第十五話 景色 前編
施設の入口付近。
利用者達に囲まれながら、一人の女性が困ったように笑っていた。
「あんた帰ってきたのか」
「遅かったじゃないか」
「また来いって言っただろ」
次々と飛んでくる言葉に。
女性は肩を竦める。
「ただいま」
「そんなに長く空けたつもりはないんだけどな」
笑うと、目尻が優しく下がった。
柔らかな笑顔だった。
利用者達も笑う。
職員達も笑う。
その空気は自然だった。
誰か特別な人が現れたというより。
ずっとそこにあったものが、ようやく元の場所へ戻ってきたような。
そんな空気だった。
アリアとレティアも、その様子を少し離れた場所から見ていた。
利用者から好かれている。
それだけではない。
信頼されている。
そう感じた。
呼び止める声に遠慮がない。
笑いかける表情に迷いがない。
職員達も、どこか安心したように彼女を見ている。
まるで、この人が戻ってきたことで施設の空気が少し整ったようだった。
やがて。
女性が二人へ視線を向ける。
「あれ?」
「見ない顔だね」
穏やかな声だった。
アリアは軽く頭を下げる。
「新人研修を任されている、アリア・エイルです」
「こちらはレティアです」
女性は一瞬だけ目を丸くした。
そして。
「あぁ」
小さく頷く。
「君がアリアさんか」
アリアは首を傾げた。
「私をご存知なんですか?」
女性は少しだけ笑う。
「話は聞いてるよ」
それだけ言うと。
軽く頭を下げた。
「失礼したね」
「施設班のリディア・エヴァレットです」
「よろしく」
笑うと、やはり目尻が優しく下がる。
アリアも頭を下げた。
「よろしくお願いします」
隣ではレティアも慌てて続く。
「よ、よろしくお願いします」
その様子を見て。
リディアは少しだけ苦笑した。
「そんなに緊張しなくて大丈夫だよ」
「怖い人じゃないから」
少し間を置く。
「たぶん」
レティアが思わず吹き出した。
張り詰めていた空気が少しだけ緩む。
その時だった。
近くにいた職員が声を掛ける。
「あ、リディアさん」
「ちょうど良かった」
「この二人、施設見学中なんです」
「少し案内お願いできますか?」
リディアは困ったように笑う。
「帰ってきたばかりなんだけどな」
「お願いします!」
職員は即答した。
リディアは諦めたように肩を竦める。
「仕方ないか」
「じゃあ少しだけ」
そうして三人は施設内を歩き始めた。
◇
リディアは特別多く話すわけではなかった。
だが。
利用者に声を掛けられれば立ち止まり。
職員に相談されれば耳を傾ける。
廊下を歩く足取りはゆっくりだった。
急いでいるわけではない。
だが、何も見ていないわけでもない。
車椅子の位置。
廊下の端に置かれた荷物。
利用者同士の会話。
職員の表情。
そういったものを、自然に視界へ入れているようだった。
アリアはそれに気付いて、少しだけ目を細めた。
観察している。
けれど、観察しているようには見えない。
リナのような鋭さとは違う。
ミオのような掴みどころのなさとも違う。
リディアは、施設全体を一つの景色として見ているようだった。
前を歩くリディアの背中を見ながら。
レティアが小さく呟く。
「すごいですね……」
「ん?」
アリアが聞き返す。
レティアは少し声を潜めた。
「利用者さんも職員さんも」
「みんなリディアさんに声を掛けてる」
そして、アリアへ向けて言った。
「人気なんですね」
アリアも小さく頷きかける。
だが。
前を歩いていたリディアが振り返った。
「そうかな」
二人は思わず肩を跳ねさせる。
聞こえていたらしい。
リディアは少し笑った。
「よく怒られるよ」
「怒られるんですか?」
アリアが思わず聞く。
「うん」
リディアはあっさり頷いた。
「やり過ぎだって」
そう言って肩を竦める。
アリアは少しだけ納得した。
まだ少ししか話していない。
それでも何となく分かる。
この人は。
たぶん放っておけない人なのだろう。
困っている人がいれば立ち止まる。
気になることがあれば見過ごせない。
必要だと思えば、自分の予定を少し横へ置いてしまう。
だから声を掛けられる。
だから頼られる。
そしてたぶん。
だから怒られる。
歩きながら。
リディアがレティアを見る。
「研修はどう?」
突然話を振られ。
レティアは慌てて背筋を伸ばした。
「む、難しいです」
「何が正解なのか分からなくて……」
リディアは笑った。
「分かる」
「私も今でも分からない」
レティアが目を丸くする。
「リディアさんでもですか?」
「うん」
リディアはあっさり頷いた。
「たぶん死ぬまで分からないと思う」
その言葉に。
アリアは少しだけ笑った。
どこかリナを思い出した。
だが。
同じではない気がした。
リナは、分からないから聞く。
ミオは、分からないまま隣に座る。
リディアは。
分からないから、見続ける人なのかもしれない。
そんなことを思った。
◇
しばらく歩いたところで。
窓の向こうに中庭が見えた。
花壇。
畑。
季節の花々。
柔らかな陽射し。
そして。
花壇の前にある車椅子の人影。
アリアは思わず笑う。
「エドガーさん、まだやってたんだ」
土に触れる姿は変わらない。
元気そうだった。
それだけで十分だった。
その横顔を。
リディアは静かに見ていた。
「エドガーさんか」
小さく呟く。
アリアが振り返る。
「ご存知なんですか?」
「うん」
リディアは頷いた。
「彼もここは長いからね」
その言葉に。
アリアは何となく納得した。
しばらく窓の向こうを見つめた後。
リディアが静かに口を開く。
「先に一つだけ言っておくね」
穏やかな声だった。
だが。
アリアは自然と耳を傾けていた。
「事故に関しては」
「君だけの責任じゃない」
アリアの動きが止まる。
「本人もいる」
「職員もいる」
「環境もある」
「仕組みもある」
「転倒は一人で起きるものじゃない」
リディアは静かに続ける。
「だから」
「君だけが背負う必要はない」
アリアは言葉を失った。
違う。
そう言いたかった。
けれど。
声が出なかった。
あの日の光景は、今でも鮮明だった。
床へ倒れ込む音。
駆け寄る職員達。
青ざめた顔。
娘の泣き声。
自分の手。
震えていた。
何度も思い返した。
もっと早く気付けなかったのか。
もっと別の方法はなかったのか。
もっと。
もっと。
もっと。
考えても答えは出なかった。
それでも考え続けた。
考えることをやめたら。
あの日失われたものまで、なかったことになってしまう気がしたからだ。
エドガーが退院した日のことも覚えている。
車椅子に座った背中。
窓の外ばかりを見る横顔。
そして。
『もう死んだ方がいいな』
そう呟いた声。
あの言葉は。
アリアの中に今も残っていた。
正式ケアラーになっても。
レティアを教える立場になっても。
周年祭で笑っても。
アルフレッドの選択を見届けても。
完全には消えなかった。
消してはいけないと思っていた。
背負うことが責任なのだと思っていた。
自分の責任だと。
そう思い続けなければならないのだと。
そうでなければ。
あの日の意味が消えてしまう気がしたから。
なのに。
『君だけが背負う必要はない』
その言葉は。
胸の奥に積み上げていた重石へ、静かに触れた。
崩れるほどではない。
消えるほどでもない。
それでも。
確かに少しだけ軽くなってしまった。
だから苦しかった。
少しだけ。
救われてしまったから。
リディアはそこで初めてアリアを見る。
柔らかな笑顔だった。
「でも」
その一言に。
アリアの背筋がわずかに伸びた。
【前編 終】




