第十二話 聖域 前編
王都ケアギルド、地域支援班。
窓の外では、王都の空が薄く曇っていた。
雨が降るほどではない。
けれど、陽射しは弱く、街全体が少しだけ静かに見える。
アリアは机の上に置かれた相談票へ目を落としていた。
そこには、簡潔な文字で状況がまとめられている。
進行性悪性腫瘍。
独居。
施設利用拒否。
訪問支援拒否。
そして、相談者。
長女、エミリア・ハミルトン。
アリアはもう一度、最初から読み返した。
文字としては短い。
けれど、その短い言葉の奥に、重たいものがいくつも折り畳まれている気がした。
「末期癌かぁ」
向かいの席で、ミオが呟いた。
いつものように間延びした声だった。
だが、その声音は軽くない。
アリアは顔を上げる。
「本人は状況を理解しているんですか?」
「してるよぉ」
「余命も?」
「知ってるねぇ」
アリアは再び相談票へ視線を落とした。
自分の病気を理解している。
残された時間も理解している。
それでも、施設には行かない。
訪問支援も受けない。
理由が分からなかった。
「娘さんからの相談ですか?」
「そうだよぉ」
ミオは椅子をくるりと回した。
「会ってみる?」
「はい」
返事に迷いはなかった。
◇
午後。
地域支援班の相談室。
向かい側に座った女性は、年齢の割に少し疲れて見えた。
身なりは整っている。
髪もきちんとまとめられている。
言葉遣いも落ち着いている。
けれど、目の奥には隠しきれない不安があった。
眠れていないのかもしれない。
アリアは、そう思った。
「初めまして」
アリアは頭を下げる。
「地域支援班のアリアです」
「エミリアです」
女性も頭を下げた。
その手は膝の上で固く重ねられている。
しばらく、短い沈黙があった。
先に口を開いたのはエミリアだった。
「父を助けてください」
真っ直ぐな言葉だった。
迷いがない。
それだけに、その奥にある切実さが伝わってきた。
アリアは静かに頷く。
「状況を教えていただけますか?」
エミリアは小さく息を吸った。
「父は今、一人ではほとんど歩けません」
「移動は車椅子です」
「食事も以前よりずっと減りました」
「夜もあまり眠れていません」
一つずつ。
事実を並べるように話していく。
感情に流されないように。
泣かないように。
そう自分を抑えているようにも見えた。
「それでも父は」
エミリアの声が、少しだけ強くなる。
「施設には行かないと言います」
「訪問もいらないと」
アリアは黙って聞いていた。
「私にも家庭があります」
エミリアは俯いた。
「夫もいますし、子供もいます」
「でも今は実家に泊まり込んでいます」
「できるだけ父の傍にいたくて」
そこで言葉が止まる。
相談室の空気が、ほんの少し重くなった。
「でも」
エミリアは小さく息を吐いた。
「ずっと見ていることはできません」
その言葉には、疲労だけではないものが滲んでいた。
娘としての焦り。
罪悪感。
恐怖。
そして、どうしていいか分からない苦しさ。
「だから相談に来ました」
エミリアは顔を上げる。
「父を助けてほしいんです」
アリアは自然と背筋を伸ばしていた。
一日でも長く生きてほしい。
少しでも苦しくないようにしてほしい。
一人にしないでほしい。
その願いを否定できる人はいない。
少なくとも、アリアにはできなかった。
「お父様について聞かせていただけますかぁ?」
ミオが柔らかく尋ねた。
エミリアの表情が、少しだけ緩む。
「父はアルフレッドといいます」
その名を口にした時、声がわずかに優しくなった。
「昔、喫茶店をやっていました」
「喫茶店ですか」
「はい」
エミリアは頷く。
「止まり木という店です」
その名前が出た瞬間、相談室の空気が少しだけ変わった気がした。
病気。
拒否。
介護。
そういった言葉とは別の、温かな何かが混じった。
「父は店主でした」
「母はホール担当で」
「私は毎日そこにいました」
エミリアは懐かしそうに微笑む。
「どんなお父様だったんですか?」
アリアが尋ねる。
エミリアは少し考えた。
「優しい人です」
即答だった。
けれど、すぐに小さく苦笑する。
「でも、自分のことは話さない人でした」
「話さない?」
「辛いとか」
「苦しいとか」
「そういうことを言わないんです」
エミリアの視線が少し遠くなる。
「母が亡くなった時も」
「私には、泣いているところを見せませんでした」
アリアは黙る。
エミリアは続けた。
「強い人だったんじゃないと思います」
「たぶん」
少しだけ寂しそうに笑う。
「我慢していただけです」
その言葉には、娘だからこそ分かる確信があった。
相談は一時間以上続いた。
アルフレッドのこと。
止まり木のこと。
亡くなった妻のこと。
今の病状のこと。
施設も訪問も拒むこと。
話を聞き終える頃には、アリアの中に一つの感情がはっきりと形を持っていた。
助けたい。
それだけだった。
◇
翌日。
アリアとミオは、王都の外れにある一軒の建物を訪れていた。
大通りから少し離れた、静かな場所だった。
今はもう看板は外されている。
窓枠も古びている。
壁にも年月の跡がある。
それでも、そこには確かに店だった頃の面影が残っていた。
扉の横には、かつて看板が掛けられていたらしい金具がある。
窓の向こうには、薄暗い店内が見えた。
使われていないはずなのに。
どこか、人を待っているように見えた。
「ここですか」
「そうだよぉ」
ミオが頷く。
アリアは深呼吸をした。
エミリアの願いを叶えたい。
そのためにも。
まずは本人と話さなければならない。
扉を叩く。
しばらくして、内側から小さな物音がした。
ゆっくりと扉が開く。
現れたのは、一人の老人だった。
痩せている。
顔色も良くない。
手も細い。
けれど、その目は不思議なほど穏やかだった。
「こんにちは」
アリアが頭を下げる。
老人は二人の顔を見た。
そして、優しく微笑んだ。
「地域支援班の方達ですね」
穏やかな声だった。
「娘から聞いています」
アリアは少しだけ目を瞬かせる。
想像していた反応とは違った。
警戒もない。
怒りもない。
拒絶もない。
「わざわざありがとうございます」
そう言って、アルフレッドは扉を大きく開いた。
「どうぞ」
アリアとミオは顔を見合わせる。
そして、中へ足を踏み入れた。
入ってすぐの空間は、かつて喫茶店だった場所だった。
客席は残されている。
カウンターも。
棚に並ぶカップも。
壁に掛けられた時計も。
何も動いていないのに、全てがまだ息をしているようだった。
その瞬間。
アリアはふと足を止めた。
微かに。
本当に微かに。
コーヒーの香りがした。
長い年月を経ても、消えずに残った何かのように。
アリアはその香りの中で、静かに息を吸った。
【前編・終】




