↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
22/32

第十二話 聖域 中編

かつて喫茶店だった店内は、不思議な静けさに包まれていた。


客の姿はない。


コーヒーを淹れる音もしない。


それなのに。


どこか人の気配が残っているように感じる。


長年ここで積み重ねられてきた時間が、壁や床に染み込んでいるのかもしれなかった。


アリアはゆっくりと店内を見回した。


磨き込まれた木製のカウンター。


棚に並ぶカップ。


色褪せたメニュー表。


止まったままの壁時計。


どれも古い。


だが、不思議と荒れてはいなかった。


捨てられた場所ではなく。


守られてきた場所。


そんな印象だった。


「こちらへどうぞ」


アルフレッドが言う。


三人はカウンター近くの席へ腰を下ろした。


アルフレッドは車椅子へ座る。


その動作はゆっくりだった。


無理をすれば歩けるのだろう。


だが、それが無理であることも見れば分かった。


「お体はお辛くないですか?」


アリアは尋ねる。


「辛いですよ」


即答だった。


アリアは少し驚く。


もっと誤魔化す人かと思っていた。


「痛みもありますし」


「息も苦しい」


「夜もよく眠れません」


アルフレッドは穏やかに答える。


まるで天気の話でもするように。


アリアは返す言葉を探した。


だが見つからない。


そんなアリアを見て。


アルフレッドは少しだけ笑った。


「困りましたね」


冗談のような口調だった。


その一言で。


張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。



しばらくして。


話は自然と店のことへ移った。


「どんなお店だったんですか?」


アリアが尋ねる。


アルフレッドは少しだけ目を細めた。


「ただの喫茶店ですよ」


「ただの、ですか?」


「ええ」


そう言いながらも。


その表情はどこか嬉しそうだった。


「常連さんは多かったんですか?」


「多かったですね」


「静かな人もいましたし」


「騒がしい人もいました」


「毎日来る人もいれば」


「一年に一度だけ来る人もいた」


少し笑う。


「不思議な店でした」


その時だった。


「本当に不思議な店だったんです」


後ろから声がした。


エミリアだった。


お茶の乗った盆を持っている。


「お父さんね」


「誰でも店に入れちゃうんです」


「そんなことない」


「ある」


即答だった。


アリアは思わず吹き出しそうになる。


「閉店時間過ぎても話聞いてたり」


「お金足りない学生にご飯出したり」


「雨の日に知らない人を中へ入れたり」


アルフレッドは困ったように笑った。


「昔の話です」


「本当なんです」


エミリアは言う。


「だから母によく怒られてました」


店内に小さな笑い声が広がった。



「止まり木って名前は」


アリアが尋ねる。


「どうして付けたんですか?」


アルフレッドは少し考えた。


そして。


「疲れた時に休める場所が必要だろうと思って」


そう答えた。


アリアは思わず瞬きをする。


アルフレッドは続けた。


「立派な店にしたかったわけじゃないんです」


「ただ」


店内を見回す。


空になった客席。


静かなカウンター。


並んだカップ。


「少し休める場所があればいいと思った」


その言葉は妙に心へ残った。



「母も元々はお客さんだったんです」


エミリアが言った。


アリアは顔を上げる。


「そうだったんですか?」


「はい」


エミリアは笑う。


「この話、母が大好きだったんです」


「何回聞かされたか分かりません」


アルフレッドが苦笑した。


「そんなに話していたか」


「してました」


即答だった。


「最初は常連だったそうです」


「毎日来て」


「毎日同じ席に座って」


「毎日同じコーヒーを頼んで」


「気付いたらホールに立っていたそうです」


アリアは思わず笑う。


「それで結婚したんですか?」


「そういうことになりますね」


アルフレッドは少し照れたように視線を逸らした。


その姿は。


病気の老人ではなく。


どこにでもいる一人の夫だった。



「私の席もあったんです」


エミリアが言った。


「席?」


「カウンターの一番奥です」


そう言って指を差す。


カウンターの端。


今は誰も座っていない席。


「私の特等席」


少しだけ胸を張る。


アルフレッドが即座に言った。


「店の席です」


「違います」


「店の席です」


「私の席です」


「店の席です」


「私の席です」


アリアは思わず吹き出した。


ミオも肩を震わせている。


「座られてると機嫌悪くなるんですよ」


「なりません」


「なってた」


「なりません」


完全に親子だった。



「そこで宿題してたんです」


エミリアは懐かしそうに言う。


「父がコーヒーを淹れているのを見ながら」


「母がお客さんと笑っているのを見ながら」


少しだけ遠くを見る。


「幸せでした」


その言葉が店内へ静かに落ちた。


アルフレッドは何も言わない。


ただ。


少しだけ目を伏せた。



しばらくして。


エミリアが席を外した。


薬の準備だろうか。


店内にはアリアとミオ。


そしてアルフレッドだけが残る。


窓から差し込む午後の日差しが、静かに床を照らしていた。


アルフレッドはふと、カウンターの一番奥へ視線を向けた。


「あの子は知らないんですが」


ぽつりと呟く。


アリアは顔を上げた。


「何をですか?」


アルフレッドは少しだけ笑う。


「あそこは元々、妻の席だったんです」


アリアは思わず目を瞬いた。


「毎日そこに座っていました」


「同じコーヒーを頼んで」


懐かしそうな目だった。


「あの子には話したことがありません」


「そうなんですか?」


「ええ」


少しだけ笑う。


「だから初めてあの席に座った時は驚きました」


静かな声だった。


「誰にも教えていなかったんですがね」


アリアは何も言えなかった。


アルフレッドはしばらくその席を見つめる。


そして。


「面白いもんです」


そう呟いた。


「あの席を見るのが好きだったんです」


それ以上は語らなかった。


けれど。


アリアの胸には、不思議な重みが残った。



アリアは店内を見回した。


古い時計。


使い込まれたカウンター。


棚に並ぶカップ。


年月を刻んだ客席。


そして気付く。


この場所は。


ただの店ではない。


アルフレッドの人生そのものなのだ。


アリアは静かにアルフレッドを見る。


そして。


ずっと聞きたかったことを口にした。


「それでも」


少し間を置く。


「支援は受けていただけませんか?」


店内の空気が変わる。


アルフレッドは黙る。


長い沈黙。


やがて。


ゆっくりと顔を上げた。


「難しいですね」


穏やかな声だった。


だが。


今までで一番揺るがない声だった。


【中編・終】

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。