第十六話 未来 後編
引き出した。
その言葉だけが頭の中に残っていた。
窓の外では、エドガーが花壇の前にいた。
車椅子に座りながら、何人かの利用者と話している。
花を指差し。
土を見て。
時折、手振りを交えながら説明している。
利用者達は真剣に話を聞いていた。
その表情には、教師の話を聞く生徒のような熱心さがあった。
アリアはしばらく、その光景を眺めていた。
やがて利用者達が離れていく。
花壇の前にはエドガーだけが残った。
初夏の風が花々を揺らす。
陽射しは柔らかく、土の匂いが微かに漂っていた。
アリアは施設の外へ出る。
頬を撫でる風が少し心地よかった。
「こんにちは」
「おう」
エドガーは花壇から目を離さないまま答えた。
アリアもその隣へ立つ。
しばらく二人で花壇を見つめる。
赤い花。
青い花。
まだ蕾のもの。
咲き終えたもの。
色とりどりの花々が陽光を浴びていた。
「皆さん、エドガーさんによく聞いてますね」
「勝手に聞いてくるだけだ」
ぶっきらぼうな返事だった。
けれど、その声には以前のような棘はない。
どこか穏やかだった。
「放っておくと変な事をするからな」
「花は喋れん」
「代わりに言ってやらんと」
アリアは思わず笑う。
エドガーも少しだけ口元を緩めた。
風が吹く。
花壇の花々が一斉に揺れた。
まるで頷いているようだった。
「事故の後」
アリアは静かに言った。
「もう花壇には来ないと思っていました」
エドガーは少しだけ目を細める。
「ああ」
「俺もそう思っとった」
アリアは何も言わなかった。
病室。
白い天井。
力なく笑った顔。
『もう死んだ方がいいな』
あの日の声が脳裏を過る。
今でも忘れられない。
忘れられるはずもなかった。
「歩けん」
エドガーがぽつりと呟いた。
「立てん」
「世話もできん」
「終わったと思った」
淡々とした声だった。
怒りも。
悲しみも。
今はもうそこには無い。
遠い昔の出来事を語るような声音だった。
「最初は来る気も無かった」
「見たくも無かったな」
アリアは黙って聞いていた。
花壇を見るエドガーの横顔を見つめる。
しばらく沈黙が続く。
聞こえるのは風の音だけだった。
やがて。
「リディアだ」
エドガーが言った。
アリアは視線だけを向ける。
「あいつ、毎日来る」
「何ができる」
「何ができる」
「何ができる」
「そればっかりだ」
思わずリディアの顔が浮かぶ。
容易に想像できた。
柔らかく笑いながら。
何度でも同じことを聞く姿が。
「何もできんと言った」
「歩けん」
「終わった」
「放っておけ」
「そう言った」
エドガーは苦笑する。
「でも聞かん」
再び沈黙。
風が吹く。
花の香りが微かに漂った。
「ある日な」
エドガーは花壇へ目を向ける。
「花壇が酷かった」
「誰も分かっとらん」
「植える場所も違う」
「土も違う」
「水もやり過ぎだ」
少しずつ声に熱が宿る。
それは怒りではない。
長年積み重ねてきた知識と経験だった。
「見てられんかった」
アリアは黙って聞いていた。
「つい口を出した」
「その花はそこじゃない」
「水が多い」
「土も違う」
「そう言った」
エドガーは少しだけ苦笑した。
「そしたらあいつ」
「詳しいんですね」
「だと」
「当たり前だ」
「何十年やっとると思っとる」
少しだけ誇らしそうな声だった。
事故の話をしていた時には無かった響き。
それは長年培ってきた自信だった。
「そしたら今度は」
エドガーは鼻を鳴らす。
「じゃあ教えてください」
「だと」
アリアの脳裏にリディアの顔が浮かぶ。
やはり容易に想像できた。
「私達じゃ分からないんです」
「エドガーさんなら分かりますよね」
「力を貸してください」
「あいつ、そんな事を言う」
エドガーは呆れたように笑った。
だが。
その顔は少しだけ嬉しそうにも見えた。
必要とされた。
頼られた。
その事実が。
今でも心のどこかに残っているようだった。
「気付いたら」
エドガーは花壇を見る。
「毎日ここにおった」
風が吹く。
花々が揺れる。
アリアは花壇を見る。
エドガーを見る。
そして。
職員の言葉を思い出した。
引き出した。
何かを与えたのではない。
元々あったものを。
見つけて。
引っ張り出した。
夕陽が施設の壁を赤く染め始めていた。
花壇も。
車椅子も。
エドガーの横顔も。
柔らかな朱色に染まっている。
リディアは何かを与えたわけではない。
エドガーの中に残っていたものを見つけたのだ。
知識。
経験。
誇り。
役割。
長い人生の中で積み重ねてきた全てを。
「何ができる?」
その問いを通して。
もう一度、本人へ返した。
だからエドガーは花壇へ戻ってきた。
歩けなくても。
立てなくても。
まだできることがあったから。
まだ誰かの役に立てたから。
ふと。
古竜の顔が浮かぶ。
帰る場所を探し続けた古竜。
バルドの背中が浮かぶ。
失われた誇りを胸に閉じ込めていた職人。
アルフレッドの喫茶店が浮かぶ。
最後まで守り続けた人生そのものの場所。
誰もが何かを持っていた。
誰もが人生を積み重ねてきた。
そして。
リディアはそれを見ていた。
問題ではなく。
能力でもなく。
欠けた部分でもない。
その人が持っているものを。
その人が歩いてきた人生を。
見ていた。
アリアは夕暮れの空を見上げる。
答えはまだ出ない。
リディアが見ている景色の全ては、まだ理解できない。
けれど。
その問いだけは確かに胸の中へ残った。
私は今まで。
何を見ていたんだろう。
そして。
これから何を見るべきなんだろう。
夕陽は静かに沈み始めていた。
答えの代わりに。
長く伸びた影だけが花壇の上へ落ちていた。
第十六話 未来
完




