第十二話 聖域 後編
「それでも」
少し間を置く。
「支援は受けていただけませんか?」
店内の空気が変わる。
アルフレッドは黙る。
壁時計の針が音を刻む。
長い沈黙だった。
やがて。
ゆっくりと顔を上げる。
「難しいですね」
穏やかな声だった。
だが。
今までで一番揺るがない声だった。
◇
それからも。
アリアは何度か止まり木を訪れた。
訪問の度に。
アルフレッドの体は少しずつ弱っていった。
車椅子へ腰掛けるまでの時間は長くなり。
食事量は減り。
頬も痩せていった。
それでも。
アルフレッドはいつも店内にいた。
窓から差し込む光の下で。
カウンターが見える場所に。
まるで店主が開店を待っているように。
静かに座っていた。
◇
「施設は考えていただけませんか?」
「難しいですね」
「訪問支援は?」
「難しいですね」
答えは変わらない。
穏やかで。
柔らかくて。
それでいて頑固だった。
アリアは何度も考えた。
何を伝えればいいのか。
何を聞けばいいのか。
けれど。
その度に言葉は店内のどこかへ沈んでいった。
◇
ある日の午後。
店内にはアルフレッドとアリアだけがいた。
窓から柔らかな陽射しが差し込んでいる。
客席には誰もいない。
カウンターの一番奥も空いていた。
アルフレッドはその席へ目を向けている。
ほんの数秒。
それだけだった。
だが。
何かを見ているようにも思えた。
「どうしてなんですか」
気付けば口にしていた。
アルフレッドは視線を戻す。
「何がです?」
「どうして、そこまでしてここにいたいんですか」
店内が静かになる。
アルフレッドは答えなかった。
代わりに。
ゆっくりと辺りを見回した。
カウンター。
客席。
棚に並ぶカップ。
壁時計。
陽射しの落ちる床。
長い時間をかけて見慣れた景色を確かめるように。
「ここで生きたんです」
小さな声だった。
アリアは黙って聞く。
「店を始めて」
「妻と出会って」
「娘が生まれて」
少し笑う。
「毎日コーヒーを淹れて」
「気付けば歳を取っていました」
窓から風が吹き込む。
棚の上の紙片がかすかに揺れた。
アルフレッドは目を細める。
「ここで十分なんです」
その声は静かだった。
静かだったが。
不思議と弱くはなかった。
しばらくして。
アルフレッドはもう一度、店内を見回した。
「ここが、いいんです」
アリアは何も言えなかった。
◇
沈黙が続く。
壁時計だけが時を刻んでいる。
やがて。
アリアは静かに尋ねた。
「怖くないんですか」
アルフレッドは少し笑った。
本当に少しだけ。
「怖いですよ」
即答だった。
アリアは息を呑む。
「毎日です」
窓の外へ目を向ける。
「死ぬのは怖い」
「苦しいのも怖い」
「娘を残すのも怖い」
言葉が静かに落ちる。
「本当は」
アルフレッドは視線を落とした。
「妻の命日に」
「もう一度だけコーヒーを淹れたかった」
アリアは息を呑む。
アルフレッドはカウンターを見る。
そこには誰もいない。
けれど。
その視線の先には誰かがいるようだった。
「閉店した後」
「二人で飲んでいたんです」
少し笑う。
「今日の店の話をして」
「娘の話をして」
「それが好きでした」
静かな声だった。
「無理をすれば」
アルフレッドは言う。
「まだ淹れられるんです」
細くなった手を見る。
「でも」
小さく息を吐く。
「その無理は取っておこうと思って」
少しだけ笑った。
「最後のわがままです」
アリアは何も言わなかった。
言えなかった。
◇
店を出ると。
夕暮れが街を赤く染めていた。
エミリアが入口の近くで待っていた。
アリアの姿を見ると、すぐに立ち上がる。
「どうでしたか」
その声には期待も不安も混ざっていた。
アリアは答えに詰まった。
言葉が出てこない。
沈黙だけが流れる。
エミリアはそんなアリアを見て。
小さく目を伏せた。
それだけで十分だった。
結果は伝わった。
「すみません」
アリアはようやく口を開く。
「力になれませんでした」
エミリアはしばらく黙っていた。
やがて。
小さく息を吐く。
「そうですか」
責める声ではなかった。
怒りもなかった。
ただ。
少しだけ寂しそうだった。
「父らしいですね」
そう言って。
微かに笑う。
その笑顔はどこか苦しかった。
「ありがとうございました」
エミリアは頭を下げた。
アリアは返す言葉を失った。
◇
帰り道。
夕暮れが街を赤く染めていた。
アリアは無言で歩く。
隣ではミオが空を見上げている。
しばらくして。
アリアはぽつりと呟いた。
「助けられませんでした」
声は小さかった。
ミオは少し考える。
そして。
「そうかなぁ」
と言った。
アリアは顔を上げる。
ミオは前を向いたまま続ける。
「アルフレッドさんの話」
「ちゃんと聞けたでしょぉ」
それだけだった。
アリアは返事をしなかった。
夕陽の向こうで。
止まり木の窓が小さく光っていた。
◇
【エピローグ】
数週間後。
地域支援班。
扉を叩く音が響く。
「どうぞ」
アリアが顔を上げる。
そこに立っていたのはエミリアだった。
以前より少し痩せて見える。
けれど。
どこか穏やかな表情をしていた。
「ご報告があります」
その一言で。
アリアは全てを察した。
エミリアは小さく頭を下げる。
「父が亡くなりました」
静かな声だった。
アリアは言葉を失う。
「そうですか」
ようやくそれだけを返した。
エミリアは頷く。
「命日には間に合いませんでした」
少しだけ笑う。
寂しそうな笑顔だった。
「だから」
小さく息を吸う。
「私が淹れたんです」
◇
墓前だった。
花の隣。
並んだ二つのカップ。
「気付いたら二杯淹れていたんです」
エミリアは少し困ったように笑った。
「父の話を思い出していたら」
「一杯じゃない気がして」
視線を落とす。
「父が淹れたかったのは」
少し間を置く。
「母と飲むコーヒーだったから」
風が吹く。
「父の真似をして淹れました」
少し笑う。
「全然似てないんですけどね」
涙がこぼれる。
けれど。
笑っていた。
「でも」
声が少し震える。
「少しだけ」
「父の事を理解できた気がしました」
アリアは何も言わなかった。
エミリアも、それ以上は話さなかった。
しばらくして。
静かに立ち上がる。
帰り際。
エミリアは振り返った。
そして。
少しだけ笑った。
その笑顔は。
どこかアルフレッドによく似ていた。
窓の外では、柔らかな風が吹いていた。
第十二話 聖域
完




