第四話 仮説
翌朝。
アリアは少し寝不足だった。
窓の外は明るい。
けれど頭の中は晴れていない。
昨日から。
ずっと同じ事がぐるぐる回っていた。
『分かってないよ』
『だから聞くんだよ』
九年前。
故郷の村で聞いた言葉。
そして昨日。
リナ・アークライトから聞いた言葉。
偶然だろうか。
いや。
でも。
そんな事を考えながら。
アリアは王都ケアギルドの扉を開いた。
◇
研修室。
アリアは部屋へ入った瞬間に足を止めた。
机の上に資料が積まれている。
一冊。
二冊。
三冊。
四冊。
まだ終わらない。
五冊。
六冊。
七冊。
アリアは固まった。
終わった。
人生が終わった。
「おはよう」
聞き慣れた声だった。
振り向く。
リナだった。
相変わらず無表情。
相変わらず隙がない。
資料の束を抱えたまま立っている。
そして。
机へ一冊置く。
ドサッ。
さらに置く。
ドサッ。
さらに置く。
ドサッ。
アリアは恐る恐る聞いた。
「リナさん」
「何」
「これ全部ですか」
「全部」
即答だった。
アリアは天井を見上げた。
本当に終わった。
◇
授業が始まる。
ケアギルドの理念。
支援計画。
記録。
連携。
報告。
観察。
分析。
仮説。
改善。
黒板の文字が増えていく。
アリアの魂は減っていく。
リナの説明は分かりやすかった。
驚くほど分かりやすい。
だから逃げられない。
理解できてしまう。
理解できるのに量が多い。
最悪だった。
アリアは必死にメモを取る。
紙の上をペンが走る。
一時間後。
まだいける。
二時間後。
少し危なかった。
三時間後。
死んだ。
知識の弾幕で撃ち殺された。
◇
昼休憩。
アリアは机へ突っ伏していた。
身体だけが研修を受けている気がする。
魂はもう帰宅していた。
リナは平然と資料を整理している。
信じられなかった。
同じ人類とは思えない。
アリアは思わず聞く。
「リナさん」
「何」
「疲れませんか」
「疲れる」
即答だった。
アリアは顔を上げる。
「疲れるんですか?」
「人間だから」
当たり前みたいに言う。
アリアは少しだけ笑った。
そして。
ふと思う。
今なら聞けるかもしれない。
「何時に起きるんですか?」
「五時」
「趣味は?」
リナの手が止まる。
「好きな食べ物は?」
沈黙。
「休日は何してるんですか?」
リナがゆっくり顔を上げる。
アリアは嫌な予感がした。
「友達はいますか?」
完全に止まった。
終わった。
リナは言う。
「質問多いね」
アリアは慌てて頭を下げた。
「すみません」
「別に」
リナは資料整理へ戻る。
それ以上は何も言わない。
アリアは少しだけ安心した。
そして少しだけ残念だった。
◇
午後。
リナは黒板の前へ立つ。
白いチョークを取る。
カツ。
静かな音が響く。
黒板へ一つの言葉が書かれた。
【アセスメント】
アリアは反射的にメモを取る。
リナが振り返る。
「意味は?」
アリアは資料を開く。
「利用者の情報収集と分析です」
「半分正解」
アリアは顔を上げる。
リナは黒板を指差した。
「じゃあ昨日のハロルドさんをアセスメントして」
教室が静かになる。
アリアは少し考えた。
ハロルド・ベイン。
軍帽。
勲章。
空の右袖。
『来なくていい』
『来ます』
『そうか』
昨日のやり取りが頭をよぎる。
「傷痍軍人なんだと思います」
リナは頷く。
「根拠は?」
「勲章と軍帽がありました」
リナはチョークを走らせる。
カツ。
【観察】
その下へ書き足す。
・勲章
・軍帽
アリアは少し安心した。
正解らしい。
「他は?」
「右腕がありませんでした」
リナはさらに書き足す。
・右腕の欠損
「それも観察」
アリアは少し胸を張った。
見れていた。
ちゃんと見れていた。
そう思った。
だが。
リナは続けた。
「じゃあ分析は?」
アリアは固まる。
「え?」
リナは黒板へ向き直る。
【分析】
そう書き足した。
教室は静かだった。
アリアだけが置いていかれる。
「軍帽がある」
「勲章がある」
「右腕がない」
リナは黒板を指差す。
「ここまでは事実」
そして。
その下へ一本の線を引いた。
「傷痍軍人なんだと思います」
さらに。
【仮説】
と書く。
アリアは黒板を見つめた。
観察。
分析。
仮説。
頭の中で繋がらない。
リナは静かに言った。
「仮説は悪くない」
アリアは少し安心する。
だが。
次の言葉が飛んできた。
「分析が足りない」
安心は一瞬で吹き飛んだ。
「分析……ですか?」
アリアは黒板を見る。
【観察】
【分析】
【仮説】
白い文字が並んでいた。
さっきまで分かった気でいた。
今は何も分からない。
リナは頷く。
「あなたはよく見てる」
意外だった。
褒められた気がした。
だが。
「答えを急ぎすぎる」
アリアは黙る。
リナは黒板を指差した。
「何時に起きる人?」
知らない。
「朝食は?」
知らない。
「好きな事は?」
知らない。
「嫌いな事は?」
知らない。
「最近困っている事は?」
知らない。
「何を大切にしている人?」
知らない。
アリアは俯いた。
何も知らなかった。
昨日の事を思い出す。
勲章。
軍帽。
右腕。
そこばかり見ていた。
ハロルド本人を見ていたつもりだった。
でも違った。
リナは黒板の【観察】を軽く叩く。
「ここまでは出来てる」
そして。
【分析】
を指差した。
「でも飛ばしてる」
アリアは顔を上げる。
「飛ばしてる?」
「うん」
リナは頷く。
「観察した事実から」
「すぐ答えを作ってる」
教室は静かだった。
チョークの粉が黒板の縁に残っている。
リナは続ける。
「軍帽がある」
「勲章がある」
「右腕がない」
「だから傷痍軍人」
一拍。
「それはあり得る」
アリアは少し安心する。
だが。
「でも」
リナは続けた。
「本当にそう?」
アリアは言葉を失う。
リナは黒板へ向き直る。
カツ。
チョークが動く。
【他の可能性】
その文字が並ぶ。
「軍帽は本人の物?」
アリアは固まる。
考えた事もなかった。
「家族の物かもしれない」
リナは続ける。
「勲章は?」
アリアは答えられない。
「譲られた物かもしれない」
「預かってる物かもしれない」
「飾ってる理由も分からない」
アリアは黒板を見る。
さっきまで当たり前だと思っていた事が揺らいでいく。
リナは最後に言った。
「右腕は?」
沈黙。
「戦争かもしれない」
「事故かもしれない」
「病気かもしれない」
アリアは息を飲む。
確かに。
全部あり得る。
なのに。
自分は一つしか考えていなかった。
リナは静かに言った。
「分析っていうのは」
一拍。
「可能性を狭める作業」
教室が静まり返る。
アリアは黒板を見る。
観察。
分析。
仮説。
少しだけ繋がった気がした。
だが。
まだ足りない。
リナはチョークを置く。
そして。
アリアを見る。
「アセスメントの答えは?」
アリアは首を傾げる。
リナは少しだけ考える。
そして。
静かに言った。
「その人を見る事」
アリアは小さく復唱する。
「その人を見る事……」
リナは頷いた。
「そう」
一拍。
「今の姿だけじゃない」
教室へ静かな声が響く。
「その人が歩いてきた時間」
「その人が大切にしている物」
「その人が失った物」
「その人が守ってきた物」
リナは黒板のハロルドの名前を見る。
「全部含めて」
そして。
アリアを見る。
「その人を見る事」
アリアは言葉を失った。
昨日の自分を思い出す。
右腕を見ていた。
軍帽を見ていた。
勲章を見ていた。
でも。
ハロルドを見ていただろうか。
リナは続ける。
「あなたの知りたいって気持ちは大切」
アリアは顔を上げる。
リナは【分析】を軽く叩いた。
「でも」
「それに分析が追いついてない」
静かな声だった。
責めてはいない。
だから余計に刺さる。
「あなたは見たものを」
「自分の中だけで繋げてしまう」
「他の可能性を見てない」
アリアは息を飲む。
古竜。
試験。
ハロルド。
全部が頭の中で繋がった。
知りたい。
だから見る。
だから考える。
でも。
見たものを。
すぐ自分の答えにしてしまう。
それは理解じゃない。
ただの思い込みかもしれない。
教室は静かだった。
誰も話さない。
けれど。
アリアの頭の中だけが騒がしかった。
授業は続いた。
だが。
アリアの頭の中にはもう別の事が浮かんでいた。
観察。
分析。
仮説。
今日一日聞き続けた言葉。
黒板に並んだ文字。
ハロルド。
リナ。
そして。
九年前の村。
『分かってないよ』
『だから聞くんだよ』
あの言葉だけが何度も浮かぶ。
リナの声が聞こえる。
「聞いてる?」
アリアは飛び上がった。
「聞いてます!」
教室の何人かがこちらを見る。
リナは表情を変えない。
「今何の話してた?」
終わった。
アリアは必死に記憶を探る。
だが。
頭の中はリナでいっぱいだった。
「えっと……」
沈黙。
教室も静かだった。
誰も助けてくれない。
当たり前だった。
リナは小さく息を吐く。
「正直」
「はい」
「分からないなら分からないでいい」
アリアは少し驚く。
リナは黒板へ向き直る。
そして。
【分からない】
そう書き足した。
「分からないのに」
チョークが止まる。
「分かったふりをする方が危ない」
教室が静まり返る。
アリアは黒板を見る。
観察。
分析。
仮説。
そして。
分からない。
その言葉だけが妙に印象に残った。
◇
やがて。
長かった研修も終わりを迎えた。
夕陽が窓から差し込んでいる。
資料を閉じる音。
椅子を引く音。
受講者達が帰り支度を始める。
リナは最後の資料をまとめていた。
「最後に質問ある?」
教室は静かだった。
誰も手を挙げない。
アリアの手だけが上がる。
リナは頷いた。
「はい」
アリアは少し迷う。
本当は。
アセスメントについてもっと聞きたい。
記録も。
支援計画も。
連携も。
全部気になる。
でも。
今日ずっと考えていた事がある。
アリアはゆっくり口を開いた。
「リナさん」
「何」
深呼吸。
観察。
分析。
仮説。
今日学んだばかりだった。
だから。
決めつけない。
でも。
聞く。
「私の村に来た事ありますか?」
静寂。
教室の空気が止まる。
資料をまとめていた手が止まる。
紙を揃える指先が。
ほんの少しだけ遅れた。
初めて見た。
リナ・アークライトの動揺だった。
アリアの鼓動が速くなる。
観察。
分析。
仮説。
頭の中で繋がる。
九年前。
故郷の村。
女性職員。
言葉。
年齢。
考え方。
偶然かもしれない。
違うかもしれない。
でも。
もし。
本当に。
そうだったら。
リナはしばらく黙っていた。
窓の外から夕暮れの光が差し込む。
教室には誰もいない。
残っているのは二人だけだった。
やがて。
リナが顔を上げる。
「どうしてそう思ったの?」
アリアは息を飲む。
否定されなかった。
肯定もされなかった。
返ってきたのは質問だった。
授業と同じだった。
答えではなく。
根拠を問う。
リナは腕を組む。
そして。
静かに言った。
「聞かせて」
その声は。
いつもの指導員の声だった。
「あなたが、どう考えたのか」
アリアの胸が高鳴る。
観察。
分析。
仮説。
今日学んだばかりの事。
今度は自分が答える番だった。
窓の外では。
夕陽がゆっくりと王都を赤く染めていた。
第四話
仮説 完




