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第三話 晴れの日

翌朝。


アリア・エイルは日の出より早く目を覚ました。


窓の外は曇り空だった。


厚い雲が空を覆っている。


今にも雨が降り出しそうな重たい色だった。


けれど。


そんな事はどうでもよかった。


今日から王都ケアギルドの見習い。


夢だった場所で。


初めて現場へ出る。


そう思うだけで胸が高鳴った。


身支度を整える。


鞄の中を確認する。


筆記具。


記録用紙。


そして。


昨日受け取った契約書の控え。


何度も見返した紙だった。


そこには確かに自分の名前がある。


アリア・エイル。


昨日までは受験生だった。


今日からは違う。


王都ケアギルド見習い。


そう思うと自然と足が速くなった。



王都ケアギルド本部。


最上階。


ギルド長室。


朝一番で呼び出されたアリアは少し緊張しながら扉を叩いた。


コンコン。


「入れ」


聞き慣れた低い声。


アリアは扉を開く。


相変わらずだった。


机の上には書類の山。


壁際の本棚にも紙束が積まれている。


その奥。


老人が一人。


右手を顎へ添えながら書類を読んでいた。


アリアは勢いよく頭を下げる。


「おはようございます!」


「うむ」


短い。


今日も短い。


ギルド長は書類を閉じた。


乾いた音が部屋に響く。


そしてようやく顔を上げた。


「今日から実習だ」


「はい!」


アリアの背筋が伸びる。


ギルド長は淡々と言った。


「死ぬなよ」


アリアは固まった。


「え?」


ギルド長の表情は変わらない。


「身体じゃない」


一拍。


「心の話だ」


アリアは返事に困った。


どういう意味ですか。


そう聞きたかった。


けれど。


ギルド長はもう説明する気がないらしい。


机の上から一枚の紙を取り上げる。


そして。


アリアへ差し出した。


「担当指導員だ」


アリアは紙を見る。


そこには一つの名前。


リナ・アークライト。


アリアは小さく読み上げた。


「リナ・アークライトさん……」


ギルド長は何も言わない。


再び右手を顎へ添える。


もう書類へ視線が戻っていた。


話は終わりらしい。


アリアは慌てて頭を下げる。


「行ってきます!」


「うむ」


やはり短かった。



一階受付。


指定された場所には一人の女性が立っていた。


黒髪。


整った姿勢。


無駄のない服装。


手には数枚の書類。


朝の受付には多くの職員が行き交っている。


それなのに。


その人だけ妙に静かに見えた。


アリアは思わず足を止める。


女性は書類から顔を上げた。


視線が合う。


黒曜石みたいな瞳だった。


「アリア・エイルさん?」


「はい!」


反射的に背筋が伸びる。


女性は小さく頷いた。


「リナ・アークライトです」


それだけだった。


沈黙。


終わった。


挨拶が終わった。


アリアは焦る。


「あ、あの」


リナが見る。


「よろしくお願いします!」


リナは小さく頷いた。


「うん」


終わった。


本当に終わった。


アリアは思った。


怖い。



王都ケアギルド本部を出る。


最初の訪問先へ向かう道中。


二人は並んで歩いていた。


石畳の道。


朝の市場。


パンの焼ける香り。


行き交う人々。


けれど。


二人の間だけ妙に静かだった。


リナは必要な事以外ほとんど話さない。


歩幅も一定。


視線も真っ直ぐ。


隣を歩いているのに。


どこか距離がある。


アリアはしばらく我慢した。


けれど。


沈黙に負けた。


「そういえば」


リナが視線だけ向ける。


「ケアギルドって、みんな訪問するんですか?」


リナは少し考えた。


「いや」


短い。


だが説明は続いた。


「ケアギルドは大きく三つに分かれてる」


「三つ」


「訪問班。施設班。地域支援班」


アリアは慌てて頷く。


「私は訪問班なんですね」


「見習いだから」


リナは前を向いたまま答える。


「まずは利用者と一対一で向き合うところから」


一対一。


その言葉にアリアは少し緊張した。


だが。


気になる事はもっとあった。


「施設班は何をするんですか?」


「長期支援」


「地域支援班は?」


「もっと地獄」


「え」


初めて少しだけ面白い返事が返ってきた。


アリアは目を瞬く。


リナは真顔だった。


冗談なのか本気なのか分からない。


だから余計に怖い。



最初の訪問先は王都の住宅街にある小さな家だった。


白い壁。


古い木の扉。


庭には手入れされた花壇。


そして。


扉の横には一本の杖。


長く使い込まれた跡があった。


窓辺には軍帽が置かれている。


色褪せている。


けれど埃は一つもない。


壁には勲章が飾られていた。


どれも丁寧に磨かれている。


アリアは思わず足を止めた。


この家には。


長い時間が積み重なっている。


そんな気がした。


リナは扉を叩く。


「ハロルドさん。リナです」


しばらくして。


扉が開いた。


しばらくして。


扉が開いた。


現れたのは年老いた男性だった。


背筋は少し曲がっている。


けれど。


その目には妙な鋭さがあった。


左手には杖。


そして。


右袖は肩の下から空だった。


袖だけが風に揺れている。


アリアは一瞬だけ、その袖を見てしまった。


すぐに目を逸らす。


だが。


見てしまった事実は消えない。


男性はそれに気付いたのか。


気付かなかったのか。


リナを見る。


「リナか」


「はい。おはようございます、ハロルドさん」


「今日は早いな」


「時間通りです」


「そうか」


ハロルド・ベイン。


それが、この家に暮らす利用者の名前だった。


リナは一歩横へずれる。


「今日は見習いを連れてきました」


アリアは慌てて頭を下げる。


「アリア・エイルです!よろしくお願いします!」


「同席させても良いですか?」


ハロルドはアリアを見る。


ゆっくり。


頭の先から足元まで。


値踏みするようにではない。


観察するように。


アリアは少しだけ背筋を伸ばした。


リナは続ける。


「嫌でしたら遠慮なく言ってください」


ハロルドは少し考える。


そして鼻を鳴らした。


「見習いか」


「はい!」


「初日だな」


アリアは目を見開く。


「分かるんですか?」


ハロルドは鼻で笑う。


「顔に書いてある」


アリアは思わず自分の頬を触る。


ハロルドの口元が少しだけ緩んだ。


「まあいい」


そう言って扉を開く。


「入れ」



部屋の中は整っていた。


古い家具。


磨かれた床。


壁に並ぶ勲章。


窓辺の軍帽。


どれも古い。


けれど。


驚くほど手入れされている。


アリアは見ないようにしているつもりだった。


けれど見てしまう。


勲章。


軍帽。


空の右袖。


気になる。


どうして腕を失ったんだろう。


どんな人だったんだろう。


戦争に行ったのだろうか。


何があったのだろう。


聞いていいのだろうか。


聞いてはいけないのだろうか。


考えれば考えるほど。


視線の置き場が分からなくなる。


リナはいつも通りだった。


「体調はどうですか、ハロルドさん」


「悪くない」


「薬は飲めていますか」


「飲んだ」


「残りを確認します」


「勝手にしろ」


「確認します」


「……好きにしろ」


淡々としている。


だが。


どこか呼吸が合っていた。


長く続けている相手同士の空気だった。


リナは薬を確認する。


部屋を見る。


記録を書く。


無駄がない。


そして。


アリアへ視線を向けた。


「少し話してて」


急だった。


アリアの心臓が跳ねる。


「は、はい」


リナはもう記録へ視線を戻している。


必要なら介入できる距離。


けれど。


今は任せるつもりらしい。


アリアはハロルドの前へ座った。


沈黙。


ハロルドがアリアを見る。


アリアもハロルドを見る。


沈黙。


先に口を開いたのはハロルドだった。


「で」


低い声。


「何を話す?」


アリアは固まる。


何を話せばいい。


昨日の試験が頭をよぎる。


前に上手くいった事が。


次も上手くいくとは限らない。


心は、それぞれ違う。


分かっている。


分かっているはずだった。


だから余計に怖い。


「今日は……」


アリアは窓の外を見る。


曇り空だった。


違う。


天気じゃない。


慌てて言い直す。


「朝ごはんは食べましたか?」


「食べた」


「そ、そうですか」


沈黙。


「お元気ですか?」


「見て分からんか?」


「えっと……」


「元気だからここに座っとる」


沈黙。


地獄だった。


死んだ。


一回目だった。


ハロルドはしばらくアリアを見ていた。


やがて小さく息を吐く。


「見習い」


「は、はい」


「緊張しすぎだ」


「すみません」


「別に謝らんでいい」


ハロルドは椅子へ深く腰掛ける。


椅子が小さく軋む。


少しだけ沈黙が流れる。


そして。


アリアの視線が何度目かに右袖へ向いた時だった。


「気になるか」


アリアの肩が跳ねた。


「え」


「腕だ」


見透かされていた。


アリアは慌てる。


「す、すみません!」


ハロルドは首を横に振った。


怒っている様子はない。


「別にいい」


そう言って。


自分の空いた右袖を見る。


まるで昔からそこにあったものを見るように。


「こっちは慣れた」


一拍。


そして。


ハロルドはアリアを見た。


「お前が慣れろ」


アリアは返事ができなかった。


怒られたわけじゃない。


責められたわけでもない。


けれど。


胸の奥に何かが引っ掛かった。


ハロルドはそれ以上説明しない。


どうして腕を失ったのか。


戦争だったのか。


事故だったのか。


何も語らない。


沈黙。


ハロルドは窓の外を見る。


アリアも窓の外を見る。


沈黙。


死んだ。


二回目だった。


訪問が終わる頃には。


アリアの心はすっかり擦り減っていた。


帰り際。


リナは記録用紙を鞄へしまう。


ハロルドは玄関まで見送ってくれた。


「また来ます」


リナが言う。


「来なくていい」


「来ます」


「そうか」


いつものやり取りなのだろう。


ハロルドは少しだけ笑った。


そして。


アリアを見る。


「見習い」


「はい!」


「次はもう少し喋れ」


アリアは一瞬きょとんとした。


叱られると思っていた。


呆れられると思っていた。


けれど。


返ってきたのは違う言葉だった。


ハロルドはそれ以上何も言わない。


小さく手を振る。


「じゃあな」


扉が閉まる。


静かな玄関先。


アリアはしばらく立ち尽くしていた。


リナは何も言わない。


ただ歩き出す。


アリアは慌てて後を追った。



ハロルドの家を出た後も実習は続いた。


午後の訪問先。


その次の訪問先。


さらにその次。


アリアは何度も利用者の前に座った。


そして。


何度も固まった。


何を聞けばいいのか分からない。


何を話せばいいのか分からない。


「どうしたの?」


その一言が。


なぜか出てこなかった。


代わりに出てくるのは。


当たり障りのない言葉ばかりだった。


「今日は寒いですね」


「ご飯は食べましたか」


「よく眠れましたか」


会話は続かない。


沈黙。


焦る。


また質問する。


さらに沈黙。


焦る。


また質問する。


地獄だった。


死んだ。


三回目だった。



夕方。


空はすっかり暗くなっていた。


朝から重たかった雲は。


とうとう雨を落とし始める。


石畳を濡らす雨。


街灯の灯りが水溜まりへ揺れていた。


帰り道。


アリアとリナは並んで歩く。


傘を叩く雨音だけが聞こえる。


しばらく。


どちらも話さなかった。


やがて。


アリアが口を開く。


「私」


声は雨音に負けそうだった。


「向いてないんでしょうか」


リナは前を向いたまま歩いている。


アリアは続けた。


「古竜の時は話せたんです」


「試験では失敗しました」


「今日はもっと酷かったです」


雨音。


足音。


沈黙。


アリアは俯く。


「何を聞けばいいのか」


「何を考えているのか」


「何が正しいのか」


「分からないんです」


雨が傘を叩く。


リナはしばらく何も言わなかった。


そして。


「そりゃそうでしょ」


アリアは顔を上げる。


リナは前を向いたまま歩いている。


「私も分からないし」


アリアは足を止めそうになった。


「え?」


完璧だと思っていた。


利用者とも自然に話せる。


何でも分かっている人だと思っていた。


その人が今。


分からないと言った。


リナは少しだけ首を傾げる。


「分かるわけないでしょ」


当たり前みたいに言う。


「人の頭の中なんて見えないし」


アリアは何も言えなかった。


リナは続ける。


「ハロルドさんだって」


「他の利用者だって」


「何を考えてるかなんて分からない」


一拍。


そして。


「だから聞く」


アリアの呼吸が止まる。


雨音が遠くなる。


石畳も。


街灯も。


王都の喧騒も。


全部。


遠くなる。


「分かってないよ」


リナは気付かない。


そのまま続ける。


「だから聞くんだよ」


その瞬間だった。


記憶が開く。


夕焼けだった。


故郷の村。


帰りたいと言う老婆。


縁側。


優しい風。


そして。


少し困ったように笑う女性。


『どうして分かったんですか?』


幼い自分が尋ねる。


女性は笑う。


『分かってないよ』


そして。


『だから聞くんだよ』



現在。


雨の帰り道。


アリアは立ち止まる。


リナが振り返る。


雨粒が傘の縁から落ちる。


「アリア?」


アリアはその横顔を見る。


黒髪。


落ち着いた声。


昔より大人になっている。


当たり前だ。


九年も経っている。


でも。


胸が騒ぐ。


あの時の女性。


目の前の指導員。


重なる。


けれど。


まだ確信は持てない。


思わず言葉が漏れた。


「あの時の……」


リナが聞き返す。


「ん?」


アリアは慌てて首を振った。


「い、いえ!」


リナは少し不思議そうな顔をした。


けれど。


それ以上は聞かなかった。


再び歩き出す。


アリアも後を追う。


雨は降り続いている。


今日一日。


何もできなかった。


利用者とも上手く話せなかった。


知ろうとして。


分かろうとして。


でも分からなかった。


心は少し痛かった。


それでも。


不思議と前を向けていた。


分からない事は恥じゃない。


分からないから聞く。


その当たり前の事を。


今日。


ようやく思い出せた気がした。


アリアは空を見上げる。


灰色の空。


降り続く雨。


それでも。


少しだけ笑った。


今日は。


晴れの日だった。


第3話


晴れの日 完

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