第九話 天秤 中編
翌朝。
アリアは資料を抱えて相談室へ飛び込んだ。
リナ。
ミオ。
二人が顔を上げる。
「見つけました」
息を切らしながら。
石膏の女性利用者について説明する。
外出したという証言。
存在しない外出記録。
事故報告書の欠落。
外出制限対象者であること。
全部。
全部。
ミオは資料を受け取る。
一枚。
また一枚。
静かに目を通す。
やがて。
小さく息を吐いた。
「これは大きいねぇ」
いつもの笑顔だった。
だが。
その目だけは笑っていなかった。
◇
調査方針が変わった。
今までは違和感だった。
今は違う。
仮説がある。
事故隠蔽。
記録改ざん。
その可能性。
石膏の女性利用者への再聞き取りが行われた。
女性は相変わらず穏やかだった。
笑顔だった。
だが。
転倒の話になると。
少しだけ様子が変わる。
「外で転んだのよ」
そう言う。
「どこで?」
答えられない。
「誰と?」
答えられない。
「いつ?」
答えられない。
長い沈黙。
やがて女性は小さく呟いた。
「怒られちゃうから」
部屋の空気が止まる。
女性自身も。
何を言ったのか分かっていないようだった。
◇
職員への聞き取りも進んだ。
最初は誰も話さなかった。
だが。
青年職員の証言をきっかけに。
少しずつ綻びが見え始める。
不自然な拘束。
報告されない怪我。
書き直された記録。
誰も決定打は持っていない。
けれど。
誰もが何かを隠していた。
◇
その帰り道。
夕陽が石畳を赤く染めていた。
アリアはミオへ聞いた。
「どうしてすぐ助けられないんですか」
ミオは少しだけ考える。
「助けたいからだよ」
アリアは意味が分からない。
ミオは苦笑した。
「急いで助けた結果」
「壊しちゃうこともある」
「人の生活って意外と脆いんだ」
風が吹く。
ミオは空を見上げた。
「慎重は大事」
「でもね」
一拍。
「慎重を言い訳にして何もしない人もいる」
アリアは黙る。
「だから難しいんだよ」
「いつも天秤」
その言葉は。
不思議と胸に残った。
◇
数日後。
地域支援班は正式調査へ移行した。
事故記録の不整合。
利用者証言。
職員証言。
改ざんの痕跡。
全てが揃った訳ではない。
だが。
十分だった。
◇
そして。
施設長との面談が決まる。
アリアは施設へ向かった。
何度も歩いた廊下。
何度も見た景色。
見慣れたはずの場所が。
今日は少しだけ違って見えた。
その途中。
施設長とすれ違う。
「おや」
施設長が笑う。
「あの時の見習いさんですね」
アリアも会釈する。
施設長は穏やかだった。
利用者へ声を掛ける。
職員へ挨拶する。
歩みを止める。
車椅子の利用者へ膝を折る。
目線を合わせる。
「お加減はいかがですか」
優しい声だった。
まるで。
良い施設長だった。
アリアは思わず立ち止まる。
本当に。
この人なのだろうか。
青年職員の涙。
古竜の傷。
石膏の女性。
頭の中に浮かぶ。
だが。
目の前の男と結び付かない。
施設長が笑う。
「何か?」
アリアは首を振った。
「いえ」
施設長は穏やかに頷く。
そして去っていく。
その背中を見ながら。
アリアは初めて迷った。
もしかしたら。
自分達が間違っているのではないか。
そんな考えすら浮かぶ。
「入ろうか」
ミオの声。
アリアは振り返る。
会議室の扉が目の前にあった。
胸が重い。
理由は分からない。
青年職員の涙。
石膏の女性の笑顔。
古竜の「分からぬ」。
様々な光景が頭を過る。
ミオが扉を開く。
部屋の中央。
紫のスーツを着た男が座っていた。
穏やかな笑顔。
あの日と同じ。
施設長だった。
第九話 天秤
中編・完




