第六話 未来 中編
施設班の実習が始まって数日。
アリアは毎朝、中庭へ向かうのが少し楽しみになっていた。
朝露が花壇を濡らしている。
まだ咲ききらない蕾。
柔らかな土の匂い。
噴水の水音。
その中で。
今日もエドガーはしゃがみ込んでいた。
麦わら帽子。
使い込まれた革手袋。
膝には土。
移植ごてが石へ当たるたび、乾いた音が小さく響く。
カツ。
カツ。
「おはようございます!」
アリアが声を掛ける。
エドガーは振り向かない。
「朝から元気だな」
「取り柄なので!」
「他の取り柄も探せ」
「探してます!」
「見つかったら教えろ」
風が吹く。
花壇の花が揺れる。
エドガーの口元が少しだけ緩んでいた。
◇
昼食の時間だった。
食堂には湯気が立ち上っている。
焼き立てのパン。
香草の効いたスープ。
焼き魚の匂い。
利用者達の話し声。
賑やかな昼だった。
その中で。
灰色の耳を持つ獣人の老婆が端の席へ座っていた。
新しく入所してきた利用者だった。
周囲を気にしている。
何度も辺りを見回している。
けれど。
誰にも声を掛けられない。
食事にも手を付けていなかった。
アリアは少し迷った。
声を掛けるべきだろうか。
どう話せばいいだろうか。
そう考えていた時だった。
椅子が引かれる音がした。
エドガーだった。
杖を突きながら老婆の前へ立つ。
「おい」
老婆が顔を上げる。
「はい?」
「空いてるから座れ」
「え?」
「聞こえんかったか」
老婆は戸惑う。
エドガーは構わない。
「一人で飯を食うな」
「でも……」
「いいから来い」
ぶっきらぼうだった。
優しくもない。
気遣っているようにも見えない。
それでも。
老婆は席を移る。
やがて。
近くの利用者が話し掛ける。
別の利用者が昔話を始める。
誰かが笑う。
誰かが茶々を入れる。
気付けば。
老婆も笑っていた。
食後。
アリアがその話をすると。
エドガーは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「勘違いするな」
「え?」
「一人で飯を食われると」
一拍。
「こっちの飯が不味くなる」
アリアは吹き出した。
エドガーも少しだけ笑っていた。
◇
午後になると。
決まって玄関の鐘が鳴る。
カラン。
小さな音。
すると。
エドガーは時計を見る。
別に嬉しそうじゃない。
むしろ面倒そうだった。
それでも。
娘が来る時間が少し過ぎると落ち着かなくなる。
窓を見る。
廊下を見る。
また窓を見る。
そして。
玄関から娘が現れる。
「お父さん」
「来たのか」
「来るよ」
「暇人だな」
「心配なの」
「するな」
「無理」
毎回同じ会話だった。
けれど。
娘は嬉しそうだった。
エドガーも。
少しだけ嬉しそうだった。
認めないだけで。
◇
帰る時間になる。
娘が玄関へ向かう。
「また明日ね」
「勝手にしろ」
「来るからね」
「好きにしろ」
扉が閉まる。
娘の姿が見えなくなる。
それでも。
エドガーは窓際に立っていた。
石畳の道を歩く後ろ姿を。
姿が見えなくなるまで見送っていた。
アリアは何度も見た。
だから知っている。
この人は。
娘が大好きなんだ。
絶対に。
◇
ある日の午後。
アリアは花壇の手伝いをしていた。
土を運ぶ。
苗を並べる。
水を撒く。
想像以上に重労働だった。
「疲れました……」
花壇の縁へ腰を下ろす。
エドガーは鼻を鳴らした。
「情けないな」
「頑張ってるんですよ!」
「若いのに」
「若いからです!」
「意味が分からん」
風が吹く。
苗が揺れる。
エドガーはゆっくり立ち上がった。
腰を押さえながら。
花壇を見渡す。
春を待つ苗。
空いた区画。
古くなった木柵。
手入れが必要な植え込み。
まだやる事は沢山ある。
「春になったらな」
また言う。
最近よく聞く言葉だった。
「向こうも植え替える」
エドガーは花壇の奥を指差す。
「あと何年かかるか」
「何がですか?」
「全部だ」
花壇。
庭。
木柵。
噴水。
エドガーは笑う。
「見栄えが悪い」
アリアも笑う。
十分綺麗だった。
でも。
エドガーには違う景色が見えているらしい。
「まだ三年はやる」
そう言った。
迷いなく。
当然みたいに。
来年もいる。
再来年もいる。
その先もいる。
そんな顔だった。
◇
「エドガーさん」
「何だ」
「どうして花が好きなんですか?」
風が吹く。
噴水が揺れる。
花びらが一枚舞う。
エドガーはしばらく考えていた。
やがて。
ぽつりと呟く。
「残るからだ」
「残る?」
「人は死ぬ」
静かな声だった。
「ワシも死ぬ」
アリアは黙る。
エドガーは花壇を見る。
春を待つ苗を見る。
「でも花は残る」
一拍。
「誰かが見てくれる」
少し照れたように笑う。
「だから悪くない」
アリアは返事ができなかった。
その横顔が。
妙に格好良く見えた。
◇
事故が起きたのは。
その数日後だった。
昼下がりだった。
窓から柔らかな陽射しが差し込んでいる。
利用者達は思い思いの時間を過ごしていた。
新聞を読む者。
昼寝をする者。
編み物をする者。
アリアはフロアの中央で記録をまとめていた。
ペンを走らせる。
紙をめくる。
その時だった。
カタン。
小さな音がした。
本当に小さな音だった。
アリアは顔を上げる。
フロアの向こう側。
窓際だった。
エドガーが立っている。
杖を手にしていた。
いつもと変わらない。
そう見えた。
けれど。
次の瞬間。
杖の先が滑る。
ほんの僅かだった。
床へ落ちた水滴だったのか。
足元の僅かな段差だったのか。
アリアには分からない。
ただ。
嫌な予感だけが走った。
「エドガーさん!」
声が出る。
身体が動く。
走る。
エドガーも咄嗟に体勢を立て直そうとする。
杖を掴む。
空いた手を伸ばす。
アリアも手を伸ばす。
届く。
そう思った。
届かなかった。
指先が。
ほんの少しだけ足りない。
時間が妙にゆっくり流れる。
エドガーの目が見えた。
驚いた顔だった。
次の瞬間。
ゴッ。
鈍い音が響いた。
身体が床へ叩き付けられる。
杖が遠くへ転がる。
カラカラと音を立てる。
フロアが静まり返った。
アリアの呼吸だけが乱れる。
心臓が嫌な音を立てる。
理解したくなかった。
けれど。
身体は先に理解していた。
これは。
まずい。
「エドガーさん!」
駆け寄る。
エドガーは動けない。
顔が歪んでいる。
額には脂汗。
右足が不自然な方向を向いていた。
アリアの喉が鳴る。
頭が真っ白になる。
どうする。
どうする。
どうする。
その時だった。
制服の胸元で何かが揺れる。
通信用結晶だった。
青白い光が震えている。
リナの声を思い出す。
『緊急時に使う』
アリアは結晶を握り締めた。
強く。
祈るように。
すると。
結晶の中心が眩しく輝く。
青白い光が脈打つ。
『こちら中央詰所』
声が響く。
若い男性職員の声だった。
アリアは息を呑む。
そして叫ぶ。
「転倒です!」
声が震える。
「利用者さんが転倒しました!」
周囲の利用者達もざわつき始める。
誰かが立ち上がる。
誰かが名前を呼ぶ。
誰かが泣きそうな顔をしている。
アリアは震える手でエドガーの肩へ触れた。
『場所は』
「東棟一階フロア!」
『応援を向かわせます』
その瞬間。
初めて。
アリアは自分が震えている事に気付いた。
エドガーの顔が苦痛に歪む。
花壇の話をしていた老人。
三年はやると笑っていた老人。
その姿が。
今は床に倒れている。
アリアは結晶を握り締めたまま動けなかった。
第六話
未来
中編 完




