第十六話 未来 前編
机の上に広げられた数枚の紙を、アリアは静かに見つめていた。
事故報告書。
経過記録。
申し送り。
カンファレンス記録。
何度も読み返した書類だった。
紙の端はわずかに擦れ、折り目には何度も指でなぞった跡が残っている。
見返した回数だけなら、もう数え切れない。
だが今日、その書類は今までとは違って見えていた。
リディアと話した後だからだ。
アリアは一枚の報告書へ視線を落とす。
転倒場所。
転倒時刻。
職員配置。
エドガーの身体状況。
歩行状態。
周辺環境。
一つひとつを追う。
文字を読むたびに、記憶が蘇る。
あの日のことは今でも鮮明だった。
施設のフロア。
利用者達の声。
何気ない日常。
そして突然訪れた非日常。
目の前で崩れ落ちる身体。
伸ばした手。
届かなかった指先。
床へ響いた鈍い音。
苦痛に歪んだ表情。
泣き崩れる娘。
病室の白い天井。
そして。
『もう死んだ方がいいな』
胸の奥が小さく痛んだ。
今でも、その言葉は鋭く残っている。
アリアはゆっくりと息を吐いた。
感情を脇へ置く。
今は悲しむためではない。
考えるためだ。
リディアが見ていた景色を。
事故は個人の問題ではない。
あの言葉の意味を。
今なら分かる気がしていた。
確かに、自分だけの責任ではなかった。
環境。
動線。
情報共有。
職員配置。
身体状況の変化。
様々な要因が重なり合い、事故は起きる。
もしあの時。
近くに別の職員がいたら。
もし歩行状態の変化をもっと早く共有できていたら。
もし危険性を事前に話し合えていたら。
もし。
もし。
もし。
考えれば考えるほど、改善できたかもしれない点が浮かび上がってくる。
そして、それらを潰していくことには意味がある。
第二の事故を防ぐために。
第二のエドガーを生まないために。
アリアは新しい紙を引き寄せた。
羽根ペンを取り、思いつく限りの案を書き出していく。
動線の見直し。
歩行状態変化時の観察項目。
危険箇所の共有方法。
カンファレンスの実施頻度。
申し送りの改善。
書き出せば書き出すほど案は増えた。
決して無駄ではない。
どれも必要なことだ。
リディアが言っていたことも理解できる。
だが。
「……何か違う」
ぽつりと呟いた。
違う。
いや、正確には足りない。
そんな感覚だった。
事故分析は大切だ。
改善も必要だ。
共有も欠かせない。
それは間違いない。
だが。
リディアが本当に見ていた景色は、そこだけだったのだろうか。
アリアは羽根ペンを置いた。
椅子へ深く背を預ける。
天井を見上げた。
白い石造りの天井は、何も答えてくれない。
考える。
だが答えは出ない。
考えれば考えるほど遠ざかっていく。
まるで霧の向こうにある何かを掴もうとしているようだった。
しばらくして。
アリアは静かに立ち上がった。
「……施設、行こう」
紙の上では見えないものもある。
そう思った。
◇
王都ケアギルド附属ケア施設。
見慣れた石造りの建物が視界へ入る。
施設班の研修で通った場所。
失敗も挫折も経験した場所。
今では懐かしさすら感じる場所だった。
入口をくぐり、職員達へ挨拶をしながら廊下を進む。
窓の外へ何気なく視線を向けた。
そこで足が止まる。
中庭だった。
花壇。
畑。
季節の花々。
柔らかな陽射し。
そして。
その前に置かれた車椅子。
エドガーだった。
何人かの利用者と話している。
花を指差しながら何か説明しているらしい。
利用者達は楽しそうに耳を傾けていた。
時折笑い声も聞こえる。
そして。
エドガーも笑っていた。
アリアは窓越しにその姿を見つめる。
事故前とは違う。
事故後とも違う。
歩けない。
失ったものもある。
取り戻せないものもある。
それでも。
エドガーはそこにいた。
確かに前を向いて。
花壇の前に。
その姿を見ていた時だった。
ふと。
別の疑問が浮かぶ。
事故ではない。
改善策でもない。
目の前にいるエドガー自身への疑問だった。
「……そうだ」
小さく呟く。
「エドガーさんは」
視線は花壇のまま。
「どうして、ここまで来れたんだろう」
事故の原因は報告書に書いてある。
改善案も考えられる。
だが。
エドガーが再び笑うようになった理由は。
どこにも書かれていなかった。
アリアは窓から目を離す。
近くを通りかかった施設班職員へ声を掛けた。
「あの、少し聞いてもいいですか?」
「ん? どうしたの?」
職員も窓の外を見る。
アリアは再び花壇へ視線を向けた。
「エドガーさんって」
少し言葉を探す。
「どうして、また花壇に来るようになったんですか?」
職員は窓の外を見ながら、少し懐かしそうに笑った。
「ああ、エドガーさんか」
「最初は本当に大変だったよ」
「死にたいって?」
「そうそう」
アリアは何も言わない。
職員も続ける。
「花壇なんて見向きもしなかったし」
「声掛けても反応しなかったし」
「本当に塞ぎ込んでた」
窓の向こう。
今の姿からは想像しづらい。
けれど。
アリアには想像できた。
病室で聞いたあの言葉を知っているから。
「でも少しずつ変わったんだよ」
「リディアさんのおかげですか?」
「そうだね」
職員は頷く。
「花壇もそうだし」
「よく話してたし」
「ずっと関わってた」
アリアは黙る。
それだけだろうか。
何かが引っ掛かった。
職員はそんなアリアを見て苦笑する。
「でもなぁ」
「変えたって感じじゃないんだよね」
「え?」
「うーん……」
職員は少し考える。
言葉を探すように。
そして。
「引き出した、かな」
そう言った。
アリアの思考が止まる。
「引き出した……?」
「うん」
職員は窓の外を見る。
「リディアさんが何かを与えたんじゃない」
「元々エドガーさんの中にあったものを」
「見つけて引っ張り出した感じ」
アリアは黙ったまま窓の外を見る。
花壇。
車椅子。
笑うエドガー。
そして。
職員の言葉。
引き出した。
何を?
その問いだけが。
静かに胸の奥へ残った。
【前編・終】




