↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
23/32

第十二話 聖域 後編

「それでも」


少し間を置く。


「支援は受けていただけませんか?」


店内の空気が変わる。


アルフレッドは黙る。


壁時計の針が音を刻む。


長い沈黙だった。


やがて。


ゆっくりと顔を上げる。


「難しいですね」


穏やかな声だった。


だが。


今までで一番揺るがない声だった。



それからも。


アリアは何度か止まり木を訪れた。


訪問の度に。


アルフレッドの体は少しずつ弱っていった。


車椅子へ腰掛けるまでの時間は長くなり。


食事量は減り。


頬も痩せていった。


それでも。


アルフレッドはいつも店内にいた。


窓から差し込む光の下で。


カウンターが見える場所に。


まるで店主が開店を待っているように。


静かに座っていた。



「施設は考えていただけませんか?」


「難しいですね」


「訪問支援は?」


「難しいですね」


答えは変わらない。


穏やかで。


柔らかくて。


それでいて頑固だった。


アリアは何度も考えた。


何を伝えればいいのか。


何を聞けばいいのか。


けれど。


その度に言葉は店内のどこかへ沈んでいった。



ある日の午後。


店内にはアルフレッドとアリアだけがいた。


窓から柔らかな陽射しが差し込んでいる。


客席には誰もいない。


カウンターの一番奥も空いていた。


アルフレッドはその席へ目を向けている。


ほんの数秒。


それだけだった。


だが。


何かを見ているようにも思えた。


「どうしてなんですか」


気付けば口にしていた。


アルフレッドは視線を戻す。


「何がです?」


「どうして、そこまでしてここにいたいんですか」


店内が静かになる。


アルフレッドは答えなかった。


代わりに。


ゆっくりと辺りを見回した。


カウンター。


客席。


棚に並ぶカップ。


壁時計。


陽射しの落ちる床。


長い時間をかけて見慣れた景色を確かめるように。


「ここで生きたんです」


小さな声だった。


アリアは黙って聞く。


「店を始めて」


「妻と出会って」


「娘が生まれて」


少し笑う。


「毎日コーヒーを淹れて」


「気付けば歳を取っていました」


窓から風が吹き込む。


棚の上の紙片がかすかに揺れた。


アルフレッドは目を細める。


「ここで十分なんです」


その声は静かだった。


静かだったが。


不思議と弱くはなかった。


しばらくして。


アルフレッドはもう一度、店内を見回した。


「ここが、いいんです」


アリアは何も言えなかった。



沈黙が続く。


壁時計だけが時を刻んでいる。


やがて。


アリアは静かに尋ねた。


「怖くないんですか」


アルフレッドは少し笑った。


本当に少しだけ。


「怖いですよ」


即答だった。


アリアは息を呑む。


「毎日です」


窓の外へ目を向ける。


「死ぬのは怖い」


「苦しいのも怖い」


「娘を残すのも怖い」


言葉が静かに落ちる。


「本当は」


アルフレッドは視線を落とした。


「妻の命日に」


「もう一度だけコーヒーを淹れたかった」


アリアは息を呑む。


アルフレッドはカウンターを見る。


そこには誰もいない。


けれど。


その視線の先には誰かがいるようだった。


「閉店した後」


「二人で飲んでいたんです」


少し笑う。


「今日の店の話をして」


「娘の話をして」


「それが好きでした」


静かな声だった。


「無理をすれば」


アルフレッドは言う。


「まだ淹れられるんです」


細くなった手を見る。


「でも」


小さく息を吐く。


「その無理は取っておこうと思って」


少しだけ笑った。


「最後のわがままです」


アリアは何も言わなかった。


言えなかった。



店を出ると。


夕暮れが街を赤く染めていた。


エミリアが入口の近くで待っていた。


アリアの姿を見ると、すぐに立ち上がる。


「どうでしたか」


その声には期待も不安も混ざっていた。


アリアは答えに詰まった。


言葉が出てこない。


沈黙だけが流れる。


エミリアはそんなアリアを見て。


小さく目を伏せた。


それだけで十分だった。


結果は伝わった。


「すみません」


アリアはようやく口を開く。


「力になれませんでした」


エミリアはしばらく黙っていた。


やがて。


小さく息を吐く。


「そうですか」


責める声ではなかった。


怒りもなかった。


ただ。


少しだけ寂しそうだった。


「父らしいですね」


そう言って。


微かに笑う。


その笑顔はどこか苦しかった。


「ありがとうございました」


エミリアは頭を下げた。


アリアは返す言葉を失った。



帰り道。


夕暮れが街を赤く染めていた。


アリアは無言で歩く。


隣ではミオが空を見上げている。


しばらくして。


アリアはぽつりと呟いた。


「助けられませんでした」


声は小さかった。


ミオは少し考える。


そして。


「そうかなぁ」


と言った。


アリアは顔を上げる。


ミオは前を向いたまま続ける。


「アルフレッドさんの話」


「ちゃんと聞けたでしょぉ」


それだけだった。


アリアは返事をしなかった。


夕陽の向こうで。


止まり木の窓が小さく光っていた。



【エピローグ】


数週間後。


地域支援班。


扉を叩く音が響く。


「どうぞ」


アリアが顔を上げる。


そこに立っていたのはエミリアだった。


以前より少し痩せて見える。


けれど。


どこか穏やかな表情をしていた。


「ご報告があります」


その一言で。


アリアは全てを察した。


エミリアは小さく頭を下げる。


「父が亡くなりました」


静かな声だった。


アリアは言葉を失う。


「そうですか」


ようやくそれだけを返した。


エミリアは頷く。


「命日には間に合いませんでした」


少しだけ笑う。


寂しそうな笑顔だった。


「だから」


小さく息を吸う。


「私が淹れたんです」



墓前だった。


花の隣。


並んだ二つのカップ。


「気付いたら二杯淹れていたんです」


エミリアは少し困ったように笑った。


「父の話を思い出していたら」


「一杯じゃない気がして」


視線を落とす。


「父が淹れたかったのは」


少し間を置く。


「母と飲むコーヒーだったから」


風が吹く。


「父の真似をして淹れました」


少し笑う。


「全然似てないんですけどね」


涙がこぼれる。


けれど。


笑っていた。


「でも」


声が少し震える。


「少しだけ」


「父の事を理解できた気がしました」


アリアは何も言わなかった。


エミリアも、それ以上は話さなかった。


しばらくして。


静かに立ち上がる。


帰り際。


エミリアは振り返った。


そして。


少しだけ笑った。


その笑顔は。


どこかアルフレッドによく似ていた。


窓の外では、柔らかな風が吹いていた。



第十二話 聖域 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。