第九話 天秤 前編
「助けてください」
青年職員は泣いていた。
肩を震わせながら。
何度も何度も言葉を飲み込み。
それでも最後には、その一言を絞り出した。
アリアは何も言えなかった。
ただ。
その言葉の重さだけが胸に残った。
◇
翌日。
王都ケアギルド。
相談室の窓から柔らかな朝日が差し込んでいた。
青年職員は椅子に腰掛けたまま俯いている。
膝の上で握り締めた両手は白くなるほど力が入っていた。
向かいにはリナ。
そして地域支援班班長のミオ。
眠たそうな目をした女性だった。
柔らかな栗色の髪。
穏やかな笑顔。
まるで昼下がりの陽炎みたいに掴みどころがない。
「大丈夫ですよぉ」
ミオは優しく言った。
「ゆっくりで」
青年職員は小さく頷いた。
だが。
すぐには話せなかった。
口を開いては閉じる。
何度も。
何度も。
まるで言葉にしてしまえば何かが終わってしまうみたいに。
やがて。
彼は話し始めた。
利用者への暴言。
長時間の放置。
身体拘束。
事故の隠蔽。
記録改ざん。
職員への圧力。
退職者。
一つ話すたびに顔色が悪くなっていく。
それでも。
全部話した。
全部。
吐き出した。
長い沈黙。
ミオは静かに頷く。
「ありがとう」
それだけだった。
青年職員は目を閉じる。
安堵したようにも。
まだ怯えているようにも見えた。
◇
青年職員が帰った後。
アリアは立ち上がった。
「これだけあれば十分じゃないですか」
思わず声が強くなる。
「利用者が危険なんです」
「すぐ動くべきです」
ミオは少しだけ首を傾げた。
「証拠は?」
アリアが言葉に詰まる。
「証言は大事」
「でも証言だけでは守れないこともある」
静かな声だった。
責めている訳ではない。
ただ。
事実を言っているだけだった。
「でも!」
アリアは拳を握る。
「もし本当だったら!」
ミオは頷いた。
「うん」
「だから調べる」
「ちゃんと」
「最後まで」
その声は柔らかい。
だが不思議と揺るがなかった。
◇
調査はすぐに始まった。
利用者への聞き取り。
職員への聞き取り。
事故報告書。
勤務記録。
面会記録。
様々な資料が机の上へ積み上がっていく。
アリアも同行した。
だが。
思うようには進まない。
利用者は怯えている。
職員は口を閉ざす。
誰も本当のことを言わない。
いや。
言えないのだ。
◇
古竜も同じだった。
居室の窓際。
夕陽が赤い鱗を照らしている。
アリアは傷について尋ねた。
古竜は沈黙する。
そして。
「分からぬ」
そう答えた。
再び尋ねる。
やはり。
「分からぬ」
その言葉だけだった。
あの日見た傷。
鱗の隙間に残った紫色の痣。
忘れられなかった。
◇
数日後。
アリアは一人の女性利用者と話していた。
七十代ほどの人族の女性。
穏やかな笑顔の人だった。
右腕には白い石膏が巻かれている。
「大変でしたね」
アリアが言う。
女性は照れたように笑った。
「転んじゃったのよ」
「外出した時にね」
アリアも笑う。
だが。
違和感があった。
石膏は新しい。
最近の怪我だ。
少なくとも数か月前ではない。
「どちらへ行ったんですか?」
女性は少し考える。
「えっとねぇ」
「どこだったかしら」
「忘れちゃった」
困ったように笑う。
不自然ではない。
高齢者ならよくあることだ。
それでも。
胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚が残った。
◇
その日の夜。
アリアは記録室にいた。
窓の外はすっかり暗い。
魔導灯だけが静かな光を落としている。
机の上には資料の山。
アリアは女性利用者の記録を探した。
外出記録。
利用者一覧。
事故報告書。
一枚ずつ確認していく。
外出記録。
ない。
前月。
ない。
さらに前。
ない。
事故報告書。
ない。
アリアの眉が寄る。
おかしい。
転倒した。
骨折した。
石膏を巻いている。
なのに。
何も残っていない。
その時だった。
別の資料が目に入る。
利用者行動制限一覧。
何気なく開いた。
そして。
固まる。
女性の名前。
そこにあった。
外出制限。
施設長許可制。
単独外出禁止。
家族同伴時のみ可。
女性の笑顔が浮かぶ。
「外出した時にね」
あの言葉。
そして。
存在しない外出記録。
青年職員の涙。
古竜の傷。
利用者の怯えた目。
バラバラだった点が。
ゆっくりと一本の線になっていく。
アリアは立ち上がる。
胸の鼓動が早い。
嫌な予感だった。
だが。
目を逸らしてはいけない気がした。
「おかしい……」
静かな記録室に。
その呟きだけが落ちた。
第九話 天秤
前編・完




