第三話 晴れの日
翌朝。
アリア・エイルは日の出より早く目を覚ました。
窓の外は曇り空だった。
厚い雲が空を覆っている。
今にも雨が降り出しそうな重たい色だった。
けれど。
そんな事はどうでもよかった。
今日から王都ケアギルドの見習い。
夢だった場所で。
初めて現場へ出る。
そう思うだけで胸が高鳴った。
身支度を整える。
鞄の中を確認する。
筆記具。
記録用紙。
そして。
昨日受け取った契約書の控え。
何度も見返した紙だった。
そこには確かに自分の名前がある。
アリア・エイル。
昨日までは受験生だった。
今日からは違う。
王都ケアギルド見習い。
そう思うと自然と足が速くなった。
◇
王都ケアギルド本部。
最上階。
ギルド長室。
朝一番で呼び出されたアリアは少し緊張しながら扉を叩いた。
コンコン。
「入れ」
聞き慣れた低い声。
アリアは扉を開く。
相変わらずだった。
机の上には書類の山。
壁際の本棚にも紙束が積まれている。
その奥。
老人が一人。
右手を顎へ添えながら書類を読んでいた。
アリアは勢いよく頭を下げる。
「おはようございます!」
「うむ」
短い。
今日も短い。
ギルド長は書類を閉じた。
乾いた音が部屋に響く。
そしてようやく顔を上げた。
「今日から実習だ」
「はい!」
アリアの背筋が伸びる。
ギルド長は淡々と言った。
「死ぬなよ」
アリアは固まった。
「え?」
ギルド長の表情は変わらない。
「身体じゃない」
一拍。
「心の話だ」
アリアは返事に困った。
どういう意味ですか。
そう聞きたかった。
けれど。
ギルド長はもう説明する気がないらしい。
机の上から一枚の紙を取り上げる。
そして。
アリアへ差し出した。
「担当指導員だ」
アリアは紙を見る。
そこには一つの名前。
リナ・アークライト。
アリアは小さく読み上げた。
「リナ・アークライトさん……」
ギルド長は何も言わない。
再び右手を顎へ添える。
もう書類へ視線が戻っていた。
話は終わりらしい。
アリアは慌てて頭を下げる。
「行ってきます!」
「うむ」
やはり短かった。
◇
一階受付。
指定された場所には一人の女性が立っていた。
黒髪。
整った姿勢。
無駄のない服装。
手には数枚の書類。
朝の受付には多くの職員が行き交っている。
それなのに。
その人だけ妙に静かに見えた。
アリアは思わず足を止める。
女性は書類から顔を上げた。
視線が合う。
黒曜石みたいな瞳だった。
「アリア・エイルさん?」
「はい!」
反射的に背筋が伸びる。
女性は小さく頷いた。
「リナ・アークライトです」
それだけだった。
沈黙。
終わった。
挨拶が終わった。
アリアは焦る。
「あ、あの」
リナが見る。
「よろしくお願いします!」
リナは小さく頷いた。
「うん」
終わった。
本当に終わった。
アリアは思った。
怖い。
◇
王都ケアギルド本部を出る。
最初の訪問先へ向かう道中。
二人は並んで歩いていた。
石畳の道。
朝の市場。
パンの焼ける香り。
行き交う人々。
けれど。
二人の間だけ妙に静かだった。
リナは必要な事以外ほとんど話さない。
歩幅も一定。
視線も真っ直ぐ。
隣を歩いているのに。
どこか距離がある。
アリアはしばらく我慢した。
けれど。
沈黙に負けた。
「そういえば」
リナが視線だけ向ける。
「ケアギルドって、みんな訪問するんですか?」
リナは少し考えた。
「いや」
短い。
だが説明は続いた。
「ケアギルドは大きく三つに分かれてる」
「三つ」
「訪問班。施設班。地域支援班」
アリアは慌てて頷く。
「私は訪問班なんですね」
「見習いだから」
リナは前を向いたまま答える。
「まずは利用者と一対一で向き合うところから」
一対一。
その言葉にアリアは少し緊張した。
だが。
気になる事はもっとあった。
「施設班は何をするんですか?」
「長期支援」
「地域支援班は?」
「もっと地獄」
「え」
初めて少しだけ面白い返事が返ってきた。
アリアは目を瞬く。
リナは真顔だった。
冗談なのか本気なのか分からない。
だから余計に怖い。
◇
最初の訪問先は王都の住宅街にある小さな家だった。
白い壁。
古い木の扉。
庭には手入れされた花壇。
そして。
扉の横には一本の杖。
長く使い込まれた跡があった。
窓辺には軍帽が置かれている。
色褪せている。
けれど埃は一つもない。
壁には勲章が飾られていた。
どれも丁寧に磨かれている。
アリアは思わず足を止めた。
この家には。
長い時間が積み重なっている。
そんな気がした。
リナは扉を叩く。
「ハロルドさん。リナです」
しばらくして。
扉が開いた。
しばらくして。
扉が開いた。
現れたのは年老いた男性だった。
背筋は少し曲がっている。
けれど。
その目には妙な鋭さがあった。
左手には杖。
そして。
右袖は肩の下から空だった。
袖だけが風に揺れている。
アリアは一瞬だけ、その袖を見てしまった。
すぐに目を逸らす。
だが。
見てしまった事実は消えない。
男性はそれに気付いたのか。
気付かなかったのか。
リナを見る。
「リナか」
「はい。おはようございます、ハロルドさん」
「今日は早いな」
「時間通りです」
「そうか」
ハロルド・ベイン。
それが、この家に暮らす利用者の名前だった。
リナは一歩横へずれる。
「今日は見習いを連れてきました」
アリアは慌てて頭を下げる。
「アリア・エイルです!よろしくお願いします!」
「同席させても良いですか?」
ハロルドはアリアを見る。
ゆっくり。
頭の先から足元まで。
値踏みするようにではない。
観察するように。
アリアは少しだけ背筋を伸ばした。
リナは続ける。
「嫌でしたら遠慮なく言ってください」
ハロルドは少し考える。
そして鼻を鳴らした。
「見習いか」
「はい!」
「初日だな」
アリアは目を見開く。
「分かるんですか?」
ハロルドは鼻で笑う。
「顔に書いてある」
アリアは思わず自分の頬を触る。
ハロルドの口元が少しだけ緩んだ。
「まあいい」
そう言って扉を開く。
「入れ」
◇
部屋の中は整っていた。
古い家具。
磨かれた床。
壁に並ぶ勲章。
窓辺の軍帽。
どれも古い。
けれど。
驚くほど手入れされている。
アリアは見ないようにしているつもりだった。
けれど見てしまう。
勲章。
軍帽。
空の右袖。
気になる。
どうして腕を失ったんだろう。
どんな人だったんだろう。
戦争に行ったのだろうか。
何があったのだろう。
聞いていいのだろうか。
聞いてはいけないのだろうか。
考えれば考えるほど。
視線の置き場が分からなくなる。
リナはいつも通りだった。
「体調はどうですか、ハロルドさん」
「悪くない」
「薬は飲めていますか」
「飲んだ」
「残りを確認します」
「勝手にしろ」
「確認します」
「……好きにしろ」
淡々としている。
だが。
どこか呼吸が合っていた。
長く続けている相手同士の空気だった。
リナは薬を確認する。
部屋を見る。
記録を書く。
無駄がない。
そして。
アリアへ視線を向けた。
「少し話してて」
急だった。
アリアの心臓が跳ねる。
「は、はい」
リナはもう記録へ視線を戻している。
必要なら介入できる距離。
けれど。
今は任せるつもりらしい。
アリアはハロルドの前へ座った。
沈黙。
ハロルドがアリアを見る。
アリアもハロルドを見る。
沈黙。
先に口を開いたのはハロルドだった。
「で」
低い声。
「何を話す?」
アリアは固まる。
何を話せばいい。
昨日の試験が頭をよぎる。
前に上手くいった事が。
次も上手くいくとは限らない。
心は、それぞれ違う。
分かっている。
分かっているはずだった。
だから余計に怖い。
「今日は……」
アリアは窓の外を見る。
曇り空だった。
違う。
天気じゃない。
慌てて言い直す。
「朝ごはんは食べましたか?」
「食べた」
「そ、そうですか」
沈黙。
「お元気ですか?」
「見て分からんか?」
「えっと……」
「元気だからここに座っとる」
沈黙。
地獄だった。
死んだ。
一回目だった。
ハロルドはしばらくアリアを見ていた。
やがて小さく息を吐く。
「見習い」
「は、はい」
「緊張しすぎだ」
「すみません」
「別に謝らんでいい」
ハロルドは椅子へ深く腰掛ける。
椅子が小さく軋む。
少しだけ沈黙が流れる。
そして。
アリアの視線が何度目かに右袖へ向いた時だった。
「気になるか」
アリアの肩が跳ねた。
「え」
「腕だ」
見透かされていた。
アリアは慌てる。
「す、すみません!」
ハロルドは首を横に振った。
怒っている様子はない。
「別にいい」
そう言って。
自分の空いた右袖を見る。
まるで昔からそこにあったものを見るように。
「こっちは慣れた」
一拍。
そして。
ハロルドはアリアを見た。
「お前が慣れろ」
アリアは返事ができなかった。
怒られたわけじゃない。
責められたわけでもない。
けれど。
胸の奥に何かが引っ掛かった。
ハロルドはそれ以上説明しない。
どうして腕を失ったのか。
戦争だったのか。
事故だったのか。
何も語らない。
沈黙。
ハロルドは窓の外を見る。
アリアも窓の外を見る。
沈黙。
死んだ。
二回目だった。
訪問が終わる頃には。
アリアの心はすっかり擦り減っていた。
帰り際。
リナは記録用紙を鞄へしまう。
ハロルドは玄関まで見送ってくれた。
「また来ます」
リナが言う。
「来なくていい」
「来ます」
「そうか」
いつものやり取りなのだろう。
ハロルドは少しだけ笑った。
そして。
アリアを見る。
「見習い」
「はい!」
「次はもう少し喋れ」
アリアは一瞬きょとんとした。
叱られると思っていた。
呆れられると思っていた。
けれど。
返ってきたのは違う言葉だった。
ハロルドはそれ以上何も言わない。
小さく手を振る。
「じゃあな」
扉が閉まる。
静かな玄関先。
アリアはしばらく立ち尽くしていた。
リナは何も言わない。
ただ歩き出す。
アリアは慌てて後を追った。
◇
ハロルドの家を出た後も実習は続いた。
午後の訪問先。
その次の訪問先。
さらにその次。
アリアは何度も利用者の前に座った。
そして。
何度も固まった。
何を聞けばいいのか分からない。
何を話せばいいのか分からない。
「どうしたの?」
その一言が。
なぜか出てこなかった。
代わりに出てくるのは。
当たり障りのない言葉ばかりだった。
「今日は寒いですね」
「ご飯は食べましたか」
「よく眠れましたか」
会話は続かない。
沈黙。
焦る。
また質問する。
さらに沈黙。
焦る。
また質問する。
地獄だった。
死んだ。
三回目だった。
◇
夕方。
空はすっかり暗くなっていた。
朝から重たかった雲は。
とうとう雨を落とし始める。
石畳を濡らす雨。
街灯の灯りが水溜まりへ揺れていた。
帰り道。
アリアとリナは並んで歩く。
傘を叩く雨音だけが聞こえる。
しばらく。
どちらも話さなかった。
やがて。
アリアが口を開く。
「私」
声は雨音に負けそうだった。
「向いてないんでしょうか」
リナは前を向いたまま歩いている。
アリアは続けた。
「古竜の時は話せたんです」
「試験では失敗しました」
「今日はもっと酷かったです」
雨音。
足音。
沈黙。
アリアは俯く。
「何を聞けばいいのか」
「何を考えているのか」
「何が正しいのか」
「分からないんです」
雨が傘を叩く。
リナはしばらく何も言わなかった。
そして。
「そりゃそうでしょ」
アリアは顔を上げる。
リナは前を向いたまま歩いている。
「私も分からないし」
アリアは足を止めそうになった。
「え?」
完璧だと思っていた。
利用者とも自然に話せる。
何でも分かっている人だと思っていた。
その人が今。
分からないと言った。
リナは少しだけ首を傾げる。
「分かるわけないでしょ」
当たり前みたいに言う。
「人の頭の中なんて見えないし」
アリアは何も言えなかった。
リナは続ける。
「ハロルドさんだって」
「他の利用者だって」
「何を考えてるかなんて分からない」
一拍。
そして。
「だから聞く」
アリアの呼吸が止まる。
雨音が遠くなる。
石畳も。
街灯も。
王都の喧騒も。
全部。
遠くなる。
「分かってないよ」
リナは気付かない。
そのまま続ける。
「だから聞くんだよ」
その瞬間だった。
記憶が開く。
夕焼けだった。
故郷の村。
帰りたいと言う老婆。
縁側。
優しい風。
そして。
少し困ったように笑う女性。
『どうして分かったんですか?』
幼い自分が尋ねる。
女性は笑う。
『分かってないよ』
そして。
『だから聞くんだよ』
◇
現在。
雨の帰り道。
アリアは立ち止まる。
リナが振り返る。
雨粒が傘の縁から落ちる。
「アリア?」
アリアはその横顔を見る。
黒髪。
落ち着いた声。
昔より大人になっている。
当たり前だ。
九年も経っている。
でも。
胸が騒ぐ。
あの時の女性。
目の前の指導員。
重なる。
けれど。
まだ確信は持てない。
思わず言葉が漏れた。
「あの時の……」
リナが聞き返す。
「ん?」
アリアは慌てて首を振った。
「い、いえ!」
リナは少し不思議そうな顔をした。
けれど。
それ以上は聞かなかった。
再び歩き出す。
アリアも後を追う。
雨は降り続いている。
今日一日。
何もできなかった。
利用者とも上手く話せなかった。
知ろうとして。
分かろうとして。
でも分からなかった。
心は少し痛かった。
それでも。
不思議と前を向けていた。
分からない事は恥じゃない。
分からないから聞く。
その当たり前の事を。
今日。
ようやく思い出せた気がした。
アリアは空を見上げる。
灰色の空。
降り続く雨。
それでも。
少しだけ笑った。
今日は。
晴れの日だった。
第3話
晴れの日 完




