第十五話 景色 後編
「でも」
その一言に。
アリアの背筋がわずかに伸びた。
リディアは窓の向こうへ視線を向ける。
花壇の前では、エドガーが黙々と土を触っていた。
車椅子の横には小さなスコップ。
花壇には色とりどりの花。
柔らかな午後の日差しが中庭を照らしている。
穏やかな景色だった。
しばらく。
誰も口を開かなかった。
やがて。
リディアが静かに言った。
「私はね」
「事故そのものより」
「事故の後を見ることが多いんだ」
アリアは黙って耳を傾ける。
「転倒」
「誤嚥」
「骨折」
「火傷」
「色々ある」
リディアは苦笑した。
「残念だけど」
「無くならないんだよね」
その言葉には妙な重みがあった。
利用者の転倒。
家族の涙。
職員の後悔。
何度も見てきたのだろう。
何度も。
何度も。
同じような場面を。
その度に向き合ってきたのだ。
「だから」
「原因を探す」
「共有する」
「改善する」
「繰り返さないようにする」
迷いのない言葉だった。
理想論ではない。
経験だった。
失敗だった。
積み重ねだった。
リディアは窓の外から視線を外さないまま続ける。
「事故原因は共有した?」
アリアの肩が小さく揺れた。
「……いえ」
「カンファレンスは?」
「していません」
「再発防止策は?」
アリアは答えられなかった。
リディアは責めない。
ただ、小さく頷く。
「難しいよね」
アリアは少しだけ驚いた。
責められると思った。
叱られると思った。
だが違った。
「私も昔はそうだった」
「利用者さんを見るので精一杯だった」
「目の前の人を助けるので精一杯だった」
アリアの胸が小さく揺れる。
それは。
今の自分だった。
「でも」
再び。
その言葉。
「事故は終わってない」
「その人が元気になったら終わりじゃない」
「その後がある」
アリアは窓の外を見る。
エドガーがいる。
土を触っている。
利用者達と話している。
穏やかな時間だった。
「エドガーさんは良かったと思う」
リディアが言う。
「本当に」
「君が向き合ったことも知ってる」
「逃げなかったことも」
アリアは顔を上げた。
リディアは笑っていた。
柔らかな笑顔だった。
「だから」
「君を責めたいわけじゃない」
その言葉に嘘はなかった。
アリアにも分かった。
この人は本当にそう思っている。
「ただ」
リディアは再び窓の外を見る。
花壇。
畑。
利用者達。
車椅子のエドガー。
その全てを見ながら。
静かな声で続けた。
「私は考えるんだ」
少しだけ間が空く。
それは考え方というより。
呼吸のようなものだった。
長い時間を掛けて染み付いた習慣。
施設班のエースと呼ばれるまで積み重ねてきたもの。
利用者を見るだけではなく。
職員を見る。
環境を見る。
仕組みを見る。
施設という一つの景色を見る。
その果てに辿り着いた問い。
そして。
リディアは言った。
「何ができる?」
その言葉は不思議だった。
強い言葉ではない。
大きな言葉でもない。
けれど。
妙に胸へ残る。
「何ができた?」
「何ができる?」
「何を残せる?」
リディアはアリアを見る。
「私はそこから考える」
アリアは言葉を失った。
防ぎたい。
そんなことは当たり前だった。
思わないはずがない。
「第二のエドガーさんを防ぎたいと思わない?」
静かな問いだった。
怒っていない。
責めてもいない。
だからこそ。
逃げられなかった。
アリアの頭に事故の日の光景が浮かぶ。
転倒。
救急搬送。
家族の涙。
退院後の絶望。
そして。
今の笑顔。
たくさんの記憶が浮かぶ。
けれど。
共有は無い。
改善も無い。
再発防止も無い。
「私は……」
言葉が続かない。
何かをしたと思っていた。
必死だった。
向き合った。
逃げなかった。
それは本当だ。
でも。
リディアの問いへの答えは。
どこにも見つからなかった。
リディアは小さく頷く。
「事故は個人の問題じゃない」
「環境もある」
「仕組みもある」
「だから改善も個人ではできない」
「皆でやるんだ」
そして。
少しだけ笑った。
「私はそれがケアだと思ってる」
アリアは何も言えなかった。
否定ではなかった。
叱責でもなかった。
今まで見えていなかった景色だった。
◇
見学を終え。
施設を後にする。
夕陽が石畳を赤く染めていた。
レティアは何度か口を開きかけた。
「先輩」
呼びかけようとして。
やめる。
アリアは前を向いたまま歩いている。
返事は無い。
聞こえていないのかもしれなかった。
その目は前を見ている。
けれど。
意識はまだ施設の中に残っているように見えた。
『第二のエドガーさんを防ぎたいと思わない?』
『何ができる?』
レティアは口を閉じる。
今はきっと。
答えを探している途中なのだ。
◇
その夜。
自室。
机の上には資料が広げられていた。
事故報告書。
記録。
経過表。
面談記録。
何度も見返した資料だった。
ページをめくる。
まためくる。
そこには。
エドガーの言葉があった。
娘の涙があった。
自分の後悔があった。
苦しみがあった。
たくさん残っていた。
あの日の記録は確かに残っている。
忘れてはいなかった。
向き合ってもいた。
けれど。
共有は無い。
改善も無い。
再発防止も無い。
アリアの手が止まる。
静かな部屋だった。
聞こえるのは紙をめくる音だけ。
そして。
リディアの声が蘇る。
『第二のエドガーさんを防ぎたいと思わない?』
アリアは再び資料へ目を落とした。
ページをめくる。
もう一枚。
さらにもう一枚。
探す。
探す。
探す。
けれど。
どこにも無かった。
第二のエドガーを防ぐための言葉は。
一つも残っていなかった。
向き合った。
逃げなかった。
泣いた。
苦しんだ。
後悔した。
それは全部本当だった。
でも。
それだけだった。
事故は記録になった。
思い出になった。
後悔になった。
けれど。
学びにはなっていなかった。
第二のエドガーを防ぐための何かには。
まだなっていなかった。
アリアは静かに目を閉じる。
リディアの言葉が蘇る。
『何ができる?』
その問いは。
事故の日へ向けられたものではなかった。
誰かを責めるための問いでもなかった。
明日へ向けられた問いだった。
未来へ向けられた問いだった。
静かな部屋の中で。
アリアはもう一度、事故報告書を開く。
今度は違う景色が見える気がした。
第十五話 景色
完




