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第九話 天秤 中編

翌朝。


アリアは資料を抱えて相談室へ飛び込んだ。


リナ。


ミオ。


二人が顔を上げる。


「見つけました」


息を切らしながら。


石膏の女性利用者について説明する。


外出したという証言。


存在しない外出記録。


事故報告書の欠落。


外出制限対象者であること。


全部。


全部。


 


ミオは資料を受け取る。


一枚。


また一枚。


静かに目を通す。


やがて。


小さく息を吐いた。


 


「これは大きいねぇ」


 


いつもの笑顔だった。


だが。


その目だけは笑っていなかった。



調査方針が変わった。


今までは違和感だった。


今は違う。


仮説がある。


事故隠蔽。


記録改ざん。


その可能性。


 


石膏の女性利用者への再聞き取りが行われた。


女性は相変わらず穏やかだった。


笑顔だった。


 


だが。


転倒の話になると。


少しだけ様子が変わる。


 


「外で転んだのよ」


 


そう言う。


 


「どこで?」


 


答えられない。


 


「誰と?」


 


答えられない。


 


「いつ?」


 


答えられない。


 


長い沈黙。


 


やがて女性は小さく呟いた。


 


「怒られちゃうから」


 


部屋の空気が止まる。


 


女性自身も。


何を言ったのか分かっていないようだった。



職員への聞き取りも進んだ。


最初は誰も話さなかった。


だが。


青年職員の証言をきっかけに。


少しずつ綻びが見え始める。


 


不自然な拘束。


 


報告されない怪我。


 


書き直された記録。


 


誰も決定打は持っていない。


 


けれど。


 


誰もが何かを隠していた。



その帰り道。


夕陽が石畳を赤く染めていた。


 


アリアはミオへ聞いた。


 


「どうしてすぐ助けられないんですか」


 


ミオは少しだけ考える。


 


「助けたいからだよ」


 


アリアは意味が分からない。


 


ミオは苦笑した。


 


「急いで助けた結果」


 


「壊しちゃうこともある」


 


「人の生活って意外と脆いんだ」


 


風が吹く。


 


ミオは空を見上げた。


 


「慎重は大事」


 


「でもね」


 


一拍。


 


「慎重を言い訳にして何もしない人もいる」


 


アリアは黙る。


 


「だから難しいんだよ」


 


「いつも天秤」


 


その言葉は。


不思議と胸に残った。



数日後。


地域支援班は正式調査へ移行した。


 


事故記録の不整合。


 


利用者証言。


 


職員証言。


 


改ざんの痕跡。


 


全てが揃った訳ではない。


だが。


十分だった。



そして。


施設長との面談が決まる。


 


アリアは施設へ向かった。


 


何度も歩いた廊下。


 


何度も見た景色。


 


見慣れたはずの場所が。


今日は少しだけ違って見えた。


 


その途中。


 


施設長とすれ違う。


 


「おや」


 


施設長が笑う。


 


「あの時の見習いさんですね」


 


アリアも会釈する。


 


施設長は穏やかだった。


 


利用者へ声を掛ける。


 


職員へ挨拶する。


 


歩みを止める。


 


車椅子の利用者へ膝を折る。


 


目線を合わせる。


 


「お加減はいかがですか」


 


優しい声だった。


まるで。


良い施設長だった。


 


アリアは思わず立ち止まる。


 


本当に。


 


この人なのだろうか。


 


青年職員の涙。


 


古竜の傷。


 


石膏の女性。


 


頭の中に浮かぶ。


 


だが。


 


目の前の男と結び付かない。


 


施設長が笑う。


 


「何か?」


 


アリアは首を振った。


 


「いえ」


 


施設長は穏やかに頷く。


 


そして去っていく。


その背中を見ながら。


アリアは初めて迷った。


 


もしかしたら。


 


自分達が間違っているのではないか。


 


そんな考えすら浮かぶ。


 


「入ろうか」


 


ミオの声。


 


アリアは振り返る。


 


会議室の扉が目の前にあった。


 


胸が重い。


 


理由は分からない。


青年職員の涙。


 


石膏の女性の笑顔。


 


古竜の「分からぬ」。


 


様々な光景が頭を過る。


ミオが扉を開く。


 


部屋の中央。


 


紫のスーツを着た男が座っていた。


 


穏やかな笑顔。


 


あの日と同じ。


 


施設長だった。



第九話 天秤


中編・完

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