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第九話 天秤 前編

「助けてください」


青年職員は泣いていた。


肩を震わせながら。


何度も何度も言葉を飲み込み。


それでも最後には、その一言を絞り出した。


アリアは何も言えなかった。


ただ。


その言葉の重さだけが胸に残った。



翌日。


王都ケアギルド。


相談室の窓から柔らかな朝日が差し込んでいた。


青年職員は椅子に腰掛けたまま俯いている。


膝の上で握り締めた両手は白くなるほど力が入っていた。


向かいにはリナ。


そして地域支援班班長のミオ。


眠たそうな目をした女性だった。


柔らかな栗色の髪。


穏やかな笑顔。


まるで昼下がりの陽炎みたいに掴みどころがない。


「大丈夫ですよぉ」


ミオは優しく言った。


「ゆっくりで」


青年職員は小さく頷いた。


だが。


すぐには話せなかった。


口を開いては閉じる。


何度も。


何度も。


まるで言葉にしてしまえば何かが終わってしまうみたいに。


やがて。


彼は話し始めた。


利用者への暴言。


長時間の放置。


身体拘束。


事故の隠蔽。


記録改ざん。


職員への圧力。


退職者。


一つ話すたびに顔色が悪くなっていく。


それでも。


全部話した。


全部。


吐き出した。


長い沈黙。


ミオは静かに頷く。


「ありがとう」


それだけだった。


青年職員は目を閉じる。


安堵したようにも。


まだ怯えているようにも見えた。



青年職員が帰った後。


アリアは立ち上がった。


「これだけあれば十分じゃないですか」


思わず声が強くなる。


「利用者が危険なんです」


「すぐ動くべきです」


ミオは少しだけ首を傾げた。


「証拠は?」


アリアが言葉に詰まる。


「証言は大事」


「でも証言だけでは守れないこともある」


静かな声だった。


責めている訳ではない。


ただ。


事実を言っているだけだった。


「でも!」


アリアは拳を握る。


「もし本当だったら!」


ミオは頷いた。


「うん」


「だから調べる」


「ちゃんと」


「最後まで」


その声は柔らかい。


だが不思議と揺るがなかった。



調査はすぐに始まった。


利用者への聞き取り。


職員への聞き取り。


事故報告書。


勤務記録。


面会記録。


様々な資料が机の上へ積み上がっていく。


アリアも同行した。


だが。


思うようには進まない。


利用者は怯えている。


職員は口を閉ざす。


誰も本当のことを言わない。


いや。


言えないのだ。



古竜も同じだった。


居室の窓際。


夕陽が赤い鱗を照らしている。


アリアは傷について尋ねた。


古竜は沈黙する。


そして。


「分からぬ」


そう答えた。


再び尋ねる。


やはり。


「分からぬ」


その言葉だけだった。


あの日見た傷。


鱗の隙間に残った紫色の痣。


忘れられなかった。



数日後。


アリアは一人の女性利用者と話していた。


七十代ほどの人族の女性。


穏やかな笑顔の人だった。


右腕には白い石膏が巻かれている。


「大変でしたね」


アリアが言う。


女性は照れたように笑った。


「転んじゃったのよ」


「外出した時にね」


アリアも笑う。


だが。


違和感があった。


石膏は新しい。


最近の怪我だ。


少なくとも数か月前ではない。


 


「どちらへ行ったんですか?」


女性は少し考える。


「えっとねぇ」


「どこだったかしら」


「忘れちゃった」


困ったように笑う。


不自然ではない。


高齢者ならよくあることだ。


それでも。


胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚が残った。



その日の夜。


アリアは記録室にいた。


窓の外はすっかり暗い。


魔導灯だけが静かな光を落としている。


机の上には資料の山。


アリアは女性利用者の記録を探した。


外出記録。


利用者一覧。


事故報告書。


一枚ずつ確認していく。


 


外出記録。


ない。


 


前月。


ない。


 


さらに前。


ない。


 


事故報告書。


ない。


 


アリアの眉が寄る。


おかしい。


転倒した。


骨折した。


石膏を巻いている。


なのに。


何も残っていない。


 


その時だった。


別の資料が目に入る。


利用者行動制限一覧。


何気なく開いた。


そして。


固まる。


 


女性の名前。


そこにあった。


 


外出制限。


施設長許可制。


単独外出禁止。


家族同伴時のみ可。


 


女性の笑顔が浮かぶ。


「外出した時にね」


あの言葉。


そして。


存在しない外出記録。


 


青年職員の涙。


古竜の傷。


利用者の怯えた目。


バラバラだった点が。


ゆっくりと一本の線になっていく。


 


アリアは立ち上がる。


胸の鼓動が早い。


嫌な予感だった。


だが。


目を逸らしてはいけない気がした。


 


「おかしい……」


静かな記録室に。


その呟きだけが落ちた。


第九話 天秤


前編・完


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