第十三話 継承 後編
翌日。
アリアとレティアは再びその家を訪れていた。
玄関の前で立ち止まる。
レティアの表情は硬かった。
昨日のことを引きずっているのが分かる。
真面目な人ほど失敗を長く抱え込む。
自分のどこが悪かったのか。
何を間違えたのか。
答えが見つかるまで考え続けてしまう。
一年前の自分もそうだった。
だからアリアは急かさない。
考える時間もまた必要だと知っている。
「緊張してる?」
「少し」
嘘だった。
かなり緊張している。
声も少し硬い。
アリアは苦笑した。
「大丈夫」
「今日は聞きに来たんだから」
レティアは小さく頷いた。
その表情はまだ不安そうだったが、それでも昨日よりは前を向いていた。
◇
扉を叩く。
しばらくして中から声が返ってきた。
「どうぞ」
昨日と同じ声だった。
二人は家の中へ入る。
男性は椅子に腰掛けていた。
こちらを見るなり、少し気まずそうに頭を掻く。
「昨日は悪かったな」
レティアが目を瞬く。
予想していなかったのだろう。
「いえ……」
ぎこちない返事だった。
昨日の印象では頑固な人だった。
支援を拒否する人だった。
だから謝罪の言葉が出てくるとは思っていなかったのかもしれない。
しばらく世間話が続く。
天気。
近所の話。
最近暑くなってきたこと。
庭の草が伸びてきたこと。
他愛もない話だった。
けれど昨日より空気は柔らかかった。
そして。
アリアは何気ない調子で尋ねた。
「昨日は何が忙しかったんですか?」
男性はきょとんとした顔をした。
「釣りだ」
終了だった。
レティアの動きが止まる。
「……釣り?」
「釣りだ」
男性は真顔だった。
◇
「朝から道具を見てな」
「餌を準備して」
「どこへ行くか考えて」
「帰ったら魚を捌く」
指を折りながら数えていく。
その表情は妙に真剣だった。
「忙しいぞ」
本気だった。
レティアは言葉を失う。
アリアは視線を逸らした。
笑ったら失礼だと思った。
多分、少し笑っていた。
「それは……趣味ですよね?」
レティアが恐る恐る言う。
男性は少し考えた。
「そうかもしれんな」
そして窓の外を見る。
どこか懐かしそうに。
遠い景色を見ているようだった。
「でもな」
静かな声だった。
「楽しみなことがあると、生きる理由になる」
レティアが黙る。
男性は続けた。
「仕事も大事だ」
「体調も大事だ」
「でもな」
少しだけ笑う。
「釣りも大事なんだ」
その顔は穏やかだった。
利用者の顔ではなかった。
支援対象者の顔でもなかった。
ただ。
釣りが好きな一人の老人の顔だった。
◇
帰り道。
レティアはずっと黙っていた。
石畳の道を二人で歩く。
王都の午後は穏やかだった。
遠くから商人の呼び声が聞こえる。
荷馬車が通り過ぎる音もする。
それでも。
二人の間には静かな時間が流れていた。
アリアも急かさない。
考える時間が必要だと思った。
やがて。
「先輩」
レティアが口を開く。
「私」
言葉を探す。
「まだ分かりません」
正直な答えだった。
アリアは頷く。
「うん」
「でも」
レティアは続ける。
「昨日より分からなくなりました」
アリアは思わず吹き出した。
「なにそれ」
「だって本当です」
レティアは少し不満そうだった。
「昨日までは正解があると思っていました」
「今は分からなくなりました」
アリアは少しだけ目を細める。
それでいい。
むしろ。
その方がいい。
そう思った。
利用者は問題集ではない。
答えが最初から決まっているわけでもない。
だからこそ面白くて。
だからこそ難しい。
アリア自身も、まだその途中にいる。
◇
数日後。
再び同じ利用者宅。
玄関を開けるなり、男性が声を上げた。
「おう」
機嫌が良い。
昨日までとは明らかに違った。
「見ろ」
差し出されたのは一枚の写真だった。
大きな魚。
立派な魚だった。
銀色の鱗が陽光を反射している。
誇らしげな写真だった。
「釣れたんですか?」
アリアが尋ねる。
「釣れた」
男性は満面の笑みを浮かべた。
まるで子供みたいだった。
自慢話を聞いてほしくて仕方がない顔。
アリアは思わず笑う。
レティアはその顔を見つめる。
しばらく見つめる。
そして。
「来週はどこに釣りに行かれるんですか?」
自然と口から出ていた。
男性は笑う。
「さてな」
「まだ決めてない」
「川かもしれんし、湖かもしれん」
「それを考えるのも楽しいんだ」
レティアも小さく笑った。
その時。
初めて。
利用者ではなく。
釣りが好きな、一人の人間として。
その男性を見た気がした。
アリアは横目でレティアを見る。
本人は気付いていないだろう。
けれど確かに変わっていた。
答えを探していた目ではない。
相手を見ようとする目だった。
◇
昇格試験最終日。
ギルド長室。
窓の外では夕暮れが王都を赤く染めていた。
机を挟んで。
ミオ。
リナ。
ギルド長。
三人が揃っている。
見慣れた顔だった。
それなのに妙に緊張した。
「結果を伝える」
ギルド長が言う。
アリアは背筋を伸ばした。
緊張する。
普通に緊張する。
「合格だ」
数秒。
理解が追いつかなかった。
「……本当に?」
「なんだその反応は」
ギルド長が呆れる。
ミオは眠そうに欠伸をした。
リナは小さく笑った。
机の上には新しいローブ。
そして正式ケアラーの証となるバッジ。
見習いには与えられないもの。
ずっと目指してきたものだった。
アリアはそれを見つめる。
嬉しい。
本当に嬉しい。
ようやく辿り着いた。
そう思う。
なのに。
最初に浮かんだのはレティアの顔だった。
「私」
アリアはぽつりと呟く。
「何も教えてません」
ギルド長が眉を上げる。
リナは静かに紅茶を飲む。
そして。
「そう?」
それだけだった。
アリアは言葉に詰まる。
「だって私は」
「答えを教えてません」
リナは少しだけ笑った。
「だからよ」
沈黙。
そして。
「あなたが教えたんでしょ」
アリアは何も言えなかった。
教えたつもりはない。
答えも渡していない。
ただ一緒に考えただけだ。
でも。
それで十分だったのかもしれない。
ふと。
九年前の記憶が脳裏をよぎる。
困ったように笑う一人のケアラー。
『分からないよ』
そう言った人。
『だから聞くんだよ』
そう笑った人。
あの時。
自分も答えをもらったわけではなかった。
◇
帰り道。
新しいローブを抱えて歩く。
夕暮れだった。
王都が赤く染まっている。
石畳も。
建物も。
行き交う人々も。
全てが柔らかな夕陽に包まれていた。
風が吹く。
ローブの裾が小さく揺れる。
ふと。
九年前の記憶が脳裏をよぎった。
村へ来た一人のケアラー。
困ったように笑いながら。
『分からないよ』
そう言った人。
『だから聞くんだよ』
そう笑った人。
アリアは足を止める。
今のリナを思い浮かべる。
訪問班長。
教育担当。
厳しくて。
冷静で。
滅多に本音を見せない人。
ギルド長の言葉も思い出す。
『昔のあいつはもっと笑っていた』
『あいつは優しすぎた』
あの日。
聞こうと思えば聞けた。
何度も機会はあった。
それなのに。
結局。
まだ何も聞けてなかったな。
アリアは小さく笑う。
夕暮れの空を見上げた。
答えは返ってこない。
けれど。
その問いだけは。
静かに胸の中へ残り続けていた。
第十三話 継承
完




