第2話 沢のほとり、月桃の香り
声に出すと、自分でもばかばかしく思えた。
ヤマネコが石を返せと言うはずがない。
そんな物語みたいなことが、現実に起こるはずがない。
それでも佳乃は、石をポケットへ戻すことができず、手のひらに握ったまま歩き出した。
遊歩道の先には、小さな展望台があると聞いていた。
そこまで行ったら引き返そう。
道は確かに続いている。
標識もある。迷ってはいない。
それなのに、さっきまで感じていた観光地らしい安心感が薄れ、周囲の緑が佳乃を包み込んでいった。
シダが道の脇で大きく葉を広げ、蔓植物が幹に絡んでいる。
木の根が道に浮き上がり、湿った土の匂いが濃くなる。
どこかで鳥が鳴き、その声は葉の層に吸われて消えた。
足を止めるたびに、握った石の冷たさだけが、やけにはっきりと手のひらに残った。
途中、小さな沢を渡った。
水は驚くほど澄んでいて、石の間を音もなく流れていた。
底の砂利が、差し込む光を受けて細かくきらめいている。
遊歩道のそばには、畑へ通じているらしい細い小道が、木立の奥へ伸びていた。
佳乃は沢のそばにしゃがみ、空いている方の手の指先をそっと水にひたした。
思ったより冷たく、強ばっていた肩から力が抜けた。
リュックから手作りソープを出した。
本当は取り出すつもりはなかった。
東京に帰ってから封を開けるつもりだった。
けれど、森の湿気の中で、どうしてもその香りを確かめたくなった。
紙をほどくと、月桃の青い香りがふわりと立った。
佳乃は石鹸を鼻先へ近づけ、ゆっくりと息を吸った。
心が少し落ち着いて、さっきのヤマネコの目が遠のいた。
そのときだった。小道の奥から、足音が近づいてきた。
年配の女性が、その道を歩いてくるところだった。
白髪を後ろで結び、藍色の作業着の首に手拭いを掛けている。
背中の籠には青菜とゴーヤーが入っていて、長靴は泥で汚れていた。
籠の端からは、月桃の長い葉が一枚のぞいていた。
「あら、いい匂い。月桃の石鹸だね」
女性は沢の縁で足を止め、佳乃の手元に目を向けた。
佳乃は慌ててうなずいた。
「昨日、集落の工房で買ったんです」
「ああ、あそこの。私も昔、少し手伝ってたの。葉っぱを刻む係」
女性は笑いながら、籠を沢のそばの平たい石に下ろした。
それから水で手拭いを濡らし、首筋を拭った。
佳乃は石鹸を手にしたまま、少し迷って言った。
「あの、今朝、森でヤマネコらしいものを見たんです」
「へえ、珍しいね」
女性は目を丸くして、それから、佳乃の左手に視線を落とした。
「あら、きれいな石。黒いのに、白い筋が入ってるんだね」
「浜で拾ったんです」
女性は小さくうなずいた。
沢の水が足元を流れていく。月桃の葉が、籠の縁で小さく揺れた。
やがて女性は籠を背負い直し、よっこいしょ、と立ち上がった。
「さて、畑に戻るよ」
女性は来た小道へ引き返していき、緑の向こうにすぐ見えなくなった。
残された佳乃は、石鹸を紙に包み直してリュックにしまった。
手には、月桃の香りが残っていた。
女性が去ると、沢の水音が急に大きくなったように聞こえた。
時計を見ると、船まではまだ余裕があった。
けれど、ここにこのまま座っていても、気持ちが決まるわけではなさそうだった。
左手の石に目を落とす。
持って帰ると決めて拾ったはずなのに、握り直すたびに、その重さが少しずつ変わっていくようだった。
ポケットへ戻そうとして、指が動かなかった。
佳乃は石を握ったまま、来た道を引き返した。




