第二話 不合格の天才
古竜事件から数日。
王都は、まだその話題で持ちきりだった。
市場でも。
酒場でも。
広場でも。
人々は同じ話をしている。
「聞いたか?」
「古竜を鎮めた少女の話だろ?」
「騎士団でも手が出なかった相手らしいぞ」
「天才だな」
「いや、英雄だろう」
焼き立てのパンを並べる店主も。
樽を運ぶ商人も。
噴水の周りで遊ぶ子供達も。
皆が同じ話をしていた。
少女は人混みの中で、小さく肩をすくめる。
「違うんだけどなぁ……」
誰にも聞こえない声だった。
自分は古竜を倒していない。
救ったとも思っていない。
ただ。
話を聞こうとしただけだ。
けれど噂は人の口を渡るたびに姿を変える。
気付けば少女は。
王都を救った英雄になっていた。
少女は困ったように笑う。
そして王都の大通りを歩いていく。
石畳の道。
行き交う馬車。
空へ伸びる時計塔。
その先に見える大きな建物。
王都ケアギルド本部。
今日は入団試験の日だった。
◇
王都ケアギルド。
王国でも少し変わった組織だった。
騎士団のように魔物と戦うわけではない。
魔術師団のように研究をするわけでもない。
商業ギルドのように利益を追うわけでもない。
人を支える。
それが仕事だった。
病を抱える者。
老いた者。
心を病んだ者。
記憶を失った者。
居場所を失った者。
そうした人々の暮らしを支える専門職。
それがケアギルドだった。
少女がその存在を知ったのは幼い頃だった。
故郷の小さな村。
夕暮れになると同じ話を繰り返す老人がいた。
家にいるのに帰りたいと言う老婆がいた。
亡くなった息子を待ち続ける人がいた。
周囲の大人達は言った。
「また始まった」
「仕方ない」
「年だからな」
けれど少女には分からなかった。
何が見えているんだろう。
何を感じているんだろう。
ある日。
村へ一人の女性がやって来た。
ケアギルドの職員だった。
彼女は誰も否定しなかった。
叱りもしなかった。
ただ。
隣に座って話を聞いていた。
それだけだった。
本当に。
それだけだった。
それなのに。
怒っていた老人は穏やかになった。
帰りたいと言っていた老婆は笑った。
幼い少女には。
それが魔法のように見えた。
帰り道。
少女は女性へ尋ねた。
「どうして分かったんですか?」
女性は少し困ったように笑う。
その笑顔が妙に印象に残った。
「分かってないよ」
少女は首を傾げる。
女性は続けた。
「だから聞くんだよ」
その言葉は。
ずっと心に残った。
だから少女はここへ来た。
人を理解したかった。
あの日の女性のようになりたかった。
◇
ケアギルド本部の大扉をくぐる。
高い天井。
磨かれた石床。
忙しそうに行き交う職員達。
試験会場には多くの受験者が集まっていた。
皆、緊張している。
何度も深呼吸する者。
筆記用具を握りしめる者。
膝の上で祈るように手を組む者。
俯いたまま動かない者。
少女はその中で、ほんの少しだけ落ち着いていた。
古竜と向き合った。
あれ以上に難しい相手なんて。
そうはいないだろう。
そんな気持ちがどこかにあった。
ふと隣を見る。
受験者の一人が青い顔で震えていた。
手に持った受験票は汗で少し湿っている。
少女は思わず声を掛けた。
「大丈夫ですよ」
受験者が顔を上げる。
少女は微笑んだ。
「話を聞くだけですから」
それは相手への励ましであり。
自分自身へ向けた言葉でもあった。
やがて。
試験官が名を呼ぶ。
「次」
少女の番だった。
試験は実技だった。
模擬利用者との面談。
試験室へ入る。
扉が閉まる音がやけに大きく聞こえた。
室内には数名の試験官。
壁際に並ぶ机。
そして。
一人の男性が椅子に座っていた。
老人役の利用者。
落ち着かない様子で周囲を見回している。
指先が膝の上を何度も叩いていた。
少女はゆっくり近付く。
そして。
膝を少し折り、目線を合わせた。
「どうしましたか?」
男性は顔を上げる。
どこか怯えたような目だった。
「帰らないといけない」
その瞬間。
少女の脳裏に別の光景が浮かんだ。
燃える大地。
砕ける石畳。
赤い鱗。
巨大な翼。
『帰らねばならぬ』
古竜。
少女は無意識に男性を見る。
いや。
見ているつもりだった。
男性は何かを言っている。
家が分からない。
時間が分からない。
ここがどこか分からない。
少女は話を聞く。
聞いている。
そのはずだった。
けれど。
頭の中には古竜がいた。
あの時と同じだ。
そう思った。
帰る場所が分からない。
不安。
焦り。
混乱。
似ている。
そう思った。
だから。
少女は自然に口を開く。
「安心できる場所を探しているんですね」
男性の動きが止まる。
しばらくして。
小さく頷いた。
「そうかもしれない」
少女は胸の奥で小さく息を吐く。
試験官達がメモを取っている。
一人が僅かに頷いたようにも見えた。
うまくできた。
そう思った。
男性も落ち着いている。
話も聞けた。
きっと大丈夫だ。
面談はそのまま終了した。
少女は一礼して部屋を出る。
閉じた扉の向こうから声が聞こえた。
「ありがとうございました」
利用者役の男性だった。
少女は少し嬉しくなる。
大丈夫。
きっと上手くできた。
そう思った。
◇
結果発表は夕方だった。
広間には受験者達が集められている。
窓から差し込む夕陽が床を赤く染めていた。
試験官が紙を広げる。
そして。
合格者の番号を読み上げ始めた。
一人。
また一人。
呼ばれていく。
周囲から安堵の息が漏れる。
小さく拳を握る者。
友人と抱き合う者。
涙ぐむ者。
少女は静かに待っていた。
自分の番号を。
だが。
読み上げは終わった。
紙が閉じられる音が響く。
それだけだった。
少女の番号は呼ばれなかった。
「……え?」
頭が真っ白になる。
周囲の音が遠ざかる。
なぜ。
どうして。
利用者役の男性は落ち着いていた。
話も聞けた。
試験官も頷いていた。
失敗したとは思えない。
胸の奥がざわつく。
理解できない。
納得できない。
広間がざわめく。
その中で。
少女だけが取り残されたようだった。
その時。
一人の職員が近付いてくる。
「受験番号十二番の方ですね」
少女は反射的に顔を上げた。
「ギルド長がお呼びです」
少女は何も言えなかった。
ただ。
小さく頷く事しかできなかった。
案内された先は最上階だった。
階段を上るたびに人の気配が減っていく。
職員達の話し声も。
書類をめくる音も。
少しずつ遠ざかっていった。
やがて。
一枚の重厚な扉の前で職員が立ち止まる。
「こちらです」
職員は一礼すると、その場を離れた。
少女は扉を見上げる。
深く息を吸う。
そして。
コンコン。
二度ノックした。
「入れ」
低い声が返ってくる。
少女は扉を開いた。
ギルド長室。
高い窓から夕陽が差し込んでいる。
壁一面の本棚。
積み上がった書類。
大きな机。
その奥に、一人の老人が座っていた。
白髪。
鋭い眼光。
右手は顎に添えられている。
少女は思わず背筋を伸ばした。
老人は少女を見る。
そして短く言った。
「座れ」
少女は椅子へ腰掛ける。
硬い。
妙に緊張する。
老人は机の上の書類を閉じた。
乾いた音が響く。
「古竜の件は聞いている」
少女が顔を上げる。
老人は静かに続けた。
「よくやった」
胸の奥が少し熱くなる。
認められた気がした。
けれど。
次の瞬間。
老人は淡々と言った。
「不合格だ」
世界が止まった。
窓の外を飛んでいた鳥の声だけが聞こえる。
少女は言葉を失った。
「……え?」
ようやく出た声は情けないほど小さかった。
「なぜですか」
老人は答えない。
少女は思わず身を乗り出す。
「私、失敗しましたか」
「利用者役の方も落ち着いてくれました」
「話も聞けました」
悔しかった。
納得できなかった。
老人は黙ったまま聞いている。
やがて。
右手を顎へ添えたまま口を開く。
「聞こう」
少女は息を呑む。
老人は続けた。
「古竜と、あの老人」
「何が同じだった?」
少女はすぐ答えた。
「帰りたいと言っていました」
「場所も分からなくなっていました」
「不安そうでした」
老人は小さく頷く。
「そうだな」
沈黙。
そして。
「では」
老人は静かに言った。
「何が違った?」
少女の思考が止まる。
違い。
考えた事がなかった。
頭の中ではずっと古竜と重ねていた。
同じだと思っていた。
だから。
違いを探そうとした事がなかった。
部屋が静まり返る。
窓の外で風が鳴る。
老人は急かさない。
ただ待っている。
少女は考える。
考える。
考える。
けれど。
答えは出ない。
やがて。
少女は俯いた。
「分かりません」
老人は小さく頷く。
「そうか」
それだけだった。
叱られない。
責められない。
だが。
その沈黙は妙に重かった。
老人は再び右手を顎へ添える。
少し考えるように目を細めた。
そして。
別の問いを投げる。
「君は試験中」
少女は顔を上げる。
「誰を見ていた?」
「利用者役の方です」
反射的に答える。
老人は静かに聞き返した。
「本当に?」
その一言で。
思考が止まった。
その一言で。
思考が止まった。
頭の中に浮かぶ。
燃える大地。
巨大な翼。
赤い鱗。
そして。
『帰らねばならぬ』
古竜。
試験中。
頭の中にいたのは。
利用者役の老人ではなかった。
少女は小さく呟く。
「私……」
言葉が震える。
「古竜のことを考えていました」
老人は頷く。
「そうか」
責めない。
否定もしない。
少女は続けた。
「同じだと思いました」
「帰りたいと言っていたから」
「場所も分からなかったから」
「だから……」
そこで言葉が止まる。
老人は何も言わない。
ただ待っている。
少女は俯く。
胸の奥がざわつく。
何かに気付きかけている。
けれど。
まだ言葉にならない。
少女は考える。
古竜。
老人。
本当に同じだったのか。
長い沈黙。
やがて。
少女は小さな声で言った。
「確かめてません」
老人は黙ったまま聞いている。
少女は続ける。
「本当に同じなのか」
「何を探していたのか」
「何が不安だったのか」
「聞いてません」
声が少しずつ小さくなる。
「私……」
「古竜の時と同じだと思い込んでいました」
部屋が静まり返る。
老人は右手を顎へ添えたまま目を閉じる。
長い沈黙。
やがて。
「なるほどな」
それだけだった。
だが。
それだけで十分だった。
誰かに答えを教えられたわけではない。
自分で辿り着いてしまったから。
老人は椅子にもたれた。
木の椅子が小さく軋む。
「前に上手くいった事が」
少女は顔を上げる。
「次も上手くいくとは限らん」
一拍。
老人は静かに言った。
「心は、それぞれ違うからな」
少女は何も言えなかった。
ただ。
静かに頷く。
老人は机の上の書類を整える。
数枚の紙を揃え。
引き出しを開く。
そして。
一枚の紙を取り出した。
「で」
少女は顔を上げる。
「帰るか?」
意味が分からなかった。
老人は続ける。
「それとも」
「見習いからやり直すか?」
少女は固まる。
「……え?」
老人は鼻で笑った。
「不合格だ」
「だが、追い返すには惜しい」
少女は目を見開く。
老人は淡々と続ける。
「君は未熟だ」
「思い込みもする」
「勝手に決めつける」
言葉が胸に刺さる。
全部その通りだった。
少女の肩が少し落ちる。
だが。
老人は続けた。
「だが」
右手を顎へ添える。
いつもの仕草だった。
「自分で気付ける」
少女は顔を上げる。
老人の目を見る。
「それは才能だ」
夕陽が差し込む。
窓の向こうで鳥が飛んでいく。
初めて。
老人の目が少しだけ柔らかく見えた。
老人は紙を差し出す。
「選べ」
少女は受け取る。
紙の端が少し震えた。
自分の手だった。
「帰るなら止めん」
「見習いになるなら名前を書け」
少女は紙を見る。
見習い契約書。
王都ケアギルド。
ずっと憧れていた場所。
不合格だった。
悔しかった。
情けなかった。
でも。
終わりじゃない。
少女はペンを取る。
しばらく紙を見つめる。
深く息を吸う。
そして。
ゆっくりと名前を書く。
カリカリ。
静かな部屋にペンの音だけが響く。
カリカリ。
やがて。
紙の上に文字が刻まれた。
――アリア・エイル
老人は契約書を見る。
そして。
初めてその名を呼んだ。
「明日から来い」
一拍。
「アリア」
その瞬間。
胸の奥で何かがほどけた気がした。
アリアは立ち上がる。
深く頭を下げる。
「よろしくお願いします!」
老人は小さく手を振った。
「まだ早い」
アリアが顔を上げる。
老人はわずかに笑う。
「だから面白い」
アリアは一瞬きょとんとする。
そして。
小さく笑った。
◇
王都ケアギルド見習い。
アリア・エイル。
その第一歩は。
合格からではなく。
不合格から始まった。
第二話
不合格の天才 完




