第十三話 継承 前編
王都ケアギルドの朝は早い。
まだ人影の少ない廊下を、アリアは一人で歩いていた。
窓から差し込む朝日が石畳の床を照らし、夜の冷気をわずかに残した空気が静かに流れている。
足音だけが小さく響く。
ふと足を止めた。
壁に掛けられたカレンダーへ視線が向く。
今日の日付。
そして、その隣に記された小さな印。
アリアは思わず苦笑した。
「もう一年か……」
見習いケアラーとして王都ケアギルドの門戸を叩いてから、まもなく一年になる。
長かった。
本当に長かった。
脳裏に様々な顔が浮かぶ。
古竜。
エドガー。
エレノア。
バルド。
アルフレッド。
それぞれの人生。
それぞれの痛み。
それぞれの願い。
あの日々は決して綺麗な思い出ばかりではない。
エドガーが絶望した顔も覚えている。
エレノアが手を握ってくれた温もりも覚えている。
古竜が夜空へ炎を放った姿も。
木箱の中で輝いていた髪留めも。
止まり木に残っていたコーヒーの香りも。
忘れたことは一度もなかった。
正解を探していた。
困っている人がいて。
それを解決する方法があって。
それを見つけるのがケアラーなのだと思っていた。
けれど現実は違った。
観察することを学んだ。
仮説を立てることを学んだ。
言葉の力を知った。
失敗の重さを知った。
寄り添うことを知った。
居場所の意味を知った。
理想と現実の狭間を見た。
問題ではなく、人を見ることを学んだ。
そして。
人には、自分自身の人生を選ぶ権利があることを知った。
知ったことより、知らないことの方が多い。
理解できたことより、理解できなかったことの方が多い。
それでも。
一年前の自分よりは、少しだけ前へ進めた気がしていた。
「まだまだだな」
ぽつりと呟く。
その時だった。
「そろそろね」
背後から声がした。
聞き慣れた声だった。
振り返る。
そこにはリナが立っている。
いつものように紅茶の入ったカップを片手に持っていた。
朝の光を受けた赤髪が静かに揺れる。
アリアは肩の力を抜く。
「おはようございます」
「おはよう」
リナは一口紅茶を飲む。
そして。
「そろそろね」
もう一度言った。
アリアは首を傾げる。
「何がですか?」
数秒だけ沈黙する。
そして。
「あなたがクビになるの」
「……ふぇっ?」
思考が止まった。
完全に止まった。
三秒ほど止まった。
「え?」
「え?」
「えぇぇぇっ!?」
静かな廊下に声が響いた。
幸い、まだ職員は少ない。
少なくともアリアはそう信じたかった。
「な、なんでですか!?」
「なんでって」
リナは不思議そうな顔をした。
「いつまでも見習いを見習いのまま置いておけるわけないでしょ」
「それとクビは違いますよね!?」
「違わないわよ」
即答だった。
「実績も評価も上げられなければ終わり」
「当然でしょ」
ぐうの音も出ない。
その通りだ。
その通りなのだが。
「聞いてないです……」
アリアは力なく呟く。
リナは迷いなく答えた。
「言ってないもの」
「言ってくださいよ!!」
◇
その日の午前。
アリアは半ば強制的に会議室へ連れて来られていた。
扉を開く。
中にはミオとギルド長の姿がある。
嫌な予感しかしなかった。
「おはよぉ」
ミオが眠そうに手を振る。
ギルド長は書類へ目を通していた。
「座れ」
言われるまま席へ着く。
落ち着かない。
非常に落ち着かない。
なにせ数十分前にクビ宣告を受けたばかりなのだ。
「それで」
アリアは恐る恐る口を開く。
「私はどうなるんですか?」
ギルド長は書類から目を離さない。
「昇格試験だ」
「……昇格試験?」
「そうだ」
ようやく顔を上げる。
「見習いから正式ケアラーへの昇格試験」
アリアは瞬きをした。
数回した。
「クビじゃないんですか?」
「落ちたらな」
「結局クビじゃないですか!!」
◇
ギルド長は一枚の書類を机の上へ置いた。
「昇格試験には班長二名以上の承認が必要だ」
アリアは書類へ視線を落とす。
承認欄。
そこには既に二つの署名が並んでいた。
地域支援班長 ミオ
アリアは思わず目を細める。
(正式な書類に名前だけなんて……)
一瞬そう思う。
(ミオさんらしいけど)
妙な納得もあった。
地域支援班の書類は基本的に丁寧だ。
報告書も。
記録も。
監査資料も。
どれも細かく整理されている。
だが、その中心にいる班長だけは妙に自由だった。
そして視線を下へ移す。
訪問班長 リナ・アークライト
アリアは固まった。
二度見した。
三度見した。
やはり書いてある。
訪問班長。
リナ・アークライト。
「……え?」
顔を上げる。
リナを見る。
リナは紅茶を飲んでいた。
「……え?」
もう一度言う。
「なに?」
「リナさん」
「なに?」
「班長だったんですか!?」
会議室が静まり返る。
次の瞬間。
ミオが吹き出した。
ギルド長は額を押さえる。
リナだけが平然としていた。
「そうよ」
「聞いてませんけど!?」
「言ってないもの」
「またそれですか!?」
◇
ひとしきり騒いだ後。
ギルド長が咳払いをした。
「本題へ入る」
会議室の空気が少しだけ引き締まる。
アリアも姿勢を正した。
「試験内容を説明する」
緊張した。
筆記試験かもしれない。
実技試験かもしれない。
もしかしたらギルド長との面談かもしれない。
それだけは嫌だ。
本当に嫌だ。
「新人育成だ」
「……はい?」
思わず聞き返した。
「新人育成」
ギルド長は繰り返す。
「本日より一ヶ月間、新人を一名預ける」
「その育成を行え」
アリアは目を瞬かせた。
新人。
育成。
自分が。
「私がですか?」
「お前以外に誰がいる」
当然のように返された。
「でも私まだ見習いですよ!?」
「だから試験なんだ」
ぐうの音も出ない。
本日二度目だった。
アリアはリナを見る。
「なんで新人育成なんですか?」
リナは少し考える。
そして静かに答えた。
「教えることは、自分を映す鏡だから」
アリアは黙る。
「理解していない人間は教えられない」
「理解したつもりの人間は、もっと教えられない」
会議室が静かになる。
その言葉だけが不思議と残った。
「だから」
リナは少しだけ笑った。
「ちょうどいい試験でしょ」
◇
翌日。
アリアはいつもより早く出勤していた。
初めての後輩。
少し楽しみだった。
どんな子だろう。
緊張しているだろうか。
優しい子だといいな。
後輩とか絶対可愛がっちゃうな。
そんなことを考えていた時だった。
会議室の扉が開く。
入ってきたのは、アリアより少し年下に見える少女だった。
淡い栗色の髪を肩口で揃え、制服は皺ひとつなく整えられている。
胸元には分厚いノートが抱えられていた。
緊張しているのだろう。
その指先には僅かに力が入っている。
けれど背筋だけは驚くほど真っ直ぐだった。
真面目。
そんな言葉が自然と浮かぶ。
そして同時に。
どこか懐かしさもあった。
正解を信じていた頃の自分。
頑張れば必ず答えに辿り着けると思っていた頃の自分。
少女は深く頭を下げた。
「本日からお世話になります」
「レティア・フォルンです」
アリアは笑顔になる。
「よろしくね!」
レティアも小さく頷いた。
「よろしくお願いします」
そして。
顔を上げたレティアは言った。
「確認なんですが」
「うん?」
「先輩って、まだ見習いなんですよね?」
「ぐっ……ふぅ」
死んだ。
即死だった。
後輩ができたら可愛がろうと思っていた。
三十秒前までは。
圧倒的な事実の重さに轢殺された。
「うん……まぁ……そうなんだけど」
【前編 終】




