第3話 帰る石、残る香り
遊歩道を戻る途中、森が途切れて空が広くなった。
木々の隙間から見える海は青く、森の暗さはもうどこにも残っていなかった。
鳥の声が増え、遠くで車の走る音もした。
現実が少しずつ戻ってくる。
遊歩道の出口で、佳乃はもう一度イリオモテヤマネコの看板を見た。
写真の中のヤマネコは、森の影を背負ってこちらを見ている。
本当にさっき見たのだろうか。
もしかしたら、ただの野良猫だったのかもしれない。
旅の高揚と寝不足が、佳乃の目に特別なものを見せただけかもしれない。
けれど、どちらでもいい気がした。
港へ向かう道で、佳乃は手の中の石を何度も握り直した。
持ち帰れば、東京の部屋の棚に置くだろう。
忙しい日々の中で、ふと目に入るたびに島を思い出すだろう。
波の音、森の湿気、月桃の香り、ヤマネコの目。
それは悪いことではないはずだった。
けれど、石を見るたびに、自分が島から何かを奪ってきたような気持ちになるかもしれない。
奪うほどのものではない。石ひとつだ。
でも、自分にとって石ひとつでないなら、島にとっても石ひとつでないのかもしれなかった。
港の近くには、小さな浜があった。
船の時間までは、まだ少し余裕がある。佳乃は砂浜へ降りた。
昨日、石を拾った浜とは違う。
けれど海はつながっている。島もつながっている。
どこへ返しても、きっと完全に同じ場所ではない。
それでも、持ち去るよりはましだと思った。
佳乃は波打ち際にしゃがみ、握っていた手を開いた。
朝の光を受けて、石の白い筋が細く輝いた。
濡れていないのに、どこか艶やかだった。
「ごめんね」
佳乃は小さく言った。
誰に謝ったのか、自分でもわからなかった。
島にか。
ヤマネコにか。石にか。
あるいは、持ち帰ることで何かを得ようとしていた自分にか。
波が寄せて、佳乃の靴先を濡らした。
佳乃は石をそっと置いた。投げなかった。
記念品を捨てるようにではなく、眠っているものを起こさないように、そっと砂の上へ戻した。
次の波が来て、石の半分を濡らした。
黒と灰色が深くなり、白い筋がはっきり浮かんだ。
さらに次の波で、石は少し転がり、砂に沈んだ。
佳乃はしばらく見ていた。
石はもう、たくさんの石の中のひとつになっていた。
不思議なことに、惜しいとは思わなかった。
むしろ、胸の中に空いた小さな場所へ、風が通ったような気がした。
空になった手のひらを、佳乃はしばらく眺めていた。
やがて立ち上がり、リュックを背負い直した。
船の出発を知らせる放送が、港から聞こえてきた。
東京に戻ってから、佳乃の日常はすぐに元の速度を取り戻した。
満員電車。鳴り続ける通知。
締め切り。画面越しの会議。
昼食を食べたのかどうかも曖昧な午後。
夜遅くに帰って、部屋の灯りをつける瞬間の静けさ。
島は遠くなった。
けれど完全には消えなかった。
洗面台には、西表島で買った手作りソープが置かれている。
佳乃は毎朝、それで顔を洗った。
泡立ちはやはり控えめだったが、手のひらでゆっくり転がすと、月桃の香りがほんの少し立つ。
その香りは、島そのものではなかった。
島を閉じ込めたものでもなかった。
ただ、佳乃の中にある島への入口を、静かに開いてくれるものだった。
石はない。
棚の上にも、机の引き出しにも、リュックの底にもない。
最初の数日は、ふとした拍子に
「あの石があれば」
と思った。
けれどそのたびに、波打ち際へ石を戻したときのことを思い出した。
石はなくなったのではない。
帰ったのだ。
ある雨の朝、佳乃は洗面台で顔を洗っていた。
窓の外では、東京の雨がアスファルトを黒く濡らしている。
車の音が低く響き、隣の部屋の生活音が壁越しに聞こえた。
月桃の香りが、湯気に混ざって立ちのぼった。
佳乃は目を閉じた。
すると、まぶたの裏に西表の森が浮かんだ。
湿った土。沢の澄んだ水。
月桃の葉をのぞかせた籠。
手のひらの冷たい石。
波に濡れて、ゆっくり砂へ沈んでいく黒い影。
そして、琥珀色の目。
佳乃は目を開けた。
鏡の中の自分は、少し疲れた顔をしていた。
けれど以前より、どこか静かだった。
タオルで顔を押さえ、洗面台の石鹸を見る。
淡い緑色の手作りソープは、使うたびに少しずつ小さくなっている。
いつか完全になくなるだろう。
香りも、形も、泡も、全部。でも、それでいいのだと思った。
佳乃はその日、いつもより少し早く家を出た。
駅までの道の途中、植え込みの下から一匹の猫が顔を出した。
灰色の、どこにでもいる猫だった。
猫は佳乃を見ると、少しだけ目を細め、すぐに背を向けた。
佳乃は立ち止まらなかった。
ただ、心の中で小さく言った。
おはよう。
猫は振り返らなかった。
けれど佳乃には、遠い島の森で葉が一枚揺れたような気がした。




