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第九話 天秤 後編

「本日はお時間をいただきありがとうございます」


施設長は笑顔だった。


穏やかな声。


丁寧な言葉遣い。


紫のスーツに皺はない。


完璧だった。


 


面談が始まる。


 


事故記録。


勤務記録。


利用者の怪我。


職員証言。


 


施設長は全てに答えた。


 


落ち着いて。


淀みなく。


 


まるで最初から準備していたかのように。


 


アリアは黙って聞いていた。


 


違和感はある。


 


だが。


 


目の前の男は怒鳴らない。


威圧もしない。


 


利用者のことを語る。


職員のことも語る。


施設運営のことも語る。


 


本当に。


 


悪人には見えなかった。


 


やがて。


話は石膏の女性利用者へ移る。


 


「転倒事故です」


 


施設長は言う。


 


「ご本人もそう説明されています」


 


「外出記録がありません」


 


ミオが静かに返す。


 


「記録漏れでしょう」


 


「事故報告書もありません」


 


「担当者の不備です」


 


即答だった。


 


一切迷わない。


 


まるで何度も繰り返した答えのように。


 


面談は続く。


 


記録改ざん。


拘束の疑い。


利用者証言。


職員証言。


 


施設長は否定し続けた。


 


冷静に。


理論的に。


一つずつ。


 


そして。


 


長い面談が終わった。



ミオとリナは先に席を立った。


 


だが。


 


アリアだけが残った。


 


施設長が首を傾げる。


 


「何か?」


 


アリアは黙る。


 


問い詰めたい訳じゃない。


責めたい訳でもない。


 


ただ。


 


どうしても気になっていた。


 


「どうしてですか」


 


施設長が笑う。


 


「何がです?」


 


「どうして皆さんがあんな顔をしているんですか」


 


笑顔が止まる。


 


本当に一瞬だけ。


 


施設長は椅子へ深く腰掛けた。


 


小さく息を吐く。


 


「君は何年目だ」


 


「一年目です」


 


「そうか」


 


施設長は少し笑った。


 


どこか懐かしむように。


 


「私も現場だった」


 


アリアが顔を上げる。


 


「二十年以上な」


 


窓の外へ目を向ける。


 


夕陽が差し込んでいた。


 


「利用者を見た」


 


「家族とも向き合った」


 


「新人も育てた」


 


「事故も経験した」


 


「職員が辞めるのも見た」


 


静かな声だった。


 


怒りもない。


自慢もない。


 


ただ。


 


積み重ねてきた年月だけがあった。


 


「最初はな」


 


施設長は言う。


 


「職員も利用者も」


 


「みんな心地よく過ごせる場所を作りたかった」


 


その言葉だけは。


 


嘘に聞こえなかった。


 


むしろ。


 


アリア自身が思い描く未来とよく似ていた。


 


「守ろうとした利用者を、守れなかったこともある」


 


施設長は窓の外を見たまま言った。


 


「育てたつもりの新人が、三ヶ月で辞めたこともある」


 


「家族に夜明けまで頭を下げ続けたこともある」


 


「それでも次の日には、何もなかったように施設を開けなきゃならなかった」


 


静かな部屋に、施設長の声だけが落ちていく。


 


「最初は一つ一つ覚えていた」


 


「顔も」


 


「名前も」


 


「声も」


 


「でも、覚えていたら回らなくなった」


 


「だから少しずつ、数で見るようになった」


 


「人数」


 


「単価」


 


「事故件数」


 


「稼働率」


 


「退職率」


 


「そうしなければ、立っていられなかった」


 


「でも無理だった」


 


静かな声。


 


諦めだけが残っていた。


 


「利用者は増える」


 


「職員は減る」


 


「事故は起きる」


 


「家族は責任を求める」


 


「国は結果を求める」


 


「だが金は足りない」


 


「時間も足りない」


 


夕陽が差し込む。


 


施設長の影が長く伸びる。


 


施設長は笑う。


 


自嘲するように。


 


「だから選んだ」


 


「利用者一人の希望より」


 


「百人の生活を」


 


「職員一人の想いより」


 


「施設の存続を」


 


「ケアより」


 


「管理を」


 


「天秤にかけた」


 


アリアは何も言えなかった。


 


施設長の言葉には重みがあった。


 


現実があった。


 


きっと。


 


全部嘘ではない。


 


「これは仕事だ」


 


施設長は言う。


 


「ボランティアじゃない」


 


「回さなければ終わる」


 


「回すしかない」


 


そして。


 


最後に言った。


 


「ケアになんて意味はない」


 


長い沈黙。


 


アリアは施設長を見る。


 


怒っていない。


責めてもいない。


 


ただ。


 


悲しそうだった。


 


エドガー。


 


エレノア。


 


古竜。


 


青年職員。


 


様々な顔が浮かぶ。


 


そして。


 


アリアは静かに言った。


 


「嘘です」


 


施設長の眉が僅かに動く。


 


「本当にそう思っている人は」


 


「二十年も続けません」


 


沈黙。


 


施設長は何も言わない。


 


アリアは続ける。


 


「いつからですか」


 


施設長が睨む。


 


「何がだ」


 


アリアは答える。


 


「諦めたの」


 


その瞬間だった。


 


施設長が立ち上がる。


 


初めて感情を見せた。


 


「分かったような口をきくな!」


 


机を叩く。


 


乾いた音が部屋に響く。


 


「お前に何が分かる!」


 


「理想で飯は食えない!」


 


「利用者は増える!」


 


「職員は辞める!」


 


「金は足りない!」


 


「回すしかないんだ!」


 


「回さなければ終わる!」


 


「誰かが選ばなきゃならない!」


 


吐き出す。


 


全部。


 


全部。


 


全部。


 


アリアは最後まで聞いていた。


 


怖かった。


 


手も震えていた。


 


それでも。


 


目を逸らさなかった。


 


長い沈黙。


 


そして。


 


小さく言う。


 


「それでも」


 


施設長が睨む。


 


アリアは息を吸う。


 


答えなんて持っていない。


 


理論もない。


 


論破もできない。


 


だけど。


 


「私は」


 


「利用者さんも」


 


「職員さんも」


 


「大切だから」


 


声が震える。


 


「私には」


 


「天秤にかけられません」


 


施設長が黙る。


 


アリアは続ける。


 


「だから」


 


「まだ選べません」


 


「でも」


 


「諦めたくないです」


 


夕陽が差し込む。


 


二人の影が床に伸びていた。


 


交わることはない。


 


けれど。


 


どこか似ていた。



数週間後。


 


地域支援班による保護が決定する。


 


利用者移送。


調査継続。


 


古竜も対象となった。


 


全てが終わった訳ではない。


 


だが。


 


確かに一歩は進んでいた。


 


誰も勝った顔はしていなかった。


 


青年職員は泣かなかった。


 


ただ、深く頭を下げた。


 


石膏を巻いた女性利用者は、不思議そうに笑っていた。


 


古竜は。


 


もう「分からぬ」とは言わなかった。



移送の日。


 


夕暮れ。


 


古竜がアリアを見る。


 


金色の瞳が細められる。


 


「娘よ」


 


「だから娘じゃありません」


 


久しぶりのやり取りだった。


 


古竜は少し笑う。


 


そして。


 


静かに言う。


 


「どうしたの」


 


アリアが首を傾げる。


 


「お前は最初にそう聞いた」


 


「最後までそうだった」


 


夕陽が赤い鱗を照らす。


 


古竜は目を閉じる。


 


「悪くない」


 


その言葉だけを残して。


 


古竜はゆっくり歩き出した。


第九話 天秤 


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