来年もいる。


再来年もいる。


その先もいる。


そんな顔だった。



「エドガーさん」


「何だ」


「どうして花が好きなんですか?」


風が吹く。


噴水が揺れる。


花びらが一枚舞う。


エドガーはしばらく考えていた。


やがて。


ぽつりと呟く。


「残るからだ」


「残る?」


「人は死ぬ」


静かな声だった。


「ワシも死ぬ」


アリアは黙る。


エドガーは花壇を見る。


春を待つ苗を見る。


「でも花は残る」


一拍。


「誰かが見てくれる」


少し照れたように笑う。


「だから悪くない」


アリアは返事ができなかった。


その横顔が。


妙に格好良く見えた。



事故が起きたのは。


その数日後だった。


昼下がりだった。


窓から柔らかな陽射しが差し込んでいる。


利用者達は思い思いの時間を過ごしていた。


新聞を読む者。


昼寝をする者。


編み物をする者。


アリアはフロアの中央で記録をまとめていた。


ペンを走らせる。


紙をめくる。


その時だった。


カタン。


小さな音がした。


本当に小さな音だった。


アリアは顔を上げる。


フロアの向こう側。


窓際だった。


エドガーが立っている。


杖を手にしていた。


いつもと変わらない。


そう見えた。


けれど。


次の瞬間。


杖の先が滑る。


ほんの僅かだった。


床へ落ちた水滴だったのか。


足元の僅かな段差だったのか。


アリアには分からない。


ただ。


嫌な予感だけが走った。


「エドガーさん!」


声が出る。


身体が動く。


走る。


エドガーも咄嗟に体勢を立て直そうとする。


杖を掴む。


空いた手を伸ばす。


アリアも手を伸ばす。


届く。


そう思った。


届かなかった。


指先が。


ほんの少しだけ足りない。


時間が妙にゆっくり流れる。


エドガーの目が見えた。


驚いた顔だった。


次の瞬間。


ゴッ。


鈍い音が響いた。


身体が床へ叩き付けられる。


杖が遠くへ転がる。


カラカラと音を立てる。


フロアが静まり返った。


アリアの呼吸だけが乱れる。


心臓が嫌な音を立てる。


理解したくなかった。


けれど。


身体は先に理解していた。


これは。


まずい。


「エドガーさん!」


駆け寄る。


エドガーは動けない。


顔が歪んでいる。


額には脂汗。


右足が不自然な方向を向いていた。


アリアの喉が鳴る。


頭が真っ白になる。


どうする。


どうする。


どうする。


その時だった。


制服の胸元で何かが揺れる。


通信用結晶だった。


青白い光が震えている。


リナの声を思い出す。


『緊急時に使う』


アリアは結晶を握り締めた。


強く。


祈るように。


すると。


結晶の中心が眩しく輝く。


青白い光が脈打つ。


『こちら中央詰所』


声が響く。


若い男性職員の声だった。


アリアは息を呑む。


そして叫ぶ。


「転倒です!」


声が震える。


「利用者さんが転倒しました!」


周囲の利用者達もざわつき始める。


誰かが立ち上がる。


誰かが名前を呼ぶ。


誰かが泣きそうな顔をしている。


アリアは震える手でエドガーの肩へ触れた。


『場所は』


「東棟一階フロア!」


『応援を向かわせます』


その瞬間。


初めて。


アリアは自分が震えている事に気付いた。


エドガーの顔が苦痛に歪む。


花壇の話をしていた老人。


三年はやると笑っていた老人。


その姿が。


今は床に倒れている。


アリアは結晶を握り締めたまま動けなかった。



第六話


未来


中編 完

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